神の国とは何か 2003/6
キリスト教において神の国とは最も重要な言葉の一つである。
なぜか、それは主イエスが、宣教を始めたとき、その宣教の要約ともいうべき内容を、つぎのように言われたからである。
…そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国(神の国)は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。(マタイ福音書四・16~17)
…洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ福音書一・14~15)
このように、今日までの二千年にわたるキリスト教伝道の長い歴史において、その出発点におられたキリストの伝道を一言でいうと、このように、神の国が近づいた。イエスを信ぜよということであった。
そのように重要な意味を持っている「神の国」とはいったい何を意味しているのだろうか。
そのためには、やはり日本語の神の国ということと、聖書の原語であるギリシャ語ではどんな意味を持っている言葉なのかを少しでも知っておくことが大切となる。
ギリシャ語では、「国」ということは、バシレイアであり、これはバシレウス(王)という言葉から作られていることからわかるように、「(王の)支配」といった意味なのである。そこから、その支配が及ぶ領域という意味も持つようになった。
このように、神の国とはその根本の意味は、神の御支配ということである。マタイ福音書では天の国という言葉が使われているが、天は神という言葉の代わりに用いただけで、意味は神の国と全く同じである。
そこで、神の御支配ということが旧約聖書ではどう記されているのかを見てみよう。
こうした原語の知識がまったくないときには、旧約聖書には神の国というのがない、新約聖書で初めて現れるのだというように考えてしまう。
しかし、神の国というのが神の支配だとわかると、これは決して新約聖書で初めて現れるのでないことがわかる。
…初めに、神は天地を創造された。地は混沌として、闇は深淵の面にあり…。神は言われた、「光あれ!」 こうして光があった。(創世記1:1~3より)
この聖書の巻頭の言葉は広く知られている。これは単に昔のことを言っているのでない。神が全世界、宇宙を支配されているという宣言なのである。宇宙を支配しているのでなかったら、宇宙のさまざまの天体を創造することができない。また、闇が深淵の面にあって、強い風が吹き荒れているような状態のただなかに、光を創造して闇の支配を打ち砕くというのも神の支配を表している。
闇を支配するものこそ、本当の支配である。神は万物を創造されたお方であるが、それにとどまらず、人間が最も悩まされる闇(悪)を支配し、そこに光を与える存在であることが、聖書の冒頭に記されている。 それは、神こそがすべてを支配しておられるお方であるということなのである。
また当時の世界ではたいてい太陽を一種の神としてあがめ、礼拝していたのに、聖書においては、まず神が闇のなかに光を創造し、植物をも造り出し、太陽にすでに創造した光を与えて光るようにしたのだと記されている。これは太陽とかさまざまの霊的なものがこの世界を支配しているのでなく、あの絶大な働きをしている太陽すらも、神が支配しており、神がその光を与えたものにすぎないということを表している。
また、詩篇にはつぎのように、神が王として世界を支配されているということが記されている。
・王権は主にあり、主は国々を治められる。(詩篇二二・29 )
・栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王。(詩篇二四・10)
・主は、全地に君臨される偉大な王…、神は全地の王、讃美を歌って、告げ知らせよ。神は諸国の上に王として君臨される。聖なる王座についておられる。(詩篇四七編3~9より)
私たちはふつう、神のことを「王」だというようには思わないことが多い。愛の神、正義の神ということが多いが、聖書ではこのように、世界を支配しているという意味で、王である神という見方が根底に流れているのがわかる。
このような、旧約聖書の流れのなかで、新約聖書とも深いつながりのある箇所はつぎのところである。
夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り
「日の老いたる者」(永遠に生きておられる者、神)の前に来て、そのもとに進み
