何をしているか分からなかった 2003/7
わずか十三歳なのに、小さな子供の命を奪った少年が、どうしてあのようなことをしたのかと言われたら、「何をしているか分からなかった」と言ったという。何をしているか分からない、それはあのような特殊な事件を起こしたからそう言ったのだと思うかもしれない。しかし、人間はいつでも、自分が何をしているか分かっていると言えるだろうか。
主イエスは、自分が十字架につけられたとき、そのようなことをする人々のことを、次のように言われた。
そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ福音書二十三・34)
心の目がくもっていて、自分がしていることがどんなに罪深いことか、それが自分に必ず裁きとしてもどってくることが分からないのである。人間はじつにしばしば自分がやっていることが分からない。
聖書でもそのことは最初の書である創世記から強調されている。アダムとエバがヘビの誘惑によって、食べてはいけないと言われた木の実を食べて、エデンの園から追放されることが書いてある。それも彼らは自分たちが何をしているか見えなかったからであった。それがどんなに恐ろしい結果を招くか、一時的なことだ、どうでも大したことでないなどと軽く考えていたことが、いかに重大なことにつながるか全く見えなかった。
この創世記の記事は単に神話的なものにすぎないと思い込んでいる人が多い。しかし、これは現在もつねに生じていることなのである。食べてはならないもの、つまり、してはいけないことであるのに、それが分からない、自分が何をしているか分からないために、人生の道を誤って重い苦しみを背負って生きなければならなくなるのは実に多い。
モーセに導かれた人々が、モーセに逆らおうとして神のさばきを受けて滅んでしまったこと、それも彼らが自分たちが何をしているか分からなかったのである。
ダビデのような信仰深くて勇気と決断の優れていた人であっても、心がゆるんだときには自分が何をしているのか分からなくなって、重い罪を犯してしまったのである。
このように、人間は頭が働いて動物と異なるといっても、動物すらしないようなひどいことをして重い罰を受け、自分も家族も生涯続く苦しみへと投げ込まれる人たちもいる。
キリストですら、こう言われた。
そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。(ヨハネ福音書五・19)
自分からは何事もできないとは驚くべき言葉である。キリストですら、というよりキリストだからこそ、自分からは何もわからず、父なる神を見て初めてなすべきことが分かると言われる。主イエスはそれほど、父なる神のことがはっきりと見えたのであった。
人間は自分が何をしているか、その本当の意味がわからないものであるからこそ、神は主イエスと聖霊を人間に与えて下さって、主イエスに従い、聖霊によって霊の目を開かれる必要があったのである。
聖霊が注がれて初めて、私たちは何をしているかはっきりとみえるようになる。
主よ、いつも私たちに聖霊を与えて下さい。そして自分が何をしているのか、神の前に正しいことなのかどうかがわかるようにして下さい。