真理と繰り返し 2003/5
キリスト者は同じことを繰り返し、他者に伝えようとしてきた。話すことも、書くことも、祈ることもである。キリストが復活したこと、そして死の力に勝利されたこと、キリストは神と同質のお方であり、十字架で万人の罪を担って死なれたこと、それをただ信じるだけで心のなかに積もりつもった罪が赦され、清められ、憂い、悲しみなどが驚くべきほどに軽くされること、信じるだけで、聖なる霊、神の命そのものである永遠の命が与えられること、そして最終的には、この世の悪は滅びて、神の真実と正義に包まれた愛の力が勝利して、「新しい天と地」が訪れること…。
この「はこ舟」誌にも本質的には同じことを書き続けてきた。
二〇〇〇年という歳月、キリスト者たちはこの単純な真理を信じて、繰り返し述べてきたし、それが真理であることを繰り返し体験してきた。
私たちは、啓示により、神からの一方的な恵みによって、この真理を信じるようになった。それはすでに信じてキリストを受け入れている人によって知らされることもあるし、すでにこの世にいない著者の書物によって知らされ、信じるに至った人もいる。
ある人は、この真理を死ぬほどの苦しみを通して、また再起できないと思われるほど深い悲しみを通して またある人は、生涯の人生を通して徐々に知らされてきたであろう。
讃美歌にしても、同じ讃美を百年も歌ってもなお、飽きずに愛唱されている讃美はたくさんある。日曜日ごとに歌う讃美はある讃美集に含まれる讃美の繰り返しである。ほとんどの教会は、伝統的な「讃美歌」あるいは「讃美歌21」、「聖歌」、「新聖歌」などを基本としている。それらを何十年も繰り返し歌ってきても、なお味わいは尽きないのである。
そこで歌われている歌詞はやはりすでに述べたように、十字架の罪の赦し、復活の信仰などが基本の内容となっている。
なぜこのように、長い年月にわたって繰り返してもなお飽きることがないのだろうか。
それは、同じ聖書の言葉であっても、それを語る人、書かれた文章、書いた人に神が働かれるからである。そしてそれを聞く人、読む人に対して神がその魂を動かし、聖霊が働くからである。聖なる霊が働くとき、どんなに単純なことや繰り返しであっても、そこに豊かさと変化を感じさせてくれるからである。
逆に神の国からの賜物が働かないとき、どんなに変化のある題材であっても、興味を引く筋書きの小説であって、魂を満たすことはなく、それらはつぎつぎと時間というふるいにふるい落とされて消えていく。
また、この世でどんなに誉められても金があっても、健康と家庭も恵まれてもなお、それだけでは深い魂の満たしは感じられない。
私たち人間は、天地の創造主である神のもとに魂を休ませて初めて満たされるように造られているからである。
それゆえに、私たちは語る内容が同じであろうと、用いる讃美が昔からのものであろうと、また用いる聖書が同じ箇所であろうとも、神のはたらきを願いつつ、その同じことの繰り返しを続けていく。
その繰り返しのなかに、神は新たな芽を出させ、聖なる霊がはたらき、心にゆたかな流れ、神の国からの命の流れを注いで起こして下さるからである。
主イエスが言われた次の言葉はこうした内面の満たしを指している。
わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書七・38)
悔い改めよ、天の国(神の国)は近づいた!
