戦争の悪 2003/8
八月は多くの人が太平洋戦争の敗戦のこと、そしてあの戦争全体のことを思い出す月となっている。そして広島、長崎に原爆が落とされ、何十万という人の命が失われ、傷つき、命が助かった人たちも長い間放射線のための病に苦しむ人を生み出した。ガン治療のために、放射線を体のごく一部に照射しても後遺症で苦しまねばならない状態になる人もいる。そうしたことから考えても、全身に多量の放射線を浴びた人たちが、その後どれほどの苦しみにさいなまれていったか、私たちの想像をはるかに超えるものがある。
一瞬にして十万、二十万もの人の命を奪い、後々までも、多大の苦しみの後に死んでいく人たちのことを知らされるにつけても、核兵器の恐ろしさを思い知らされる。
このような惨状を与えた、アメリカが非難されるべきなのは当然である。しかし、およそ戦争という大量殺人や破壊行為は、どちらかだけが正しくて、他方が悪いということは単純にはいえない。それぞれが相手の命を奪い、傷つけあっていくゆえに、双方が殺人という重い罪を犯していくのが戦争である。
私たちはなぜあのような悲劇が生じたのか、どのようないきさつと状況があったのか、少しでも正しい認識を持つために、いつも歴史のなかで考えていくことが必要である。
あの悲劇はアメリカが何もしていない日本にいきなり落としたのではない。まず、日本がアメリカやイギリスに対して戦争を始め、真珠湾に奇襲攻撃を与えて、多大の命を奪い、損害を与えたことへの報復の結果であった。
さらにさかのぼると、そのような戦争への道は、日本が一九三一年に、中国に対して戦争をしかけたことに出発点があった。これは満州の奉天近くで満鉄線の線路が爆破されたことからであるが、その爆破は軍部が計画的に行ったことであり、それを中国が攻撃してきたと偽って、戦争へとつきすすんでいくことになったのである。このように、中国にも、アメリカに対してもまず、日本が戦争をしかけたのであった。
終戦の五カ月ほどまえ、一九四五年三月十日には東京大空襲が行われ,三〇〇機のB29が東京に爆弾を投下し、強風で燃え広がって、死者は約10万人に達した。その後もわずか十日ほどの間に、大阪、神戸、また名古屋が焼夷弾で焼き払われた。さらに五百機ものB29が大都市を爆撃し、京浜、中京、阪神の都市を焼き尽くした。六月中旬からは地方都市への夜間焼夷弾爆撃が始まり、つぎつぎと焼き払われていった。
沖縄での地上戦では、一九四五年四月からのわずか三カ月ほどで、沖縄の人々は十万人もの死者を出し、日本軍人も十一万人もが戦死した。それほどに攻撃はすさまじいものであった。アメリカ軍は約千五百隻の艦船と、延べ54万八千人もの兵をもって攻撃をしたのである。
こうした大軍が、沖縄戦のあと、空襲とともに九州や四国、そして全国に襲いかかるなら、各地で無数の死者や傷ついた人で埋まっていっただろう。
原爆が落とされる少し前、七月二六日に出されたポツダム宣言は,日本が非軍事化と民主化を二本の柱とする対日処理方針を受け入れて、即時無条件降伏することを求めていた。これに対し日本では,その二日後に鈴木首相が軍部の圧力に屈してポツダム宣言を黙殺して「断固、戦争を完遂することに邁進する」と発表した。これはポツダム宣言を拒否したことであり、その後わずか十日もたたない八月六日、広島に原爆が落とされたのであった。それはポツダム宣言が言っていた、「日本が無条件降伏しないかぎり、日本は、迅速かつ完全な壊滅があるのみ」ということの驚くべきはやい結果であった。
そして当時のアメリカのトルーマン大統領は「もし、日本がポツダム宣言を受け入れないなら、日本国内のどんな都市も、その機能を破壊し、戦争能力を根こそぎ抹殺する準備を整えている。」と言明していた。こうした、状況から、日本の指導者たちは、予想していたよりはるかに早く現実に「完全な壊滅」が行われることを目の当たりにしてようやく、本気で降伏を受け入れようとし始めたのである。
そして数日後、さらに長崎への原爆、ソ連の参戦という決定的なことが生じた。
しかし、それでもなお、陸軍大臣は「一億マクラを並べて倒れても、大義に生くべきなり」として徹底抗戦を主張し、参謀総長、軍司令部総長なども同調していたのであった。
