大いなる導き 2003/7
私たちが生きるということは、導かれるか、それとも自分の考え、意志で生きていくか、それとも他人、周囲の考えに従って生きていくかということになる。かつて私は自分の考えや周囲の考えによって生きていた。周囲から認められること、認められるような何かができることをいつも目標としていた。それは私にとって、勉強であった。学校の成績をよくすることであった。
その後徐々に自分の考えというのが、どんなに頼りないか、思い知らされていくことになった。今から思ってみても、真実なものはどこにもなかった。みんな一時的なものであって、その場限りの考えで動いていたのであった。
聖書の世界に眼を開かれてみると、そこには、私が二十年あまり生きてきたなかで、知ったどんな考え方よりも、広く、深く、かつ、堅固なもの、動かないものがあるのに気づいた。
私たちは自分の考えで生きていけると思っている。しかし、聖書はそうした常識をはじめから一貫して打ち破っている。
それは、エデンの園の記事にも見られる。人間の周囲にはあらゆるよいもので満ちていた。しかしそれを感謝することもなく、それを創造した神に心を結びつけることもしなかった。
そこに、誘惑する者がやってくる。ヘビとされているが、それはこの世の神に敵対する力を象徴している。
神があらゆるよいもので満ちているようにして下さっているにもかかわらず、ヘビの言葉でエバはただ一つ食べてはいけないという実を食べてしまう。さらに夫であるアダムにも働きかけアダムも同様な罪を犯してしまう。
この記事は、自分の考えで物事を決めようとする場合、つねにこうした真実なものから引き離そうとする力(誘惑する力)によって判断の誤りを生じる。それは神のご意志に背く方向である。
聖書は、どのような理性的な人でも、またいわゆる頭のよい人でも同じように誤りを犯してしまうことを指し示している。
私たちは、何者に導かれているのか、それは子供のときには両親、まもなく、幼稚園や学校の先生、友達、そして周囲の考え方、会社の考え方などである。また新聞やテレビなどによっても大きく引っ張られている。
自分はどんなものにも導かれたり、引っ張られたりしないという人もいるかも知れない。しかし、それは錯覚にすぎない。自分の判断ということ自体、周囲の人たちによって左右されているからである。
例えば、太平洋戦争のときなど、ほとんどの国民が天皇を現人神だと信じ、アメリカは悪い国だ、鬼畜米英などといっていた。それらを自分の考えだと思っていた人も、それからわずか数年後の敗戦となった後には、アメリカやイギリスを鬼畜米英などという人はほとんどいなくなった。このように自分の考えといったものも、他人の考えのコピーにすぎないことが実に多い。
そのような実態があるから、人間は厳密にいうと自分の考えで動いているなどとはたいてい言えないのである。自分の考えとは実は他人の考えにすぎない。
となると、私たちが生きる頼りとなるのは、自分でも他人でもない存在、すなわち人間を超えたお方ということになる。それは聖書でいう神であり、キリストのことである。
アブラハムははるかな古代において、導かれて生きるという人生を最も明確に表した人のうちに数えられる。
導きは、突然にやってくる。アブラハムにおいても親族や住み慣れた故郷を離れて、神が示す新しい土地に旅立てという言葉が聞こえた。それはそれまで自分の考えで生きてきた人生が全く転換する言葉であった。自分が住んでいたところから、遠く離れたところに行け、という命令、それはアブラハムだけのものでは決してない。
人間は本質的に、動物とちがって、このように人生のある時に、神の言葉に従って、導かれていくという歩みをするように創造されているのである。それが罪を犯した者を導く神の愛なのである。罪の本性が入り込んだ人間にとって、そのままでは、必ず自分中心の罪の歩みをしていく、それは滅びへと向かうのみ。
それを滅びから救う道へと引き戻すために、神は呼びかけ、神の呼びかけに従って歩む生活へと導くのである。
神が導かれる生活に入ったからといって、安楽ばかりでは決してない。アブラハムにおいても、神が示した土地に行ったのであったが、飢饉によってそこでおれなくなったり、エジプト王に危うく妻を奪われてしまうところであったり、アブラハムの妻サラと、その仕え女であったハガルとの間に深刻な争いがあって、サラが、ハガルを追い出したために、ハガルは死ぬ寸前までになったこともあった。
このように、神に導かれていく生活といっても、危険や困難、そしてさまざまの悲しみも生じていく。そのただなかで、神はそのわざをなされていく。
モーセも同様である。イスラエルの男子として生まれたが、不思議ないきさつから、エジプトの王女に拾われ、王子として育てられた。しかし、大人になって、同胞のイスラエルの人間が苦しみに遭遇しているのを見て、自分の力と判断で助けようとした。しかしそれは無残にも砕かれて、助けるどころか自分の命が危なくなって、はるか遠くのミデアンにまで、生きるか死ぬかの瀬戸際をさまよいつつ逃げていかねばならなかった。そうした経験によって自分の意志や判断で生きることがいかに、力ないことか、実を結ばないことかを思い知らされる。