権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。(ダニエル書七・13~14)
これは、神から、その王としての権威、支配の力をうける、人の子のような者を、ダニエルが啓示のうちに見たのである。新約聖書にたびたび現れる言葉、主イエスが自分のことを「人の子」といわれたことや、世の終わりに、再び天の雲に乗って来るといわれた表現は、のちに主イエスが用いられた。
…イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見る」(マタイ福音書二六・64)
このように、ダニエル書の著者は深い霊感を受けて、のちに神からその権威や力、支配を受ける永遠の存在者が人の子のようなすがたで現れるということを示されたのである。ここで預言者ダニエルがとくに強調しているのが、その人の子は、愛や憐れみといったこと以上に、神の権威と支配を受けるということ、しかもその支配が永遠であるということである。このダニエル書は、厳しい悪の支配、迫害の時代を背景として書かれたものであったから、とくにそうした支配のことが前面に現れているし、そうした悪の支配に打ち勝つ神の支配のことが啓示されたのである。
このように、旧約聖書でも最初から神の支配のことは一貫して言われている。そのような意味で、神の国(支配)ということは、聖書の最初からの基本のテーマなのである。
新約聖書における神の国
こうした神の御支配という意味は新約聖書でももちろん見ることができる。
主イエスのたとえで、天の国(支配)というのはよく出てくる。これらは、まさしく地上における神の御支配のなされ方を意味している。
…イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」
イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、毒麦も現れた。…僕たちが、『行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておけ。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
ここでの天の国とは、死後の世界でなく、この地上での悪の問題であることは明らかである。それはまさに神のこの地上での御支配のなさり方を意味している。悪をただちに滅ぼさないで、あえてそのままおいてある。それはよい麦をも刈り取ってしまう危険性があり、神の定めた時(世の終わり)に初めてそうした悪そのものが、滅ぼされるのだ、そのようになさるのが、この世界を創造された神の御支配のなさり方なのである。
…イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ福音書十三・11~32より)
このたとえも、神の御支配は、わずかなもの、小さいとるに足らないようなものから始められる、真理の種というべきものが人の心に播かれるとき、それは弱い人、地位のないような人、病気などで死にかかっているような人であって、世の中ではまったく相手にされないような者であっても、そのような小さきものを用い、そこから始めて人間がだれも予想できないような形へと増し加えられていく。人間の支配はまず、権利や金の力、数の力をもって弱いものを犠牲にして行おうとする。戦前の日本の天皇を現人神とした支配の仕方はそのようなものであって、日本だけでなくそうした支配の仕方をアジアの国々まで広げていったものであった。そうした間違った支配の仕方と、神の御支配の仕方とはいかに異なったものであろうか。
…天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(マタイ福音書十三・44~46)
ここでは、神の御支配の仕方は、まず大いなる宝や高価な真珠を与える、それによって人は喜びの余り持ち物をすべて売り払ってその宝のある畑を買うのだと言われている。たしかに、私自身をふり返っても、何一つ要求されたことはなかった。まずわずか数行の短い言葉、キリストの十字架による罪の赦しという、絶大な宝であり、高価な真珠というべきものを与えられたのである。そのことがそれまでのいかなることよりも大きな出来事であり、平安と喜びを与えてくれたので、私はほかのものでなく、まさにそのことを伝えたいと心から願うようになった。高校の理科教師となろうと思ったのも、若い世代に理科を教えながら、その宝を伝えたいという気持ちがほかのどんなことよりも強く生じてきた。
