聖書の詩から(詩篇第一編より) 2003/4
いかに幸いなことか…
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、栄える。
神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。(詩篇第一編より)
旧約聖書における詩は、詩編と称されるものだけでなく、イザヤ書やエレミヤ書などの預言書にも多くみられる。詩経、文選、唐詩など中国の詩、万葉集、古今集などの日本などにも残されている詩との大きな違いは、単に人間の感情にとどまらず、神との関わりのなかで生み出された詩であるということである。
私たちの心はさまざまのことによって動かされる。そしてその心の動き、感動ということは、身近な植物のすがたや夕日や青空、雲の動きによっても生じるし、また人間同士の関わり、親子、友人、異性などによっても生まれる。ことに異性によって心が動かされるということは、古今東西を問わず、日本や中国の詩集を見ても実にたくさん見られる。
しかし、聖書にみられる詩はその点において、根本的な違いがあるのに気付かされる。聖書に収められた詩集である詩篇には、単なる恋愛歌や、親子、友人との愛情のようなものは一つも収められていない。
詩篇の冒頭の第一編には、詩編一五〇編全体の精神が込められた詩が置かれている。
ここには、単に花鳥風月のすがたに感じるというのでなく、神の厳然とした摂理への感動がある。この世界は表面的には偶然から成っていて、強いものが弱いものを餌食として成り立っているように見える。しかし、その背後には、科学的法則のように不変の法則がある。そうした法則への感嘆の心と讃美の心がここにある。人間は何に心を動かされるか、乳児のときにはミルクを与えてくれる母に心が動かされ、ひかれるのであって、これは野生動物と同様なところがある。そこから、次第に食物といった本能的なものから広がって、人間関係の中で自分と共通の楽しみを与えてくれる心通う友、同性、異性を問わず心動かされるようになる。さらに、そうした目にみえる益を与えてくれる人間だけでなく、花や山川、小鳥などの存在によっても心が動かされるようになっていく。それが広がって、国家社会などの問題にも心の関心は広がっていく。
しかし、もし私たちが天地創造の神、無限の深みをもった真理と愛の神を知らなかったら、そこまでで止まってしまう。
世のなかの詩はみんなこうした段階にとどまっているのを感じさせるものである。人間の世界ばかり、目に見える世界だけで動いているという感がある。
こうしたこの世の詩と根本的に異なる詩こそが、聖書の詩である。
それはこの詩篇第一編にもみられるように、神中心とした心の感動である。それは平板な記述ではない。この世というのは、一見不正と偶然、強いものの支配といった状況が目にとまる。しかしひとたび心の目、霊的な目をもって見るとき、愛と真実にみちた神は存在し、その神がいっさいを支配しておられる、そこにこの詩の本質がある。
こうした驚くべき神の御支配とその力の世界全体への浸透に対して、そのことを知らされた者は、沈黙していることができない。またそのような生きてはたらく神への呼びかけを止めることができない。その神からの語りかけ、神に示されること、神によって変えられたこと、それらが波が押し寄せるように人の心にうち寄せ、また人の心からも神にむかって送り出されていく。それがこの旧約聖書の詩である。
神が天地万物を支配されている、そのことを最も深く実感させるのは、人間の精神の世界、心の問題においてであろう。いかに驚くべき花の美しさがあっても、悪がはびこり偽りが最終的に勝利してしまうのだとしか思えない心にはその花の美しさもある種の哀しみをもよおすものとなりかねない。こんなにも美しい花、純粋な自然であっても空しく悪によって滅びるのだ、悪が自然を破壊していけば最終的には消滅してしまうのだという気持ちになってしまう。
しかし、悪が勝利するのでなく、最終的には愛なる神が勝利するのであれば、自然の美しさもそのような神を象徴的に表しているものとして受け取ることができる。はかない美しさということでなく、永遠の神の美しさの象徴として感じることができるのであって、それは花のはかなさとかでなく、神の岩のごとき永遠不動性とともに、美と清さの究極的存在としての神をも思い浮かべることができ、それに接する私たちの心をも清めを受けることができる。
こうした、神の悪への支配と勝利ということは、もっとわかりやすい言葉で言えば、完全な善きこと、美しきこと、きよいこと、また真実なことが、憎しみや殺意、ねたみ、不真実、自分中心的欲望などなどにうち勝つのだということである。しかもその勝利は一時的とかだれかの空想などでなく、いかなることにもまして確たる真理であるということなのである。