その後に、神が現れ、そこからモーセは神の導きを受ける人生へと変えられていく。
自分の力や判断で生きていこうとすることは、このように、むしろ神から離れていくことが多い。自分の意志や善意がすべてであるが、それがいかに弱いか、またいかに善意が報いられないか、悪が強いかを思い知らされる。そうして次第に理想など持ってもなんにもならないとか、人間嫌悪や、自分だけが正しい人間なのだといった高慢な心になっていく。
パウロはそうした例であった。自分の考えや判断で生きていこうとしたが、それは真理とは正反対であり、真理を与えられたキリスト教徒を迫害して殺すことまでした。それでもなお一直線に迫害への道を歩んでいたとき、神からの直接の語りかけによって、パウロは方向転換をさせられた。そして自分の学識や考え、判断で生きていくのでなく、神の導きによって生きていく新たな道を歩み始めたのである。
ダビデも元々は羊飼いであった。羊飼いのままなら、自分の考えや家族の考えの通りに生きていっただろう。しかし、ある時に神によって招かれ、王となる道へと導かれていく。そして当時王であったサウル王からのさまざまの迫害を受けて危うく殺されそうになることも何度もあった。そのような苦難のなかで、詩が生まれ、それが旧約聖書のハートといわれる詩編の母体ともなった。そして彼の信仰がますます試練にあって深められていく。そして彼自身はまったく王になろうという気持ちはなかったにもかかわらず、王となっていく。彼のような、数々の危険をも主に導かれ、信仰も深められたものであっても、心が緩んだときに、大罪を犯してしまう。それは神の導きに背いて自分の本性に引っ張られたからであった。人間はどんなに長く信仰に生きていても、なお神に背いて神の導きから背き去ることがある。ダビデの大きな罪はそれを物語っている。
しかしそこからでも、なお立ち返ることによって再び神の導きに入れていただくことができる。ダビデは家庭の深刻な騒乱を招き、そのために、甚だしい苦しみを受けたが、悔い改めによって神の導きに再び入れていただいた。
しかしそうした苦難と悲しみによって、一度神の特別な導きの生活を歩んでいた者が、その神の導きに背いて、人間の欲望に従おうとすることがいかに重大な結果を招くかを思い知らされたのであった。
預言者とは、偶像崇拝に伴う堕落を警告し、偶像崇拝がいかに人々を迷わせ、社会を腐敗させるかを警告するために遣わされた人々であった。この預言者と言われる人たちは、人生のあるときに徹底して神の導きに従って、神の言葉を語るように命じられた人である。
その間の状況はとくに、エレミヤにおいてよくわかる。エレミヤは、青年時代に突然神からの呼び出しを受けて、どんなに自分は神の言葉など告げられないといっても辞退することは許されず、神の言を担って語る者とされた。それ以後は、命を狙われるような困難、危険のただなかであっても、そして周囲がまったくエレミヤの預言を聞き入れず、かたくなな心によって彼を迫害し続けてもなお、神の導きのままに周囲の支配者たち、民衆の考えに対抗して神の言葉を語り続けたのである。
新約聖書においても、神の導きに生きる姿ははっきりと記されている。ヤコブやペテロ、ヨハネたちの召された記述にも、それは明らかである。漁師としてその仕事中において主イエスの呼び出しを受け、その言葉に従って、主イエスに従うようになった。
ペテロについては、主の導きに従っていきつつも、主イエスが再び来られるときには、私をあなたの右、左において下さいとか、だれが一番偉いかとかの議論をしていて叱責されたこともある。また、主イエスが十字架に付けられるということを予告したとき、そんなことがあってはいけないと、主イエスをいさめることすらしたが、そのときには主イエスから「サタンよ退け!」ときびしく叱責された。そして主イエスがいよいよ捕らえられるというとき、自分は死んでもあなたについていく、とまで確言したのに、逃げてしまい、三度も主イエスを否認したこともあった。こうしたことは、人間が神の導きに生きるようになっても、絶えず気をつけていなければ、自分の考えや周囲の考えに従っていくようになる危険性を表している。
それだけでない。復活のキリストに出会い、聖霊を豊かに受けてもなお、割礼問題で、大きなつまずきをして、信仰によって救われるという基本的な真理からそれることすらあって、パウロから面と向かって叱責されたこともある。
そして、ペテロの最後は、新約聖書には書いてないが、新約聖書から少し後に書かれた文書には、そのことが記されている。