この主イエスの福音伝道の最初に記されているメッセージは、短い言葉のなかに多くのことを暗示している。また私たちにさまざまのことを関連して思い起こさせるものがある。伝道ということは、何を心にいつも思っておらねばいけないのか、何を伝えるのかといった点についてこの短い言葉によって考えてみたい。
この言葉は二つの部分から成る。まず、「悔い改めよ」である。この原語は、メタノエオーというギリシャ語である。これはメタという接頭語と、ノエオーという言葉から成る。メタという接頭語は、転じるという意味を持っている。(*)ノエオーという言葉と語源的につながっている語はヌースであり、これはプラトンやアリストテレスの著作の日本語訳では、しばしば「理性」と訳されている。
(*)メタという語は、ほかに、「~と共に」、「~の後で」などという意味もある。
そういう意味から考えると、メタノエオーというのは、理性的転換と言えるのであって、感情的に何かの罪が悪かったと思うことではないと考えられる。
さらにこのギリシャ語の背後にある、旧約聖書の言葉は、シューブというヘブル語であって、これは、「転換する、方向を転じる、戻る」といった意味を持っている。(英語では、turn , return)まず、旧約聖書において、神への方向転換ということがどのように記されているかを見てみたい。
聖書の最初に創世記がある。そこに、「天に通じる階段」のことが記されている。信仰の父といわれるアブラハムの孫にあたるヤコブが、兄を欺いて長子への祝福を奪ったので、兄が怒り、憎しみのあまり、ヤコブを殺そうとまで考える。そのときヤコブは、母親の助言ではるか遠い親族のところへと一人旅立っていく。その途中の砂漠のような荒野にあって、ヤコブは驚くべき夢を見た。それは、つぎのように記されている。
すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは…神、主である。この土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(創世記二十八・12~17より)
この箇所は、多くの人の関心をひいてきたところである。何もよいことをしたわけでもなく、かえって兄を欺いたことで憎しみを受けてたった一人で前途の不安や危険を胸一杯に感じながら、旅していく、そうしたただなかにこのような驚くべき啓示が与えられた。これは、神ご自身がヤコブに迫って、ヤコブの魂を神の方向へと方向転換させた出来事であった。聖書の記述でみるかぎり、ヤコブはまだ、危険な前途の旅に出るにあたっても祈りもなく、神への信仰ははっきりしたものとなっておらず、ただ人間の考えや計画などにとらわれていたと考えられる。ヤコブの魂は、この出来事によってはじめて神への方向転換をすることが与えられたといえる。
神の国は、どこにも見えなかった。しかし神が彼の魂に働きかけて方向転換させ、ヤコブもそのときにはっきりと目覚めて、荒野のただなかにおいてすら
、「天への門」がそこにあるのだと実感したのである。
旧約聖書のなかの預言書などで、多くもちいられているが、方向を転換する、という言葉は、すでに述べたようにヘブル語では「シューブ」という。この言葉は新共同訳続編も含むと、九十回ほども、「立ち帰る」と訳されている。
このような多くの用例は、この語の重要性を意味しているし、それはすでに旧約聖書から根本的に重要な内容を持っていることがうかがえる。この語は聖書全体にわたってたくさん用いられている。ことにイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言書に多く、エレミヤ書だけでも十七回ほども使われている。
ここでは、イザヤ書の箇所をあげておく。
まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。(イザヤ書三十・15)
このイザヤ書の言葉は、旧約聖書のなかでもとりわけ多くの人の心にとどまってきた言葉の一つである。深い霊感によって与えられたこの真理は、キリストが来られて以後も、ずっとその重要性は変わらない。この、「立ち帰って」とは、もちろん神に魂の方向を転じてという意味である。神が私たちに求めていることは、きわめて単純、明快である。
複雑な儀式とか組織に加わることも必要なく、金や物がなければいけないのでもなく、よい行いをたくさんしていかねばならないのでもない。