この主イエスのたとえは、私自身のうちに実感されたものであり、たしかにイエスのたとえのように、神は私の存在を御支配されているのがわかる。それは私がかつてどんなにしても達することのできなかった最善の道なのであった。
また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ福音書十三44~50)
このたとえでは、この世の悪をどのように御支配されるのかということが言われようとしている。世の終わりには悪いものは必ず裁かれるということである。神とは正義の神であるゆえ、悪に対しても必ずその裁きがあるというのは当然のことである。ここでも神の御支配ということがこのたとえではっきりと示されている。
また、神の国とはどのようなものであるか、主イエスは次のようにも言われた。
…人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ福音書十七・20~21)
イエスの生きておられた時、ユダヤ人たちは、神がローマ帝国の支配、偶像崇拝している異教の人間の支配をくつがえして、ふたたびダビデのような王を立てて支配されるときが来る、それはメシアの現れるときでもあると信じていた。だからそうした民族が待ち望んでいる支配の時はいつなのかということが、重要な問題なのであった。
そのような問いに対して、主イエスは、「いつ」来るとは答えず、神の御支配はあなた方の間にある、と言われた。
この意味は、神の御支配は、あなた方の生活のただ中にすでにあるということである。霊的な目をもって見るならば、神の新しい支配はキリストとともにすでに来ているのであって、パリサイ人たちのように敵対しようとする人々の間に、悪が支配しているとか、神はいないのではないかと思われるような出来事が多く生じている私たちの社会のただなかに、神は支配なさっているのだという意味である。
また、この表現は、「神の国はあなた方の内にある」とも訳することができる。(*)この場合には、私たちの内に、神の国はあるということになる。それは、神の国とは「義と愛と平和」であると言われた通りに、私たちの心の内にすでに与えられている、神からの義や愛、平和だということになる。
このような神の御支配は、主イエスの力によって悪の霊を追いだして頂くことによって私たちのところに来ていることになる。
…わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。(ルカ福音書11:20)
こうして私たちの願いは、神の国が来ますように、神の見えざる御手によって神の国を来たらせたまえという内容になる。
(*)「間に」と訳された原語は、エントス(entos)という言葉で、これは新約聖書では二回しか使われていない。あと一箇所は、パリサイ人たちへの警告として言われた、 「まず杯の内側をきれいにせよ。そうすれば外側もきれいになる」(マタイ福音書二十三・26)という箇所である。また、旧約聖書のギリシャ語訳(七十人訳)では、「心は内に(entos)熱していた…」(詩篇三十九・4)、「私の内なるものはすべて聖なる神の御名をたたえよ(詩篇百三・1)」などのように使われている。
賜物としての神の国
新約聖書においては、最初に述べたように、主イエスが宣教の最初に述べたと記されていることであって、その重要性ははっきりとしている。
私たち自身のことをふり返っても、人間は何かを求めている。求めなくなったら生きてはいないのである。まず幼児はミルクを求める。そしてまもなく、母親の愛や友達、遊びや快楽などを求め、さらに人より上に立つこと、勉強やスポーツができること、よい大学とか会社、健康、家、地位…などつぎつぎと求めていく。
そうしたものは与えられないことが多いし、与えられてもふとしたことで失われ、変質したり壊れてしまう。しかもそれらは他に分け与えることができない。この世の宝といったものは、与えるほどなくなってしまうものである。
そのようなものと全く異なるものが、聖書では約束されている。それが神の国である。これこそ、人間がだれでも求めるべきものであり、最もよいもの、分かち与えることができるものであり、永続的な賜物だからである。
それゆえ、主イエスも人間が共通して第一に求めるべきものとして、「神の国」をあげている。
…ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。(ルカ福音書十二・31)
