はこ舟 20033月号
内容・もくじ
応答してくださる神
ナイチンゲールの苦しみ(伝記からの紹介)
愛と時間
悪を滅ぼすもの
戦争と平和について   内村鑑三(*)の言葉から
キリストから呼ばれた人 水野源三 詩
返舟だより


リストボタン応答して下さる神    2003-3

 聖書に言われている神、唯一で天地創造の神を信じる人は、日本ではごく少ない。世界的にみても異例のことである。
 どうしてそんな神を信じられないかというと、この世の数々の矛盾や戦争、暴力などがあるのにそんな神がいるはずはないという気持ちも一因である。このように、目に見える出来事を見ているだけでは、私たちは決して唯一の神を信じることなどできないだろう。
 逆に神などいないと思わせるようなことはいくらでもある。
 しかし、そのような悪や混乱のただなかで、どうして世界の数知れない人々が唯一の神を信じることができるようになったのだろうか。
 それは私たちに答えて下さる神を実感したからである。もともと、信仰の父と言われるアブラハムも、神からの語りかけをはっきりと感じて、その神に応えて従ったのであった。応答して下さる神を実感したとき、人はいかなる矛盾や混乱にもかかわらず神を信じるようになる。それは当然であろう。神からの語りかけ、神の平安、神の国の喜びを実際に感じるのであるから神がおられるのを疑うことができなくなるのである。
 そうした応答して下さる神ということは、すでにキリストより五〇〇年以上昔から旧約聖書(イザヤ書)に記されている。ここではそうした箇所から学んでみたい。 

イザヤ書とは、今から二五〇〇年以上も昔に書かれた書物である。イザヤという人物が神の言葉を受けて、語った期間(預言者として生きた期間)は、紀元前七四〇年からおよそ六〇年ほどにもわたると言われる。しかし、以下にあげた、六五章を含む五六章以降は、内容や言葉、書かれている状況などからもっと後期の、キリストより、五百三十年ほど前に特別に神の霊を受けた人によって書かれたものと考えられている。
 旧約聖書には民族としての苦難に直面した状況がしばしば生々しく描かれている。外国の大国が責めてきて、それによって町々は破壊され、多くの人は傷つけられ、殺された。その上、数知れない人々が遠い異国であるバビロンへと連れて行かれたのであった。そのような事態になって、どうして神は聞いて下さらないのか、という深刻な疑問が人々の間に生じてきたのである。

神はどこにおられるのか。
モーセによって海のなかにも道をつくって、襲ってくるエジプトから救い出された神、
そして民のうちに、聖なる霊を置かれた神、
その神は、どこにおられるのか、

どうか主よ、天から見て下さい。
わなたの熱情と力ある御業、
あなたのあふれる思いと憐れみとは
いま、抑えられていて、示されていない。 (イザヤ書六十三章1115より)

私たちの聖なる町々は荒野となった。
私たちの輝きであり、聖所であり、先祖が神を讃美した所は、
火に焼かれ、廃墟となった。
それでもなお、主よ、
あなたは、黙して私たちを苦しめるのですか!(同六四・911より)

 このように、苦難のときには神がおられるということがわからなくなる。かつては海に道をつくってその万能を現された神、その神の働きは今はまったく見られない。どうか主なる神よ、私たちにあなたの御業を示して下さい! あなたの憐れみや愛がどこにも感じられないのです!

 こう神に向かって叫ぶ心の状態がこの箇所ににじみ出ている。
 私たちもまた、しばしばこの著者と同様に、神に向かって訴えることがある。「神が私のこの苦しみをどうして見ては下さらないのか、神は愛であると言われているのに、そしてかつてはその愛を実際に感じていたのに、今は私にはその憐れみすらも抑えられて感じることもできない」と。
 このように、神を信じる人があまりの苦しみや悲しみに打ち倒されそうになりつつも、必死で神に、み姿が見えるように、そのわざが分かるようにと、懸命に神に向かって叫ぶ姿がある。
 こうした叫びは旧約聖書の詩集といえる、詩篇にも多く見られる。
 そしてそのような叫びと祈りこそは、神のみ許に届けられる。このイザヤ書においても、つぎのような神からの応えが記されている。
 それが次の聖書の言葉である。

わたしに尋ねようとしない者にも
わたしは、尋ね出される者となり
わたしを求めようとしない者にも
見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも
わたしはここにいる、ここにいると言った。

 背く民、思いのままに良くない道を歩く民に
絶えることなく手を差し伸べてきた。(イザヤ書六五・12

 人間がまず働きかけたのでなく、まず神の側からこのように、たえず働きかけておられるのであった。聖書においては、このことが基本的な事実となっている。神など存在しないと考える人にとっては、人間か、偶然か、あるいは運命などのいずれかが人間を動かしていると考えている。
 しかし、神を信じる者にとっては、その神は生きて働いておられる神であるゆえに、必ず聞いて下さっているし、その応答を与えて下さる神なのである。
 人間でなく、神の方からまず、働きかけていて下さっている。ここに神の愛がある。神の生きた命がある。人間であっても、心が愛にうるおされているとき、苦境にある者を放置しておくことはしないであろう。相手が来るのを待つのでなく、こちらから出かけていくだろう。それと同様に、神は完全な愛のお方であるから、人間が求める先から私たちに働きかけてくださっている。
 まだ尋ねようという意思がないような者にすら、神は現れて下さるのである。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さった。(ヨハネの手紙四・1019

