信仰とは何か(旧約聖書の信仰) 2003/8
聖書全体が信仰とは何かを語っている書物であり、それが実に多様な内容をもっているからこそ、聖書は小さな字でぎっしりと印刷されても、二千ページにもなる。そのどこをとっても、信仰のある側面が記されているといっても過言ではない。そのような豊富な内容からここでは一部を取り出して見たい。
聖書の最初の書物は、創世記である。ここには、信仰がいかなるものか、とくに一部の個人の生き方をたどることによって明らかにされている。
他方では信仰の道がいかに誤りやすいかも示している。聖書の最初の書物がそのような、信仰の道からそれていくことの危険さをまず書いてあることに、気付かされる。
アダムと信仰ということは、ほとんど言われることがない。アダムといえば、人類最初の人間、罪を犯して禁じられた木の実を食べて、エデンの園から追い出されたことしか印象にないという人も多い。
しかし、アダムは神から直接に創造されたのであり、神のことは信仰というより、何よりも身近な存在であった。神は、人間が語るように親しく、アダムに語りかけている。「エデンの園の他のすべての木から取って食べてよい。しかし、中央の木の実は決して食べてはならない。必ず死ぬのだから」と言われたり、神が女であるエバを創造してアダムのところに連れてきたとも書かれている。こうした密接な関係があったのに、それでもなお、アダムは、神に従い続けることができなかった。
ここに、信仰をもって生活することにおいて、いかに正しい道を歩き続けることが困難であるかがはっきりと示されている。聖書の最初にこのように、信仰の困難が記されていることは、驚くべきこととは言えない。それ以後のイスラエルの民の歴史がまさにそうであったからである。
アダムについで、聖書を読むものに印象的であるのは、神とともに歩んで、神がとられていなくなったというエノクの記事である。信仰によってこのように、死が克服されるということがこのエノクの記事で暗示されている。
ノアについては、その「はこ舟」のことでとてもよく知られている。周りの人がすべて、神の裁きなどないと思い込み、間違った生活にはまり込んでいた。そのただなかで、ノアは主の前に恵みを得ることができた。そして神とともに歩み、神への信仰をもって生きた。そこから全地への滅びから逃れることになった。
神とともに歩むとは、信仰の姿をよく表している。単に信じているということでなく、日々の生活のなかで、いつも神の言葉を聞き、神の示しを受けて生きることである。
そのようなノアであったからこそ、大洪水で一年もの長い間、「はこ舟」にて漂流していたが、その後ようやく水が引き始め、ついに陸地が現れ、ノアたちが陸地に降り立ったとき、最初になしたことは、主のために感謝しての礼拝であった。 しかし、そのようなノアであったが、生活が安定してきたときには、ぶどう酒に酔って裸で寝ていたところを子供に目撃されるとか晩年になって信仰にゆるみが生じてきたことが記されている。
こうした信仰の生活が途中で揺らぐことがあるのは、ノアよりずっと後の人間であるが、ダビデにおいてとくにはっきりと示されている。子供のときから神を信じ、武力や詩作、音楽などいろいろの方面に恵まれていたダビデは、さまざまの困難に出会ってもつねに神への信仰を中心として生きてきた。自分が仕えていたサウル王に対しても、王がどんなに理不尽な攻撃をしてきても、なお、正しく信仰の道からはずれることはなかった。しかし、生活が安定してきたとき、重い罪を犯すことになった。それは取り返しのつかない大きい問題を生んだ。
旧約聖書において、決定的に信仰の重要性を示したのが、アブラハムである。アブラハム以前の、アダム、エノクやノアの場合と同様に、信仰は彼らが求めたというより、神から与えられている。
アブラハムの信仰
アブラハムは人生のある時に、神からの呼びかけを受けて出発した。アブラハムにおいて、とくにはっきりと現れているのは、信仰とは、神に導かれる生活だということである。信仰を持っているというと、しばしば、ある信仰箇条を信じているという意味にとられる。復活を信じるとか、万能の神の存在とかである。しかし、ノア、エノクやアブラハムにとって、信仰とは、生きて働く神とともに日々を示されて生きることであった。
ハランからカナンまでは直線距離でも、五百キロもある遠いところである。しかも全くアブラハムにとって未知のところであった。しかし、アブラハムにとっては、信仰とは従うこと、未知の世界へと神の導きを信じて歩むことであった。
主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。(創世記十二・1-4)
こうして神に従っていったアブラハムではあったが、子供が与えられなかった。もうアブラハム夫妻は子供のことをあきらめていた。しかし、あるとき、神が現れて子供が与えられること、そしてさらに夜空の星のように、増え広がることが言われた。こうした神の約束の言葉をすぐにはほとんどだれも信じられないだろう。しかし、アブラハムはそうした信じがたい言葉を信じた。神の全能と導き、そしてアブラハムへの愛を信じた。そのような神の御計画を信じるという、ただそれだけで、神はアブラハムを義とされたとある。このような言葉は聖書においてはここで初めて現れる。
これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。」…
主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみよ。あなたの子孫はこのようになる。」
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記十五・1~6より)
アブラハムは初めからこのように神のことをすぐに信じるものであったのではない。この箇所の直前には、神が現れて、アブラハムの受ける恵みが非常に大きいと言われたが、彼はそれをすぐには信じることができなかった。しかし、神がアブラハムをテントの外に連れ出して、夜空の星を見させて神の大いなる祝福を告げたとき、アブラハムはその神の祝福の言葉を信じた。それが、神によって、義と認められたという。
義とされるとはどういうことなのか、これには、少しも説明がない。またこの「義とされる」という表現は、旧約聖書の膨大な内容にもかかわらず,他では現れない。旧約聖書の言葉の海のなかに、一つだけ浮かんだ木の葉のように感じるものであるにもかかわらず、この一言が新約聖書では実に重要な意味を持つようになる。
ちょうど、「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」という戒めは、レビ記十九章十八節に現れるのみで、分厚い旧約聖書の他の箇所には出てこない。これもそこだけに一言出てくる言葉であるが、主イエスはそれを、神を愛することと並んで、最も重要な戒めと位置づけられた。
使徒パウロはこの創世記にある一言のなかに、キリストの福音の核心が込められているのを、啓示によって悟ったのである。それが彼の書いたローマの信徒への手紙の四章に詳しく記されている。
アブラハムの以後、ずっと後にモーセが現れ、神からの直接の言葉を受け取った。それが十戒であり、そこからじつに多数の戒めが付け加えられた。それが、旧約聖書の申命記、レビ記、民数記などに詳しく記されている。
こうした戒めによって、旧約聖書では戒めを守ることが救いになるとの考え方が当然になっていった。そしてこの「信仰によって義とされる」という真理は、いわば、地下水が大地の表面から深いところで流れているように、旧約聖書の表面から隠れたところで、保たれていたのである。
それが、キリストによって導かれた使徒パウロによって、取り出されたのである。
このように、旧約聖書のうち、創世記では、とくにアブラハムの詳しい記述によって、信仰とは動的なものであり、導かれていくものであるということが最初から記されている。神は私たちが神を信じてじっととどまっていることでなく、神が示す新しい場へと導こうとされる。同じところに止まっていない、たえず前進していく姿勢がある。信仰のない人にあっても、そうした前進を心がけている人も多いだろう。しかし、信仰との違いは、必ず目的地に着くことができるということである。信仰なければ、途中に生じるさまざまの妨げによって最終的には、その前進は阻まれてしまう。いかに目的に近づいたといっても、最後は死によってすべては失われてしまう。
しかし、現代の私たちの信仰は、死を超えた神の国への前進であって、私たちの方で信じることを捨てないかぎり、必ず神の国へと導かれる。
こうした動的な信仰のあり方が示されているとともに、アブラハムにおいては、信仰によって義とされること、すなわち罪赦されて神の子どもとしていただける道がすでに暗示されている。このことは、神によって導かれるための出発点にあることであり、信仰に生きるための原点なのである。信仰によって義とされるという真理の重要性は、キリストによって光が与えられ、使徒パウロがそれを前面に出してくるまで、いわば地下水のように気づかれないところで流れ続けていたといえる。
詩編における信仰
創世記における信仰が、動的であり、導かれて未知のところへと歩んでいく姿が示されているのに対して、詩編における信仰は、応答して下さる神が強調されている。詩編の作者の信仰とは、苦しみのとき、敵に追い詰められ、あるいは病気の痛みにさいなまれるとき、神にむかって叫び、神への助けを懇願するときに神が応えて下さったという実際の経験が根底に流れている。それは詩編の随所で見られるが一つふたつ例をあげてみる。
詩編十三編を見ると、いつまでこの苦しみは続くのか、悲しみはいつ終わるのかという激しい叫びがある。死ぬかと思われるほどの苦しみがこの詩の作者の経験としてあった。しかし、そこから最後には、答えが与えられたという全身にしみわたる幸いがこの詩の内容となっている。
いつまで、主よ
わたしを忘れておられるのか。
いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
いつまで、わたしの魂は思い煩い
日々の嘆きが心を去らないのか。
いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。
わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え
わたしの目に光を与えてください
死の眠りに就くことのないように
敵が勝ったと思うことのないように
わたしを苦しめる者が
動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。
あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り
主に向かって歌います
「主はわたしに報いてくださった」と。(詩編十三編より)
詩編十八編もそうした内容である。
死の波が私を囲み
滅びの大水がわたしを襲った。
陰府の縄がめぐり
死のわなが私を襲う。
苦難の中から私は主を呼び求め
わたしの神に向かって叫ぶ。
神はその宮よりわが声を聞き、
叫びは、御耳に届く。
… 主は高きより御手を伸ばしてわたしをとらえ
大水の中から引き上げてくださる。
敵は力があり
わたしを憎む者は勝ち誇っているが
なお、主はわたしを救い出される。
彼らが攻め寄せる災いの日
主はわたしの支えとなり
わたしを広い所に導き出し、助けとなり
喜び迎えてくださる。(詩編十八・5~20より)
いずれの詩も、悪に追い詰められ、その苦しみと危険はただならぬものがあった。ただ必死に叫び、神の力にすがる他はない状態だというのがうかがえる。死の波、大水が私を襲い、死の縄が、私を襲うという表現には、もう死が間近に迫っているという緊迫した状態を感じさせるものがある。こうしたぎりぎりのところから、この詩の作者は神に叫ぶ。その必死の祈りと叫びに神は答えて下さる。いかなる人間も助けを与えてはくれないような状況にあって、ただ神のみが変わらぬ助けと力を与えて下さるのを信じて呼び求めたのであった。こうした祈りや叫びには神は必ず答えて下さる。その確信が信仰なのである。信仰とは、なにもないときに、神を信じていますと、いうだけのものでなく、人生の最大の危機、それは病気や人間関係であったり、老年の危機であったり、また戦争など社会問題と関わっていることもある。しかし、どのような状況にあっても、必ず求めるものに答えて下さるというのが、こうした詩編の私たちへのメッセージなのである。
このように、応答して下さる神ということは、詩編によってとくにはっきりとわかる。
しかし、この世の現実は、どんなにしても神からの応答がないと感じられ、恐ろしい苦しみにあえぐこともしばしばある。そうした沈黙している神を前にして、もう信じていくことができないほどの苦しみに直面することがある。そうした信仰の危機は、詩編にも多く見られる。「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」に始まる詩編二十二編はその代表的なものの一つであり、そうした信仰の危機的状況を一つの長い詩に表したのが、ヨブ記である。
こうした信仰の危機においても、神は最終的には顧みて下さり、救いへと導かれることがヨブ記の内容となっている。
しかし、迫害の時代には実際に望むような助けも与えられないようなことが生じる。
そのようなときでも、信仰に踏みとどまるという強固な信仰も記されているのが、ダニエル書である。この書物では、迫害における個人の信仰とはどのような内容でありうるかを次のような言葉で記している。それは、バビロンの王が、金で造った偶像を拝めとの命令を出した。しかし、三人の神を信じる者たちは、つぎのように答えた。
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。
わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。
そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(ダニエル書三・16~18)
このように、いかなることがあっても、信仰を捨てないという毅然たる姿勢が表明された。実際、これはローマ帝国や日本の江戸時代の厳しい迫害、あるいは、世界の多くの地方でも初めてキリスト教が入っていったときにはこうした迫害がつねにあった。そのとき神に立てられたキリスト者たちは、このように命をかけて神を信じてその信仰を貫いた。それは人間の意志や努力ではなく、神がそのような人を起こされ、特別に力を与え、導かれたのである。
ダニエル書には、こうした極限状況における信仰が記されているだけでなく、そうした神の真理を迫害し、その真理につく者たちを滅ぼそうとする悪の力、その悪の力によってたてられた国家や社会がいかに動いていくか、それらは個人の信仰などと関わりなく偶然によって、悪意や武力によって動いているように見える。しかし、そうした個人を超えた大きな世界的な動きすらも、実は背後に神の大きい御手があり、御計画がある。そして最終的には、神のいっさいの力を与えられた人の子のような存在が現れて、支配するということが暗示されている。
このように、ダニエル書では信仰ということが、単に個人の平安とか救いにとどまらず、全世界を支配し、歴史を導いていく神への信仰が記されている。そしてそのことは、主イエスによってさらに完全なかたちを与えられることになる。
以上のように、旧約聖書における信仰は、神によって導かれていく信仰であり、それは未知の世界へとどこまでも導かれていく信仰だといえる。そうした導かれていく過程で、さまざまの苦難や悲しみに出会う。そうした苦しみのときに、必ず応答して下さるという信仰もとくに詩編において繰り返し記されている。そしてさらに自分や自分の国だけでなく、世界全体が大いなる御手によって導かれているのだという信仰へとつながっていく。