海の深みに 2006/6
日々の生活のなかで、私たちの心の内には、なにかすっきりしないものが残ることが多い。それはたいてい、毎日の生活、職業でのこと、自分自身があるべき生き方ができていないとか、家族であれ他人であれ、他者が言ったことが気になる、心が重く傷ついているといったことのゆえであり、また健康上の不安などであることも多い。さらにこれからの社会はどうなるのかといった、将来への漠然とした暗雲を感じることもある。
こうしたさまざまの憂うつや重い心は、時としてどうすることもできないほどにもなる。
このような心の重さや憂うつ、不安はどこから来るのか、それは周囲のせいなのか、確かに周りの人間や社会が間違っていることから来ているということも多い。
しかし、そうした事態に対面する私たち自身にも常に問題がある。それは私たちの心の深いところで、真実なものに従えない、自分中心のすがたが根強く残っているからである。それを聖書で罪と言っている。
病気の苦しみですら、その苦しみを耐えがたいものにしているのは、実はその人の心の内奥にある罪なのだということは、主イエスも指摘されたことがある。
それは、つぎのような記事である。
…人々が中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(ルカ福音書五・18~20)
病人や周りの人たちが心から願っていたのは、長く苦しい病気をいやしてもらうためであって、罪を赦されるために来たのではなかった。しかし主イエスは、その苦しみの根源には赦されない罪があるということを見抜いておられた。罪が赦されるのでなかったら、もし病気がいやされても今度は健康になったからだで新たな罪を重ねることになる。人間の最も重要な問題は、からだが癒されること以上に、その心であり、魂が罪赦され、清められることなのである。
事実、この世の大きな犯罪はからだが健康な人たちによって起こされているのであって、病気に苦しむ人によってではない。健康はそのままでは決して、真実な生活へとつながってはいないのである。
こうした点から、聖書では心のなかの深い問題、罪を赦されるということが、最も重要なこととして記されている。
見よ、わたしの受けた苦痛は
平安のためにほかならない。
あなたはわたしの魂に思いを寄せ
滅びに陥らないようにしてくださった。
あなたはわたしの罪をすべて
あなたの後ろに投げ捨ててくださった。(イザヤ書三八・17)
これは、死の病にかかった王が心を注ぎだしての祈りによって、神からの力を与えられ、命を与えられた後で神に感謝して作った詩である。そこには、病気のいやしにとどまらず、魂の病気といえる罪を投げ捨てて下さったことへの深い感謝と喜びがある。
キリスト教信仰もこのことが根本にある。
キリスト教のシンボルとなっている十字架は、まさにそのことである。主イエスが十字架で死んで下さったことにより、私たちのどうすることもできない罪そのものを、後ろに投げ捨てて下さったのである。
…あなたのような神がほかにあろうか
咎(とが)を除き、罪を赦される神が。…
神はいつまでもご自分の民の残りの者に
いつまでも怒りを保たれることはない
神は慈しみを喜ばれるゆえに。
主は再び我らを憐れみ
我らのすべての罪を海の深みに投げ込まれる。(旧約聖書・ミカ書七・18~19より)
ここにも、神のご性質がどのようなものであるかが、心に残る表現で言われている。旧約聖書の神はしばしば怒りの神、裁きの神といわれる。しかし、決してそのような単純なものではない。ここにあるように、神の本質的なご性質は、憐れみの神であり、赦しの神なのである。そのような神のお心を完全に持たれて地上に現れたのが、キリストであった。
私たちのさまざまの心の重さや憂うつや暗い気持ちの根本にある罪、それはただキリストが、十字架にかかって私たちの罪を身代わりに負って下さったと信じるだけで、その罪が「海の深みに投げ込まれる」という実感を与えられる。
人ではない、神ご自身がそのようにして私たちが罪によって沈んでいくことから救い出して下さる。罪が赦されずに残っているかぎり、私たちの存在は次第に沈んでいく。老年が近づき、死が近づくのはだれでも同様であるが、それとともに次第に罪が私たちの存在を死という闇に引き下ろし、海の深みに我々自身が沈んでいくのである。
罪赦されて初めて、魂の深いところでも重荷が軽くされ、光が臨み、この世には助け主がおられ、死のなかに沈んでいくのでなく、逆に光にみちた天の国へと引き上げられていくのだという予感が与えられる。
…そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。…死も火の池に投げ込まれた。(黙示録二十・10~14より)
聖書の最後に近いところで、このように、この世の悪そのものと死が火の池に投げ込まれたという表現で、それらが永遠に滅ぼされたことが力強く記されている。私たちを悩ますもの、それは罪であり、罪を起こさせる悪そのものであり、あらゆるよいことすべてを飲み込んでいく死の力であるが、それらが永遠に消滅させられるということは、私たちの最終的な希望である。
この世で生きるということ、老年に近づくことは、つぎつぎとよいものが投げ捨てられて、なくなっていくということのように見える。しかし神とキリストを信じるとき、逆に私たちを縛る最も重いものを神ご自身が海の深みに投げ込み、天の国の賜物をもって私たちを導いて下さるのである。