 ヨハネの手紙が繰り返し強調しているのは、このことである。これは一見意外なことが言われているようであるが、これは神の愛にふさわしいことなのである。
 愛するとは大切に思うということである。キリシタン時代には、「愛」という言葉は、「執着」というニュアンスが強いために、聖書に現れる神の愛のことを、「ご大切」と訳した。それは、神の愛のある側面を言い表している。あるものを愛するとは、それを大切に思うことである。私たちは神を大切な存在としては、だれでも全く思ってもいなかっただろう。私自身、愛や真実に満ちた神が存在するなどとは夢にも思わなかったし、周囲の生徒や教師たちも同様であった。私は神を大切なものとはまったく思っていなかったのである。しかし、驚くべきことに、一見いないと思われる神が、私のことを「大切に思ってくれていた」ということに気付いたのは、ずっと後であった。
 
 このように、神の方から私たちに絶えず語りかけてくださる、応答してくださる神の姿は、つぎの箇所にも印象深いかたちで記されている。

彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え
まだ語りかけている間に、聞き届ける。 (イザヤ六五・24

 神の定めた時至れば、新しい天地が創造される。そのときには一切が新しくされる。その重要な内容がこの言葉で現されている。それは魂の深いところで応答して下さる神ということである。
 私たちは人間関係でも、応答の欠如によって悩まされていると言えよう。
 だれかに何かを話しかけても、その人が返答もしないとき、その人間関係は成り立たない。同様に、手紙を出しても返事も来ないという状態になると、その両者の関係はすぐに冷えていくだろう。
 山や川、大空など自然に対しても同様であり、私たちがそうした自然に呼びかけるとき、自然が応えてくれると実感するとき、その人はますます自然との対話、交わりの世界へと進んでいく。実際はしばしば逆であって、私たちが呼びかけるよりずっと先から、自然の方からありとあらゆる変化や美しさ、力、壮大さ、清さなどをもって、私たちに語りかけているのである。しかし、私たちの方がそれに全く反応せずに、答えもしない。そのような状態では自然と人間との関わりは深まらず、消滅してしまう。
 また、応答があってもそれが不真実なもの、愛のない応答であればいっそう互いのつながりを弱めたり、断絶したりすることになる。例えば悪口、非難の言葉の応答となると、そのような応答などはしないほうがよい。結局私たちが求めているのは単なる応答でなく、愛と真実のある応答だということになる。
そしてそうした応答を人間は十分になすことは到底できない。精一杯真実に応答したと思っても、自分の弱さが分かっていないからそれが大きな嘘となり、不真実となる場合がある。
 聖書の例でいえば、ペテロは主イエスがもうじき殺されるとほのめかしたとき、「死んでも従っていきます!」と勇気ある応答をした。しかしそのすこし後になって、主イエスが捕らわれていった後で、三度も激しく主イエスと関わりある人間でないと言ってしまったのである。
 このように、命がけで、主に従っていく、という真実にみえる応答は嘘となり、不真実な応答にすぎなかったことになる。
 人間同士で真実な応答を求めていっても、このように誰もがおそらく私たちはすべて不真実な応答関係にあることを思い知らされるであろう。人は未来に生じることは分からないし、現在生じていることにも考えが様々であり、また見抜くことができないために間違って事態をとらえていることも多い。そうなるとやはり不真実な応答だということになってしまう。
 こうした中で、ただ神、あるいは主イエスの応答だけが、真実なものだと言えよう。このイザヤ書の箇所は、私たちの前途がこのような生き生きとした神との応答があるものに変えられるという約束である。そしてその約束は、はるか未来とか世の終わりなどの、いつか分からないような遠くのことでなく、私たちが生きている今、部分的にせよ与えられるという約束でもある。
 福音書において、こうした神の応答、主イエスの応答ということはどこに記されているだろうか。
 応えて下さる神がもし、はるか彼方にのみ存在するのなら、十分な応答は期待できない。しかし私たちのすぐ近くにいて下さるならば、すぐに答えて下さるであろう。
 キリストの復活以後は、そうした応答してくださる神は旧約聖書のときと比べると比較にならないほど近くに来て下さった。それは、パウロが述べているように、私たちの内にキリストが住んでくださっているほどである。私たちのからだは、神が住んでいるのである、あなた方はそれが分からないのか、とパウロがギリシャのある都市の信徒たちに教えている箇所がある。

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのか。あなたがたは神殿なのである。(コリント 三・1617より)

 また、私たちの存在の中心にキリストが住んで下さっていることについてはつぎのように言われている。
信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エペソ書三・17

 また、次の箇所はよく知られている。

生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられる。(ガラテヤ人への手紙二・20より)

 これらに共通しているのは、キリストは旧約聖書の時代と違って、いかなるものよりも近いところ、すなわち私たちの魂の内に住んで下さっているということである。
 私たちの内に住んで下さっているのなら、最も近い存在であり、いつでも会話ができる状態にある。
さらに、キリストは最後の夕食のときに、聖霊を待ち望む者すべてに与えると言われた。
 その聖霊による新しい交わりこそは、ヨハネがその手紙で述べているように、神の命との交わりなのである。

わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの、(神のいのちによる)交わりを持つようになるためである。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりである。(ヨハネ一・3

 このような、神とキリストとの交わりとそれを基にした他者との交わりにおいては、いつもふさわしい応答が与えられる。応答の欠如に悩む現代、愛の冷えてきつつある人間関係のただなかにあって、真に私たちを満たしてくれるのは、このような生きた応答の世界であり、それが聖書の約束していることなのである。
区切り線
音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。