はこ舟 2003年5月号
内容・もくじ
何かが起こる
真理と繰り返し
一つのビラと方向転換
悔い改めよ、天の国(神の国)は近づいた!
闇の中の光
心のうた
休憩室
ことば
返舟だより
何かが起こる 2003/5
私たちが手がけることが本当によいことならば、そしてそのことをなしていく心がまっすぐであり、さらにそのことをずっと続けていくときには神は必ずそのことを祝福される。そこに何かよいことが生じる。
この世にはそうした不思議な法則のようなものがある。まず「神の国と神の義を求めよ」とか、「求めよ、そうすれば与えられる」という主イエスの有名な言葉は、原文のギリシャ語のニュアンスからいえば、単に一度求めるのでなく、「求め続けよ」という意味を持っている。(*)
どんなに苦しいことが起ころうとも、また神が聞いてくれないように見えることが続こうとも、あくまで、愛と真実の神への信仰を持ち続けること、神の言葉に信頼し、聖書を読み続けること、ある特定の問題を持っている友人への祈りを続けること、そして主の名によってなされる集会を続け、あるいは主日礼拝や家庭集会、県外の集会などに参加し続けること、印刷物や本、テープなどを必要な人を見いだして、与え続けること、敵対する人にも反感や嫌悪感を持たずに、主から受けた愛をもってそうしたことがなかったような心で対して、祈りを続けていくこと、自分の関わる特定の人が集会に参加するよう、祈り続けていくこと等など、こうしたことを、漫然と続けるのでなく、神へのまなざしを持ちつつ、神の助けを借りつつ続けていくとき、主は何かよきこと、思いがけないことを起こして下さる。
祈り願ってきたこと、それ自体は聞き入れられないこともいろいろとあるが、それと全く別のこと、または意外なところでよきことを主がなして下さることを経験させて下さる。
キリスト者は、日曜日ごとに礼拝集会に参加する。一般の人がするような単なる飲食の会とか遊び、行楽に日曜日を使わないのが、本来のあり方となっている。それは一般の人からみるとじつに単調で、せっかくの日曜日を楽しまないのはつまらないと思うかも知れない。
しかし、こうした地味なことを続けていく人に与えられる、不思議なよきこと、驚くべきことを体験していくと、そこに与えられる喜びや満足、あるいは生きた神の御手をまざまざと感じるがゆえに、この世の遊びなどが与える満足とは比較にならない魂の満たしを実感するようになる。
ここにキリスト者の心の世界がある。
谷川の流れは、ただ同じ水が同じように流れ続けている。じつに単調にみえる。しかしそこに主の御手を感じ、天の国の水の流れを実感するときにはその単調な流れの側で立ちつくしていても深い満足がある。心がうるおされる。
この世においても、単純にみえる生活のただなかにあって、神の生きたわざに触れることこそ、一番の深い心の満たしがある。
神の国の「満ちあふれる豊かさ」(ヨハネ福音書一・16)の中からくみ取ることだからである。
(*)例えば、英語のNew Living Translation や、THE AMPLIFIED NEW TESTAMENT 訳では、このギリシャ語の「…し続けよ」というニュアンスを生かして、「求めよ、さらば与えられる…」の箇所を次のように訳しいる。
Keep on asking, and you will be given what you ask for.
Keep on looking, and you will find.
Keep on knocking, and the door will be opened.