価格と価値 2003/4
この世的な人間とは、「この世のいろいろのものの価格(値段)を知っている、しかしそれらの価値を全く知らない人間」だと言われる。
価格と価値、このふたつの言葉は、文字も発音も似たようなところがあり、意味も部分的に重なっているところもあるために、この違いがはっきりと知られていないと言えます。
たしかに価値があるから価格(値段)がたかくなるわけです。そのために価格と価値を同じものだと錯覚してしまうことが非常に多いといえます。
しかし、さきにあげた言葉の意味は、価値という言葉を、神の前での価値というようにより正確にいう必要があります。真実で愛の神がどのように価値あるとみなすかということです。
この世的に生きるのが上手な人間とは、その価格を知っている、計算で考える。これをすればどれほどの金が入るか、どんな名誉が入るか、といったことをまず考えてしまう。
ものを見ても、例えば家を見るとそれがどれほどの価格なのか、衣服や車など、また出世や仕事でも、いくらの収入があるかといったことです。
世の中はそうした「価格」で動いているといえるほどです。毎日、株がいくらになったということが報道されているのも、株の価格の如何によっては、会社の存亡にかかわってくるからです。何かをする場合でも、金にならなければやらない、というのは当然のこととなっています。
しかし、ここでそうした金に関係のない、いや、金に決して換えられない価値の世界があることに気付くとき、ものごとを価格でなく、価値という面から見ていくことに変えられていきます。例えば、空の青い風景やそこに浮かぶ真っ白な雲は、価格は何もない。値段などそこには議論にもなりません。
しかし、そうした自然の風景は、私たちの魂にとってそれをよく用いる人にとっては大いなる価値をもってきます。それはたった一つの聖書の言葉も同様です。わずか数行の聖書の言葉など、価格はなにもつけられません。しかし、その価値は時として絶大なものがあります。それは人間の一生を変え、その変えられた人間の生涯の活動によってその人の周囲にも大きな変化がもたらされることがあるからです。
私自身にとっても、その人生の歩みを根本から変えられたのは、わずか数行の聖書の言葉であり、その聖書の短い言葉についての説明でした。それは私にとってはほかのどんなものにも変えられない価値を持ったことになります。
路傍の小さな野草の花であっても、それは価格という面からみれば何の値打ちもない。しかし、それが心開かれた人にとっては、大いなる価値を持つのであって、心の栄養となっていくのです。
キリストは、当時の人たちにとって何らかの物を生産するのでもなく、何も価格のあるものを生み出すことはないと思われました。それどころか当時の学者や指導者たちの腐敗や間違いを厳しく指摘したために、自分たちの地位とそこからくる権威やもうけなどを奪われると思って、キリストを捕らえ、とうとう殺してしまったのです。
金になることに使えない人間、自分たちが金を獲得しようとして不正なことをやっていることを指摘するような人間は邪魔者だということになったのです。
わずか三年の活動で十字架にかけられて処刑されてしまったキリストは、この世の価値としてはいわばゼロだとされてしまったわけです。
しかし、そのようなキリストがどれほどの価値を人類全体に対して持っていたかは、その後の歴史が証明していきました。キリストは、本当の愛とか真実とかについて、その最も深い意味を人間に教え、それをこの歴史のなかに刻んできたし、今日では当たり前となっている福祉といった考え方もキリストのなかから生じてきたわけです。
また、この世においては、まず健康で、知的にも優秀な人間が価値あるものと見なされます。だからこそ、有名大学へと多くの人は目指すのであり、企業も有名大学出身者を採用しようとするわけです。
病気や障害者であって、ふつうの会社の仕事もできない状態であればそれだけで、この世では価値のないものと見なされることがあり、就職もできなくなってしまいます。
学校の教員になるにも、大学を卒業して、教員免許を持っていなければもちろん教員としては価値なきものとされて採用の範囲外に置かれてしまいます。
しかし、ひとたび神のみまえでの価値はどうかということになると、この世とはまったく異なってきます。それは、どんな人でもかけがえのない価値を持っていると見なされるからです。
ある人が重い犯罪を犯して、死刑になるとすれば、その人はこの世では価値はゼロどころかマイナスであるからその存在を抹殺してしまうということです。しかし、神はそのような人であっても、神のみまえに悔い改めることを望んでおられます。キリストは、そうした重い犯罪人であって、もう殺されてしまうという寸前の人が、悔い改めてキリストへの信仰を表したとき、その人に「あなたは今日、パラダイスに入る」と約束されたのです。
これはこの世の価値と、神のみまえでの価値とがいかに異なるかをはっきりと示す例です。
また、つぎのような主イエスの言葉も同様です。
悔い改める一人の罪人については、悔い改めの必要がない(と思っている)九十九人の正しい人たちよりも大きな喜びが天にある。(ルカ福音書十五・7)
言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。(ルカ十五・10)
これらの箇所は、神がどんなことに価値を見いだしておられるかを示しています。人間に関して大いなる喜びが天にあるのは、人間がいろいろのよい行いを重ねることや、有名になること、あるいは地位が高くなったりすることでもない、ただ私たちが、心から悔い改める心だと言われています。それは私たちが、自分の心がどうしてもよくならないことを思い知って、神に心の方向を転じ、それを赦して下さいと、主に祈り願う心、その単純なことが一番喜ばれるというのです。
天や天使たちのところで大きい喜びがあると特に記されているほどに、この悔い改めの心、神に立ち帰る心は価値あるものだということです。
この世では、このような心は金の計算にはならず、なんの価値もないとみなします。だから新聞、テレビなどでもそんな罪からの悔い改めなどということはまったく相手にされていないのです。そうしたマスコミで大々的に取り上げるのは、金の関わること、つまり政治や経済、また金のからむ犯罪や事故、またプロスポーツなどのことなどです。
有名になること、地位があがること、財産がゆたかになることなど何の関係もない人々、病気やからだの障害、あるいは老齢などで、価格(金)に関わるようなすべてが失われてしまった人たちはこの世では価値なきものと見なされることが多いのです。
しかし、神はそうした人たちが、日々神に立ち帰り、主を仰ぎ見ることを一番価値あるものとして喜んで下さるという、その証しとして、そのような単純な心で神を仰ぐ者には、生きているときから天の国の賜物が与えられると約束されています。
ああ、幸いだ。心の貧しい者たちは!(マタイ五・3)
私たちはどんなに信仰をもっていても、信仰の歳月を重ねてもなお、心のなかでふとした罪、愛でなく怒りとか無関心や憎しみを心によぎらせたりすることがあります。そのような弱いものであっても、そのときに気付いて、キリストの十字架を仰ぐとき、そのような私たちをも愛するものとして受け入れて下さる神の愛を実感することができます。まわりのすべての人から見下されようともなお、神のそうした愛の一瞥があるなら私たちはそれに耐えることができ、かえって人間の無理解のただなかにいっそう深い平安を感じることができるものです。
人間はその弱さのために、価格のあるものに目が奪われそうになりますが、神は一貫してこの世の価格とはまったく異なる、真に価値あるものを大切にして下さっています。私たちも主イエスにつながるとき、価格でなく、神のみ前での価値あるものを見つめて生きるように導かれるのです。