このことに気付かされた者は、心を動かされずにはいられない。それが自然科学の法則と同様に不動の法則であるということで、そこに心動かされた人は、詩篇の作者にとどまらず神を信じ、主イエスを受け入れた人たちのなかから数かぎりなく現われていった。
そしてキリスト以後は、十字架で主イエスが死なれたということが、人間の罪をあがなうことであり、それを信じるだけで、罪が赦され、清められるということがわかった。その罪は、私たちの心に長く積もっていた不快なもの、重苦しいものであり、それを放置しているとだんだんと人間そのものを圧迫していくものとなのである。
キリストの十字架の死が、罪というまったく一見関係のないようなことに、深くつながるのだと実感しとき、そこに驚くべき法則を見ることができる。それは信じたらただちに、罪の赦しを与えられ生活が変わっていくという事実がある。そしてその事実は千年、二千年の歳月が流れても変わることがない。
その十字架によって罪赦されるという簡明な真理への驚きは以後無数の詩を生みだしていくことになった。それは曲が付けられて、多種多様の讃美歌、聖歌、ゴスペルソングなどとなって現在もつぎつぎと生み出されている。
このように、聖書に関わる詩というものは、神中心に生み出されていく。
この詩篇第一編において、真の幸いとは、み言葉を中心にすることだと言われる。
いかに幸いなことか…
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。(詩篇一・3)
…their delight is in the law of the LORD,
and on his law they meditate day and night.(NRS)
ここで、主の教えと訳された原語(ヘブル語)は、トーラーという。この語は旧約聖書では二二〇回ほど用いられており、律法、おきて、教え、規定、教訓などと訳されている。現代の私たちに入ってくる訳語は「神の言葉」であろう。その人の喜びが、神の言にあるとき、その人は大いなる幸いにあるといわれている。神の言葉を喜びとするとは、神の言を愛していることであるから、ここでは「主の教えを愛する」と訳されている。またその神の言葉を昼も夜も口ずさむとは、神の言がいつも魂の奥深くにあって、離れることがない状態を表している。私たちの心には、何がいつもあるだろうか。多くは、日常の生活のなかのことであろう。子供のときは食物、遊び、あるいは勉強のこと、友達のこと、大人になれば仕事のこと、家族や職場の同僚、地位役職のこと、そして世間の出来事のこと等などがつぎつぎと心に流れこんでくる。そうしたことはすべてこの世のことであり、移り変わるものである。
しかし、この詩篇第一編においては、神の言が第一の関心事となっており、周囲の人間のこと、仕事のことを考える場合でもまず神の言をめぐってそれらが考えられるのである。主イエスが、まず神の国と神の義を求めよといわれた精神がここにある。
しかもそれは喜びが伴っている、それは神の言葉への愛があるからである。神のおきてなどというと到底喜びなどが沸いてくるようには思えない。日本語の訳語一つでまるで感じが変わってくるのである。
神の言葉は愛なる神のお心の現れであるなら、その神の言葉を思うことは、喜びとなるのが本来だと言える。神の言葉が喜びに感じられないということは、すなわち神ご自身をも喜びをもって思うことができないということになる。
神を喜ぶ、これこそは私たちの究極的な目標である。人間の目的は神を喜ぶことであり、これが与えられている人はすでに人生の目的を達していると言われているほどである。神を喜びとすることは、その人の心のなかで、神の勝利がなされていることであり、悪への誘惑にうち勝ったしるしであり、たえず光に向かって日々を過ごしていくようになった魂を現している。
この詩篇の冒頭にそのような、神を喜び、神の言葉を喜びとする魂のすがたが描かれているのは詩篇全体を思い浮かべるにおいてもとてもふさわしいものとなっている。
ここで、口ずさむと訳されている原語は、「思う、考える、瞑想する、黙想する」などという意味にも訳されている。英語訳では、ここにあげた新改訂標準訳(NRS)も meditate (黙想する、瞑想する、十分に考える)と訳しているのが、多数を占めている。
神の言葉をいつも心に思い、神の言葉に沿って物事を考え、神の言葉によって力を与えられ、神の言葉によって前途への希望を抱きつつ歩む、そうしたみ言葉中心の生活の祝福は主イエスも語られた。
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。(ヨハネ十五・7)