また、私たちがつねに祈り願うべきこと、最も大切な願いとは何かということについて、弟子たちが尋ねたときに、答えられたのがやはり、神の国のことであった。
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。…』(ルカ福音書十一・1~2)
これは、弟子たちもどんな祈り、願いが最も神に喜ばれるのか、どんなことをいつも願っていたらよいのかという疑問を持っていたのがわかるし、それに答えて、人間がいかなる状況に置かれようとも、共通して持つべき願い、祈りはこれであるとはっきりと示されたのがこの祈りであった。この祈り、願いこそは、私たちが健康なとき、病気のとき、また困難や悩み、悲しみのとき、そして老年や孤独、さらに死が近づいたときでも、つねに一貫して祈り願うことができるものなのであった。また、そこで与えられる神の国というのは、祈った自分だけでなく、まわりの人にいくらでも分かつことができ、分かつほどに増えていくものなのである。それこそ、五千人のパンの奇跡で言われていることでもあった。(*)
(*)空腹になったたくさんの群衆に対して、弟子たちが持っていたのは、五つのパンと二匹の魚しかなかったが、主の祝福を受けると、五千人をはるかに越える人々が満たされ、さらに余りも十二のかごいっぱいになった。すなわちこれは完全数であり、残ったものにも完全な神の祝福が宿っていて、無くならないといった意味が込められている。
神の国というと、何か遠いこと、私たちの現在の生活と関係があまりないように思われがちである。それは新聞やテレビなどでまったく現れないし、学校教育でも耳にすることがないからである。
しかし、ひとたび聖書の世界に入るときには、日常で最も関わりの深いことのひとつとなってくる。私たちが朝起きてから夜やすむまで、たえず心にて願い、祈るべきことが、神の国だからである。
自分の心が暗い、憂うつである、それなら神の国が自分の心に来るようにと祈ればよいし、自分の家族の問題があるならそこにも神の国を来たらせて下さいと祈ることができる。職場や人間関係において、また病気になっても神の国、すなわち神の愛の御支配が臨んで、自分も含めて人間の悪しき本性が変えられ、からだにおいても神の御手が臨んで癒しを願うことができる。
あらゆる私たちの願いは、つきつめるならば、神の国を求める願いと祈りなのである。それに目覚めていないだけだと言える。
多くの教会で、「主の祈り」を唱えている。しかし、主イエスは、弟子たちが本当の祈りを教えて下さいという願いに答えて、このように祈れと言われたのであって、たんに唱えるようにとは教えられなかった。唱えることと、祈ることとは大きな違いである。いくら唱えていても祈っていないことはいくらでもある。祈りとは心を注ぐことであるし、魂を尽くし、精神を尽くして神に訴えることである。
最近もある教会の信徒の方から、御国が来ますようにという意味を知らずに祈っていたと言われたことがあった。
主イエスは、まず神の国と神の義を求めよと言われた。そしてそれらは求めるなら必ず与えられると約束された。神は真実なお方である。真実とは、約束したことは必ずかなえられるということである。求めよ、そうすれば与えられるという有名な言葉もそれを意味している。
ルカ福音書では、求めよ、そうすれば与えられるという言葉の後で、必ず与えられるのは、聖霊であると記されている。
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。(ルカ福音書十一・9~13より)
このように、主イエスは、わかりやすいたとえをもって、求めたら必ず与えられるということを強調している。弟子たちに、「あなた方は悪い者でありながら…」と言われたのには意外な気がする。これは罪を持ち、過失をたえず犯してしまう者でありながら、という意味である。そのような罪深いものであっても、求めてくる自分の子供には、よいものを与える。それならば愛に満ちた天の父がどうして、求めるものを拒むことがあり得ようかと言われている。必ず賜物のうちで最もよいもの、すなわち、神ご自身ともいえる聖なる霊を与えられるという約束なのである。
このように、神の国をまず求めよといわれた主イエスが、信じて求める者には必ず聖霊が与えられると言われていることからも、神の国は聖霊と同じものを意味しているということがわかる。
こうした点からも、神の国とは今求めたら与えられるものなのである。
求めたら与えられる賜物としても、「神の国」という言葉は用いられている。
…「ああ、幸いだ、心の貧しい人々は!