ネロ皇帝の迫害を逃れて、ローマから逃げていくことを信徒たちから勧められ、逃げていく途中、主イエスが現れた。ペテロは、「主よ、どこへ行かれるのですか」(クォ ヴァディス ドミネ Quo Vadis Domine ) と尋ねた。主イエスは、「お前が、ローマのキリスト者たちを捨てて、迫害を恐れて逃げていくから、私がもう一度ローマで十字架にかかるために行くのだ」との答えがあった。それを聞いたペテロは、自分の非を悟って、ローマに引き返し、逆さ十字架にかけられて殉教したと伝えられている。(*)
このペテロの生涯は、導かれる歩みであった。人生のある時期に主が現れ、個人的に呼び出しを受け、主に導かれる歩みを始める。しかしさまざまのこの世の誘惑によって主の導きから離れて自分や周囲の人たちの考えに従おうとする。しかし、主はそのようなときにも警告を与え、適切な機会を与えて主に導かれる歩みへと引き戻される。
(*)このことは、新約聖書の外典に含まれる、ペテロ行伝(紀元180~190年頃に書かれたという)に記されている。ペテロが逆十字架に処刑されたということも、この書にみられる。これは、後にポーランドの作家、シェンキェヴィチによる大作、「クォ・ヴァディス」(一八九六年)に心を動かす記述で描かれて世界的に広く知られるに至った。この作品は、日本でも今から百年ほどまえから紹介されている。彼は、一九〇五年、ノーベル文学賞を受賞した。
聖書以外にもこうした導きについては、大文学にも見られる。ダンテの神曲はそのような導きの生涯をテーマにした深遠な作品である。地獄編はたんに地獄に落とされている描写が興味深いといったものでなく、神の道からはずれるとき、どのような目に遭うのか、それを理性的に深く知ることを意味している。私たちの人生においても、神を知らなかったときにいかに苦しんだか、それを思い起こさせるものがある。そのようにして、神に背いた生活の苦しみを徹底的に思い知らされて、神を知らされ、罪の赦しと清めを受けていく生活となる。そしてさらに、御国への歩みへと続き、聖書にあるように、神とキリストとの深い交わりがどのようなものであるかを、ほかにはだれもなし得なかったような表現でなされていく。それが煉獄と天国である。
ダンテの神曲の冒頭で、人生の半ばにおいて、暗い恐ろしい森にあったこと、思い返すだけでも、身震いするほどであった。そこからようやく光に包まれている丘に着いて、そこからその煉獄の山に上ろうとしたが、そこに人間の古い欲望や高慢など古い人間そのものといえる、妨げるものが行く手を阻んだ。そしてダンテは登るのをあきらめようと、後ずさりしていった。
その時、何者かが眼前に現れたため、ダンテは、「憐れんで下さい!」と叫び、その現れた人こそが、ダンテを導く人だとわかった。ダンテは自分のうちに潜む貪欲とか本能的な欲望や高慢などに、立ち向かおうとしたができないのを思い知らされ、人間を超えるより高い力によって導かれるのでなければ正しく歩めないのを悟ったのである。
ダンテを導く者は、ダンテよりも千三百年ほども昔の、ウェルギリウスという古代ローマ最大の詩人であった。このウェルギリウスは、神のご意志を受けた者からの命令でダンテのもとに遣わされる。
このように、ダンテのような意志強固だと思われるような人であっても、自分の力で光の射す清めの山に登ることはできない、ただ引き返すのみであった。
天国にしても、神の導きを象徴するベアトリーチェという女性によって導かれていく。そして神の愛をしばしば天的な響きの音楽のなかで、知らされていく。
このようなダンテの神曲と共に、導きをテーマにした世界的に知られたキリスト教文学は、ジョン・バンヤンの「天路歴程」である。この世の罪から救われたいと、家族やまわりの人たちが引き止めるのを振り切って旅立った人が、途中のいろいろの困難や試練に出会いつつも、キリストの十字架によって重荷を下ろすことができ、神の導きによって滅びの世から、天の国へと歩んでいく過程を記したものである。
また、旧約聖書の最も有名な詩として知られているのは、詩編二十三編であるが、これも、神による導きによって生きることの幸いを歌っている。
主はわが牧者である。
私には乏しいことがない。
主は私を導いて緑の野に伏させ、
憩いのみぎわに伴って下さる。
そして魂を生き返らせて下さる。
主は御名にふさわしく
私を正しい道に導かれる。
たとい、死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない。
あなたが私と共にいて下さる。
これは、詩編のなかでも最も有名な詩であるが、それが、神の導きをテーマにした詩であるということは、暗示的である。やはり人が最も心に求めているのが、こうした生きた導き、万能の神の御手による導きに生きるということなのだと思わされる。
こうした重要なことを示しているのが、使徒への呼び出しであった。主イエスは、「私についてきなさい。」と言われたが、そのことに従って、ペテロやアンデレ、ヨハネたちは、イエスについて行った。すなわち、主イエスに導かれる生活へと転じたのである。
