集会の重要性について 2003/6
毎年の四国のキリスト者(無教会)の合同の集まりが、今年もこの6月に行われた。信仰に生きることは、一人だけでももろろん可能である。
しかし、他方で、このようなキリストを信じる人たちの合同の集まりによっても神は働かれる。もう幾年にもわたってわが家に月に一度、神戸からわざわざ来て下さって、集会のテープのダビングを主としてその他の伝道にかかわる仕事を手伝って下さっている神戸のUさんは、四国集会で出会った方である。このテープダビングで私自身もずいぶん助けれらてきたし、またこのテープによって集会や学びをしておられる方々もある。四国集会がなかったらこうした出会いもなくテープダビングもわずかしかできていなかった。
また、私は高校の理科教員として、理科を教えながら自然の世界に現れた神のわざを紹介しつつ、放課後などで希望者には読書会という形で、聖書やキリスト教関係の書物を語り、み言葉を伝えることを目的として生涯を送るつもりであった。
しかし教員となって十年ほどたった頃、四国集会で知り合った大阪のある方からの紹介で全盲のTさんとの関わりが与えられて、聖書の世界をその人に紹介するべく、定期的に訪問するようになった。それが視覚障害者の方々との関わりの最初であり、その少し後に、別の全盲の人を紹介されて、点字の教育を個人的に依頼されることになった。
そのことから、神が私に盲学校への転勤を望んでおられるのを直感し、盲学校に転勤希望を出したのであった。そこでは困難な問題が生じたが、主の驚くべき助けによって乗り越えることができた。ついで聴覚障害者の学校へと転じることになった。
そうしたことから私たちの集会ではいろいろの障害者の方が増えていくことになった。今日まで私はそうした障害者の人たちとの関わりで書物からは決して学べないいろいろのことを学んできたし、その方々によって実に多くの祈りや支えを与えられてきた。
四国集会がなかったら、私と障害者の関わりもなく、私たちの集会の状態もずいぶん変わったものになっていただろう。主イエスが病気の人や障害者との関わりを重視された意味が、私たちの集会に集っておられる障害者の方々との長年にわたる関わりによって示されてきたのも大きな収穫であった。
これは一例であるが、こうした合同の集会がなかったら私たちの主にある兄弟姉妹との交流はずっと貧しいものになっていただろう。主にある交わりはそこに主がはたらく場となるのである。エクレシア(信じる人たちの集まり)はキリストのからだであり、聖霊が働く場なのである。
私たちはこうした集会によって生きた証人に出会うことができる。単に書物のなかで記されている聖徒たちと出会うのでなく、いまも生きて働いている現実の人間によって、その人を動かす生きた神のはたらきに接することができ、私たちの信仰も強められる。
書いたものにしても同様である。優れた書物は過去二千年のあいだに山のように積み重なっている。それらを読めば十分だという人もいる。しかし、今、み言葉を委ねられ、いま主の霊によって動かされている人の書いたものも大いに必要なのである。主がいまも生きて働いていることを証しすることになるからである。
日曜日の主日礼拝や他の日の家庭での集会においても同様で、一人で学ぶのでは与えられない、霊の賜物と主にある交わりによって私たちは励まされ、祈りが集中される。
み言葉中心に集まることそこで、主が働かれるのを、私は長い年月で経験してきた。
今後とも私たちは個人の学びや祈りとともに、集まってする礼拝、集会、交わりにもいっそう力を注ぎ、ヨハネの手紙で、繰り返し強調されている、「互いに愛し合う(祈り合い、助け合う)」ということに少しでも近づかせていただきたいと願っている。