このように、広島や長崎への原爆投下がなく、一般的な空襲などの攻撃では、日本はまだまだ戦争を継続していただろうし、ポツダム宣言のいうように、日本全土が壊滅的打撃を受け、数知れない人たちが死んでいっただろう。その意味では、原爆投下によって生じた数十万の人たちの死や言語に絶する苦しみは、ほかの地域の人たちのいわば身代わりとなったのであった。
いずれにしても、政府の指導者、軍人、そして最終的な決定者である天皇の判断の間違いゆえに、日本にはおびただしい人が犠牲になる道しか残っていなかったのである。
ポツダム宣言が出されたとき、ただちに受け入れていたら、広島の原爆はなかった。天皇がもっと半年ほど早く戦争を終わらせることに全力を尽くしていたら、やはり広島、長崎、沖縄、東京大空襲、そしてその後の全国の空襲もなかったのである。
さらに、そうした戦争自体を始めなかったらやはり、広島や長崎どころか、中国やアジアの人々、そして米英の兵隊たちなど、すべて合わせて数千万にものぼる人々の悲劇もなかった。
ヨーロッパにおける第二次世界大戦も、一九三九年九月、まずドイツがポーランドに戦争をしかけたことから始まった。そしてヨーロッパ全体にわたって、無数の人々の命が奪われ、さまざまのものが破壊された。そして攻撃を始めたドイツの降伏で終わった。ドイツが戦争をしかけてなかったらそうした一切は生じていなかったのである。
ベトナム戦争は一九六〇年頃からアメリカが始めたもので、十数年のはげしい戦争の結果、アメリカが敗北し、戦争の誤りはアメリカも公式に認めるようになった。戦争の犠牲者はアメリカとベトナム双方で、およそ、一二〇万人、負傷者は二〇〇万人以上といわれ、使用した弾薬や爆弾は第二次世界大戦をはるかに超えたという。
アメリカ軍はベトナム戦争においてゲリラの隠れ家と食糧源を破壊する目的で枯葉作戦を実施し、大量の除草剤(枯葉剤と呼ばれた)を散布した。このため熱帯の密林に長期間の生態系破壊をもたらしたほか,ダイオキシンと呼ばれる化学物質による強力な発癌性,胎児への催奇性などが,多くの住民に対して、また散布に参加した米兵にも悲惨な災害を与えていった。
これも結局は、戦争をはじめたアメリカがこうした甚大な被害を生み出したのであった。
戦争ということは、まずどちらかの国がしかけると、攻撃をうけたほうは反撃する、そこで双方のおびただしい人が死んでいく。政府の指導者や軍部は人間が大量に死んでいくことであるから、国民の非難を避けようと、一度始めたら何とか勝利をえようとして簡単には止めようとしない。
その意味で、まず戦争を決して始めないことが根本的に重要になる。
現在の平和憲法はそのような深い反省から、まず戦争を絶対に始めないという精神が根底にある。このような歴史の無数の悲劇を教訓として作られたものを、変えてしまおうというのは、そうした無数の人々の命や苦しみから与えられた教訓を捨てようとすることであり、聖書に記されている究極的な真理(*)に反することである。
(*)・あなた方が聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ福音書五・44)
・ …こうして彼らはその剣を打ちかえて、鋤(すき)とし、その槍を打ちかえて、鎌とし、国は国にむかって、剣をあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。(イザヤ書二・4)
一度戦争をはじめてしまうと、双方は愛する家族や友人が殺されたということで、憎しみが増幅されていく。もともと全く憎しみなどもっていなかった、遠い未知の人たちを憎み、殺すことを願うようになる。それは大きな罪である。何も知らない人、本来何ら敵意ももっていなかった人を無差別に殺すようなことは深い罪であり、戦争はそうしたことをどこまでも追求するものである。
現在もアメリカがイラクにまず、戦争をしかけたことから、新たな難問が生じている。
だからこそ、戦争を始めてはならないのであって、そのために、戦争の深い傷をうけ、また他国にも与えた日本が平和をあくまで守り、武力をもって活動しない方針を守ることが重要なのである。こうした考え方が、戦後五〇年を過ぎたころから次第に軽視されるようになりつつある。
しかし、時代や社会的状況に関わらない永遠的真理は、いつの時代にも少数の者が守り、主張していくのである。