はこ舟 2003年7月号
内容・もくじ
終わることのない対話
何をしているか分からなかった
大いなる導き
北海道でのこと
ことば
休憩室
返舟だより
終わることのない対話 2003/7
神との対話は長く続く。信仰を与えられて以来、もう三五年以上になる。
この長い歳月、一日中、神または主イエスとの会話を忘れていて、一度も神との対話をしたことがなかったという日はなかった。たとえ、山々を何日も超えての山旅をしているときでもそうであった。人の住んでいるところから離れて、山里や海の波の聞こえる浜辺に立つときなど、いっそう主イエスのほうから、神様のほうから私に語りかけて下さるように感じてきた。
人間との会話、それは会っているときだけのことが多いし、離れても語りかけているのは、特別な事情がある人、祈りという形で語りかける必要があるとき、神とその人をみつめて祈るときである。問題がある程度解決されたときには、波が引くように心のうちにおける、その人との対話は少なくなる。
また、人は、時と状況によっては、よき語りかけでなく、憎しみとか妬みのまじった語りかけ、非難や怒りの声で特定の人に心の内で語っていることもあるかも知れない。
そうした人間への語りかけとは全く違ったものが、神への語りかけであり、神からの語りかけを聴こうとする姿勢である。
若き日に、神を知らされ、キリストが十字架で死なれた意味を示され、それを信じて受け取ったときから、始まった神(キリスト)との対話、それは止まることがなかった。
苦しみのとき、追い詰められたとき、また病気のとき、なすすべもない八方塞がりのとき、またもう祈る気にもなれないという気分が心をかすめるとき…などなど、そのようないかなる時であってもなお、神との対話は止まることがなかった。
もう止めようと思ってもうちに促すものがある。そして神に向かって語りかけている。答えのようなものもない、ずっと膠着状態で、もう祈っても神は答えては下さらない、無力感が覆いそうになるとき、そう感じてもやはり、しばらくするといつしかその苦しみや心が雲のかかったような状態になってなお、神を仰ごうとする心を感じる。
神は私の祈りの心をしっかりと捕らえて下さっているのである。祈りが小さく、浅くなることもある。それでも、消えてはしまわない。風に揺られ、吹き消されそうになりつつも、なお祈りのともしびは燃え続けてきた。
それは神は祈りを求められ、その祈りを聞いてくださるのがその御心だからである。
旧約聖書の創世記に、神は人間に、神の息を吹きかけたとある。また、神のかたちに創造されたという。それゆえに、私たちは、神との対話すなわち神への祈りは魂のふかき所からの願いであり、魂の本能というべきものなのである。
悲しみや苦しみ、悩みを訴える祈り、将来への不安を訴える祈り…それらの傷ついた心から発せられる祈りは、最終的にはすべて一つにまとめられて、神への感謝と讃美となっていくように、主が導かれる。
旧約聖書の詩集である詩編が、神への讃美を重ねて波のように注ぎだす内容のもので終わっているのも、私たちの祈りが、最終的には神への讃美となることが期待されているからである。