なぜなら、天の国(神の国)はあなたがたのものだからである。(マタイ福音書五・3)
このように、マタイ福音書では主イエスの教えの冒頭に、神の国が与えられることが記されている。キリスト教のメッセージとは、福音である。福音とは、ギリシャ語のユウアンゲリオンであり、これは「よき知らせ」という意味である。打ちひしがれている者、闇にあるものへの救いのメッセージだからである。
そして神の国が心貧しき者に与えられるとはどんな意味だろうか。それは神の御支配そのものが与えられることであり、神の御支配のうちにあることが与えられることである。聖霊が与えられることであり、主イエスご自身が与えられることである。
これこそは、この世で与えられる最高のもの、最もゆたかなる賜物である。
そうした神の国が与えられるとき、私たちは悪に打ち倒されないで、立ち上がる力が与えられ、御国へと歩み続けることができるようになる。
…ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカ福音書十二・31~32)
また、このような神の国は求めたら必ず与えられるということは、すでに述べたが、この主イエスの言葉でも、神の国は神ご自身が喜んで与えて下さるのだという。
私たちが神の国を求めることも、神が喜んでくださる。それは主の祈りで示されているように、御心にかなった祈りであり、願いであるからである。だからこそ、そのような求め、祈りには、喜んで神の国を下さるのである。
また、これと関連しているが、現代の私たちにも、同様に神の権威や力が与えられるからこそ、この世の悪に染まることなく、信仰を持ち続けていくことができるのである。生きた信仰が続いているということはすなわち、その人に神の国(御支配、権威)が与えられているということの証拠なのである。
そして神の国とは神の支配のうちにあるものをも意味するから、それは愛、平安、勇気、真実等なども含む。使徒パウロが、神の国とは、平和や喜びであると言っているのもそういう意味である。
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びである。(ローマの信徒への手紙十四・17)
神の国とは、このようにすでに私たちのただ中に与えられている。神の御支配は私たちのこの悪に満ちたように見える世界のただ中に行われている。これは主イエスがこの世界に来られてからそれが全世界の無数の人々によってはっきりと自覚されるようになった。
未来に与えられる神の国
他方、神の国は未来において完全に実現されるものとしても、聖書には記されている。それは、今は悪が多く支配しているように見えるこの世であるが、霊の目で見るときには今も神の御支配はなされている。
しかし、将来において完全に神が支配されるときが来ると言われている。
そのことを、主イエスご自身が、世の終わりに関する教えで述べている。
…人の子が力と栄光をもって、天の雲に乗って来るのを見る。
…人の子は思いがけないときに来る。(マタイ福音書二十五章より)
人の子とは、キリストのことであり、未来のある時にキリストが、神の力をもって来るといわれている。そしてその時にすべての悪が裁かれて、究極的な神の国が実現する。
このようなことを詳しく書いてあるのが、黙示録である。黙示録は、迫害の時代に書かれた。そして迫害を受けるということは、実に苦しいときであり、悪が謎のように力を振るい、弱い人々を捕らえて殺し、残酷な刑罰を与えるのであった。キリスト者たちもライオンの餌食にされたり、道路の横に十字架を並べ、そこで火を燃やして苦しめられたこともあった。
このような、考えられないようなひどい悪の支配に苦しめられた者にとって、最大の願いは、神の御支配によって、そのような悪が一掃され、悪の根が断たれるということである。それゆえ、黙示録は神の支配がいかに、悪の支配よりも強いかということが内容の根本をなしている。
黙示録の最初には、主イエスが私たちを「王」として下さったという箇所がある。それは支配するものということである。キリスト者たちは、ローマ皇帝なる王からさんざん苦しめられてきた。しかし神はそのキリスト者たちをこそ、王として下さるというのであった。
そして黙示録の最後、すなわち新しい天と地についての啓示の最後の部分で、黙示録の著者はこう述べている。
…そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、…神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
…もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく支配(統治)するからである。(黙示録二十二・5)
ヨハネの黙示録での長い啓示が終わるとき、その最後にヨハネが書き記したのは、キリスト者たちが永遠に統治(支配)する者となったことであった。それほどにこの著者にとって、神が支配されるということは重要なことであったのがわかる。
このように、未来のいつか神が定めたとき、そのときは人の子も知らないと、地上に生きておられたときの主イエスが言われたほど、人間には分からないことである。しかしそれがいつ来るのかだけでなく、どんな形で来るのかも全くわからないが、そうした神の国と言われている霊的世界が必ず来ることをキリスト者は信じている。それは神の万能という性質、完全な正義、創造主、その約束が変わることがないことなどから、必ず実現されると信じることができる。
それゆえ聖書の最後の部分は、そのような究極的な神の国が来るようにとの願いと祈りで終わっている。
主イエスよ、来て下さい!(黙示録二十二・20)