ただ、信じて、神へ心の方向転換をすればよいのである。そうすれば、救いを与えられ、力が与えられる。ここに、信仰者の基本がある。そこで与えられた、救いと力をもって私たちは新しい道を歩むことができる。そして、その救いと力を受けるとき、黙っていることができなくなる。それがおのずから伝道ということにつながる。
こうした精神と同じ本質が、主イエスの最初にあげた言葉、「悔い改めよ、神の国は近づいた!」にある。悔い改めよ、という言葉は、個々の罪を悪かったとしてそんなことをしないようにしようというような意味でなく、神に立ち帰れ、ということであり、私たちの魂の方向そのものを、人間的なものから、神に方向転換せよ、ということなのである。
そして、それは決して洗礼者ヨハネや主イエスが初めて言ったことではない。
創世記や出エジプト記、レビ記などにはこの、「立ち帰れ」、という命令は現れない。しかし、歴史書になって見られるようになり、先にみたように預言書には多く出てくる。
このきわめて重要な真理、すなわち、救いと力を与えられるというために、ただ方向転換すればよいということは、自分自身の経験でもあった。私が救われ、新しい力を与えられたのは、何もよいことをしたわけでも、金を捧げたとか組織に加わったとかいうのでない。ただ、十字架の真理を知らされ、十字架の主イエスに、心を転じ、信じただけであった。それ以来、たしかにそれまでまったく知らなかった救いを知らされ、力を与えられてきた。ここに伝道の根本がある。それなくしては、伝道はできない。それなくしては、決して犠牲を払っても伝道しようという心にはなれない。それなくしては、周囲の反対を押し切っても伝道を続けることはできない。
悔い改めよ、すなわち、神へ方向転換せよ、という一言は絶大な意味を持っているのである。パウロが、ガラテヤ書で、力を込めて、ただ信じるだけで救われると語っているのも、この神への方向転換だけで救われるという真理にほかならない。
これだけでも、救いと伝道の関わりは明確である。しかし、さらに、主イエスは「天の国は近づいた!」といわれる。
そこには、神への方向転換をした、魂に何が与えられているかという、約束がここに込められている。「天の国」とは、神の御支配であり、その神の御手のうちにあるものすべてが暗示されている。それはキリストそのものであるし、キリストが与える罪の赦しであり、新しい命であり、神の愛など、神の手にあるあらゆるものが含まれている。
先程の悔い改めよという言葉と同様に、ここでも原語の意味を考えたい。
天の国という言葉にある、「国」とは、原語のギリシャ語では、バシレイア(basileia)という。これは、 王(バシレウス basileus )に由来する言葉であって、「王の支配、王の権威」といった意味がもとにあり、そこから、その支配や権威が及ぶ領域ということで、「国」という意味も持っている。
このように、御国とか天の国というとき、それは、「王の支配(*)、王の権威」といった意味が背後にある。
(*)実際、新約聖書のなかでも、例えば次のような箇所は、「国」と訳さないで、「国を治める」とか「支配権」などと訳されている。
・ …彼らはまだ国を治めていないが、ひとときの間…受ける。(黙示録十七・12)
・…自分たちの支配権を与えるようにされた…(同右十七・17)
ヘロデ王の残虐なことは(*)、新約聖書の中にも記されている。キリストが、誕生したときに自分の王位をねらわれるのではないかと邪推して、イエスが誕生したベツレヘム付近の二歳以下の男子を皆殺しにしたと書かれている。
(*)この王が闇に取り囲まれていたことは、肉親への疑いを深く抱いて、いろいろの噂に惑わされ、自分の妻や義母を殺し、別の二人の王子も投獄したのち、処刑し、また長男をも王位をねらっているとして処刑してしまったほどであった。
こうしたヘロデ王の支配していた世の中は、悪がまさに支配していると思われた状況であった。しかし、そうしたただなかにおいて、じつは神が支配されているということが示されているのである。
そしてそれを現す明確な事実がある。それがキリストが来られたということである。キリストが来られてから、たしかに、この世は悪が支配しているのでなく、神が支配しているということが明らかになっていった。ハンセン病や生まれつきの盲人やろうあ者への癒し、また悪霊にとりつかれていた人たちから、悪霊を追い出すといったことも、神の国、すなわち神の支配がそこに来たことを示している。
また、当時はまったく放置され、捨てられていた罪の女、ハンセン病の人、異邦人、障害者たちを深い愛をもって受け入れられた。それは、すでにイザヤ書で言われていた、消えかかっている灯心を消さず、折れかかっている葦を折らない、という預言の成就なのであった。