望むものが何でも与えられるという約束はすばらしいものである。しかしその前提条件がある。それが、主イエスにいつもつながっていて、主イエスの言葉がつねに私たちの内にとどまっているということとされている。これは、詩篇第一編の、主の言葉をつねに思っているということと同様な意味を持っている。
このように主イエスの内にとどまるときには、私たちが望むものが与えられる。それは霊的な賜物であり、目には見えない天の国の良きものである。それがこの詩篇では、「実を結ぶ」と言われている。実とは、何か。それらはパウロが、愛、喜び、平和…と言ったが、そうしたものは神の持ち物であって、天の国にあるものと言える。そうしたものが、確かにその程度は人によっていろいろであろうが、与えられるようになる。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ十二・24)
一粒の麦が死ぬということ、それはみ言葉がその人の魂に深くとどまっている姿である。私たちが人間的なものに深く結びついているとき、自我が私たちのうちに大きく居座っているときには、神の言葉はとどまることができない。そこにはいつも自分の人間的な願望や他人からの言葉、マスコミや新聞、雑誌にあらわれている多種多様な人間の言葉ばかりがとどまってしまう。
み言葉が心につねに宿っているとき、いのちの水がその魂を浸し、そこに緑の木が生えてきて、実を結ぶ。
大地からは春になると、つぎつぎと草木の芽が出てくる。雨が降り、水にうるおい、地中の養分があり、太陽の輝く時間が長くなり、温度が適当になるときにそのように成長がみられる。私たちにおいても、み言葉をいつも思っているときには、そのみ言葉が、養分であり、雨水であり、暖かさだといえる。
預言者という人たちは、そうした神の言葉に深くとらえられ、いかなる批判や中傷に直面しようとも、神の言葉から離れずに、み言葉によって生じた正義や忍耐、同胞への愛をもって語り続けた人だったのである。
こうしたみ言葉によって祝福された状態は、いのちの水にうるおっている状態として記されている。これは、私たちの言葉で表現するとすればこのようにしか表せないのであろう。
聖書の最後に置かれている、黙示録においても、最終的に悪が滅びたのちに来る世とは、やはり、命の水でうるおされ、そのゆえに実り豊かな状況だと象徴的に記されている。
天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。(黙示録二十二・1~2)
このようなうるわしい姿と鋭い対比が、この詩篇の後半部でみられる。
神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。(詩篇第一編より)
すなわち、神に逆らう者のたどり行く道が記されている。悪人とか神に逆らうということは、聖書においては、真実と正しさに満ちた神に逆らうということであり、純粋な愛に反対の心ということである。それは不正であり、不真実であり、憎しみや高慢、あるいは無関心ということである。こうした心を抱いているとき、最終的には当然その人の心はすさんで、固くあるいは汚れてしまうということは容易にわかることである。嘘をついて、人を欺いていてそのような人の心が清く、愛に満ちたものになるなどだれも考えたりしないだろう。
しかし、日本人はほとんどが唯一の神などいないと思っているので、神に逆らうとかいっても何ともないという人が多い。しかし、それは単に神を言葉の上で信じないということでなく、真実そのものを否定して、嘘や不真実であることを平気でやるということである。こうした心を持っている者、しかも悔い改めも受け付けないような人は、その人間そのものが軽くなってしまう。
「風に吹き飛ばされる籾殻」のようになるという。真実を与えられている人ほど、どこからともなく、その人から重みが感じられるようになる。旧約聖書で「栄光」と訳されている原語(ヘブル語)は、「重い」という言葉から作られている。神の栄光を知るとは、神の霊的な重みを実感するということでもある。神のもっておられる果てしない多くのものを知るのは確かに重みを与えられることになる。
しかしそうした真実を原理的に否定するような心は、確実に軽くなり、神の重みとは正反対の状態となっていく。それがここにいう、「風に吹き飛ばされる」ということである。
そしてそのような人間の魂は最終的には、滅びてしまうのである。人間はすべて滅びるものだと考える人は多くいる。しかし、キリストの復活がなされたということは、こうしたあらゆる滅びへの力に抗して、いかなることによっても決して滅びない神のいのちが与えられるということなのである。