使徒ペテロ(シモンとも言う)に対して、主イエスが語りかけた最後の言葉は、やはり導きということであった。
イエスは、ペテロに三度も「シモン、私を愛しているか。」と繰り返して問われたあとで、つぎのように言われた。
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。
しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(ヨハネ福音書二十一・8)
これは、若いときには、人間はだれでも自分の意志や考え、希望で生きている。しかしキリストの弟子となり、聖霊を与えられて生きるようになったからには、自分の意志とは別の意志、神の意志により、神に導かれて生きるようになるということを表している。
使徒パウロもキリスト者の生き方というのは、導かれて生きるのだということを強調していて、その導きは神の霊によるということがはっきりと言われている。
神の霊によって、導かれる者は、みな神の子供たちである。(ローマの信徒への手紙八・14)
使徒たちの伝道の記録である、使徒言行録にはいかに弟子たちが聖霊によって導かれていたかが、具体的に記されている。
彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロ(パウロの別名)をわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」(使徒言行録十三・2)
主が決めておいた仕事とは、異邦人への伝道である。パウロのようなキリスト教界で最大の働きをした人物は、決して自分の希望や意志で異邦人への伝道という大仕事に志したのではなかった。この箇所が示しているように、聖霊によって命じられ、それに従ったのである。
このように、聖書によれば、信仰をもって生きるということは、単に復活や十字架ということを言葉のうえで信じているというのでなく、そうしたことを信じた上で、神あるいは聖霊に導かれて生きることなのである。
そうした導きを受けるために第一に必要なことは、私たちの罪が赦され、そこに聖霊が注がれることである。
日本の代表的作家とされる、夏目漱石の「心」という作品がある。
これは、自分が愛する女性を自分の友人にとられそうになった先生といわれる人物が、その友人に対して心ない言動をとる。それによってその友人は自殺してしまう。その原因をただ一人知っている先生はだれにもそのことを話すことができず、一人悩み苦しみ、その解決ができないことに追い詰められ、ついに自らの命を断つという内容である。自分の犯した罪、それが赦されない罪として人を苦しめていく様が描かれている。
罪の赦しへと導かれない人間は、良心的であろうとするほどこのように追い詰められ、苦しみは深まる。
しかし、漱石の「心」は、どこにもその解決が示されていない。このような作品を読んだだけでは、人は自分の内なる赦されない罪によって苦しめられるのみである。
使徒パウロが、自分はどうしても善いことができない。してはならないと思っていることをしてしまう、自分は死のからだを持っていると、深く嘆いている箇所があるが、まさに、罪に苦しめられた人はだれでも、こうした自分自身への絶望のようなものを感じたことがあるだろう。
だからこそ、人間は人間を超えた存在によってまず、罪の赦しへと導かれる必要が生じる。
導きということは、単に個々の人間だけについていえることでない。それは、キリスト者全体が、キリストによって導かれていくことである。
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。…
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(ヨハネ福音書十・14~16より)
このように、羊飼いであるキリストがすべてのキリストを信じる人たち、その集まり全体を導いて一つの群れとすると言われている。こうした全体としての導きは、人間だけでなく、この世界のすべてが一つとされることが約束されている。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのである。(エペソ書一・10)
神の導きということは、この世界や宇宙全体にもかかわっているものであって、たんに偶然的にこの世界が動いているのでもなければ、悪や人間が動かしているのでもない。それらすべてを超えた神が導き、最終的に一つとされるのである。このような大いなることは、人間が考えて生み出したことではない。ただ、神が選んだ人に啓示したことであり、私たちキリスト者もそのような大いなる導きの世界へと招かれているのである。
(なお、これは、七月二十日の主日礼拝に日本キリスト教団・利別教会で話した聖書講話(説教)とほぼ同じものです。)