そうしたところにまさに神の御支配が目に見えるかたちで到来したのである。
また、主イエスはすでに霊の目によって、サタンが天から落ちるのを見たと言われている。
彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。(ルカ福音書十・18)
主イエスは、神の御支配(天の国)をまざまざと霊の目で見ることができたのである。
そればかりか、十字架で殺されたという、最も悪の支配とみえたことが、じつは神の支配そのものであった。それは罪の力を十字架で釘づけにして滅ぼしたということであった。罪の力とは悪の力である。十字架とは、悪への決定的な勝利を象徴しているのであった。
天の国(神の国)とは、すでに述べたように、「神の御支配」というのが元の意味であるが、この言葉は、新約聖書のうちでは、福音書にことに多く用いられている。新共同訳で見れば、神の国という言葉は、新約聖書では六八回出てくるが、そのうち五四回が福音書である。なお、マタイ福音書だけは、神の国という言葉のかわりに、天の国という表現を多く用いていて、三二回ほど現れる。
しかし、他の書簡では意外なほどにすくなく、パウロにおいても、その手紙(*)で少ししか用いていない。それはなぜだろうか。
パウロにおいては、神の国(神の王としての御支配)については、自らが復活のキリストに出会い、大きな罪を十字架のキリストによって赦されたという実際の経験が根本をなしていた。 復活も十字架での罪の赦しも、神の国(支配)が具体的に実現したことを意味しているのである。パウロは、神の国が近づいて、そこにあり、自分にはまさにその神の国が与えられたと実感していたのである。
それゆえ、パウロの生涯も、「悔い改めよ、天の国は近づいた!」ということに尽きるといえよう。
(*)「神の国」という言葉は、ローマの信徒への手紙には一度のみ、あとコリント書など合わせて十回ほどしか用いられていない。
また、主イエスの一つ一つの奇跡、五つのパンと二匹の魚の奇跡もまた、神はこのような小さなものを用いて、悪の力に打ち勝って、その祝福を永遠に与え続けていることができるということであった。
神の御支配が近づいて、すでにそこにあるということは、ヨハネ福音書においてとくに強く感じられる。
イエスは彼女に言われた、「わたしがよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。…」(ヨハネ福音書十一・25~26より)
この言葉は、神の御支配は、死の力にも打ち勝っているので、今、信じるだけでその勝利の力が与えられるということである。神の国(支配)は、このように、単に近づいただけでなく、すでにそこにある、だから、真剣に求めるときには、私たちにそのまま与えられると言われているのがわかる。
神の国が近づいているということは、初代のキリストの弟子たちの共通の実感であった。主イエスは、終わりの時が近づくときには、愛が冷え、戦争とそのうわさを聞く、飢饉や地震が生じる、と言われた。これはこうした混乱と神不在のように見えるときのただなかに神の最終的な支配が近づいているということを示している。
聖書のなかで、復活という最も重要なことは、一方では世の終わりに実現すると言われていることが、キリストを信じて結びつくときには、今、実現するといわれているように、神の御支配全体についても、キリストを信じるときには、すでに実現しているのをすこしずつ実感できるようになる。
…ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカ福音書十二・31~32)
神の国が近づいたということ、それは、すぐ近くにあるということであり、だからこそ求めるだけで与えられるのである。
「求めよ、そうすれば与えられる」という有名な言葉は、神の御支配がそこにあるからである。
神は与えることがそのご意志なのである。神は喜んで与えて下さる。ルカ福音書によればこのとき、求めて与えられるものは、聖霊であると言われている。
目に見えるもの、地位やお金、持ち物、健康、友人や家族といったものはいくら求めても与えられないことは多い。けれども、神の国のもの、それがすべてを含むといえる聖霊を求めるときには必ず与えられると約束されている。
このように、主イエスの宣教の最初に記されている、「悔い改めよ、天の国は近づいた!」という言葉は、主イエスの伝道、さらに使徒たちの伝道をきわめて簡潔に言い表したものだとわかる。
現代に生きる私たちにとっても、この短い言葉を生きることが、与えられている。