リストボタン謙遜について   2003/9

傲慢とは、自分を力あるものとし、他人を見下すような態度であり、謙遜とは言葉使いとか態度がそのようでないことと思われている。しかし、単にそうした外に現れた態度だけをいうのでない。
自分が小さいと感じるのは、いろいろの能力が欠けていることで小さいと感じることもある。例えば、数学ができない、英語がわからないといったことから、自分はわずかの能力しかない、小さいものだと感じる。大人になっても、毎日の生活のなかで、自分自身の性格を変えられない、仕事ができない、思ったことが表現できないなど、いくらでも自分が小さいと感じることはある。ことに病気になると、それが苦しいものであるほど、自分が小さいことを痛切に感じさせられる。このように、この世にはだれにでもいろいろと苦しいこと、困難な問題が生じて、自分の力がないことを思い知らされることはたくさんある。
それにもかかわらず、人間は傲慢であるのはなぜだろう。自分が小さいと感じても、自分より小さいとか、劣ったと思われる人間にはすぐに傲慢になる。 それはやはり、本当に自分の小さいことがわかっていないことと、愛を持たないことにある。
小さな存在に対して見下すのでなく、慈しみをもって、またその小さな存在が支えられるようにと願う心をもっているなら、そこには傲慢な心は出てこない。
真の謙遜とは、神の前にどんなに自分が小さい存在であるかを実感するところにある。単に小さいと感じるだけでは、十分でない。その小さいと実感するにもかかわらず、その取るに足らない自分に、神が顧みて下さり、力を与えて励まして下さり、ともに歩んで下さることを知ることにある。
どんなに能力があり、仕事ができても、本当にだれに対してでも愛をもっているのか、生活の場において、正しいことがいつもできているのか、いうべきことを言い、言うべきでないことを言わないという基本的なこともできているのか、自分中心でなく、真理をまず第一に考えているのか、などといったことを考えるとき、私たちはそうした真実のあり方からははるかに遠く離れていること(罪)を感じる。
そうした罪を知って自分の小さいことを知り、そこに、罪の赦しという神からの力が注がれることを経験するとき、初めて私たちは本当の謙遜へと近づく。人間の心の最も奥深いところのできごとである罪ということを赦したり、取り除くことができるのは、どんなに権力があろうとも、金があろうともできないのであって、そうした罪を除くことこそ、人間を超えた力のはたらきである。それゆえ、そのような罪のゆるしを経験した者は、この世には、生まれつきの能力や金などどんな力も及ばない、神の力が存在することを知らされる。
キリストの弟子たちは、すべてを捨ててキリストに従ったし、三年の間、間近にキリストの言動、大いなる奇跡を目の当たりにしてきた。それでも、なお、キリストがもうじき十字架にかけられるという時であっても、だれが弟子たちのなかで、一番偉いのかとか、キリストが王となったときには、自分をあなたの右において下さいといった願いをするような、自分中心的な考えであった。だれが一番大きい存在なのかということを問題にする心は、小さいものを見下し、自分が他の者よりも大きいのだという意識にとらわれていることになる。
そして、ペテロはたとえイエスが殺されるようなことがあっても、従っていくと明言したのに、その直後のゲツセマネの園における祈りのときには、イエスと共に祈ることができず、ほかの弟子たちと共にみんな眠ってしまった。そのときの主イエスの祈りは、生涯のうちで最も真剣なものであって、苦しみもだえつつ祈り、そのときには血の汗がしたたり落ちたと記されているほどであった。
しかも、そのすぐあとに主イエスが捕らわれたときにはみんなが逃げてしまったこと、ペテロは三度もイエスを知らないと否定したことが書かれている。それは、どんなに人間が小さいか、を思い知らせることであった。
しかし、それだけで終わらなかった。そうした心に刺さる深い痛みを味わったあと、主イエスによる赦しを受け、そこから復活のキリストに出会い、さらに、そのキリストから命じられた通りに、みんなで祈っていたときに、大いなる力が上から注がれた。それは聖霊であった。この聖霊が与えられてはじめて弟子たちは本当の謙遜なものとせられていった。
パウロも、こうした本当の謙遜を知っていた代表的人物であった。

しかしわたしたちは、この宝(キリストの福音、真理)を土の器の中に持っている。
その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。(コリント四・7

パウロは自分は土くれのようなものだと感じていた。それが「土の器」という言葉に表れている。しかしそのような小さい存在であるにもかかわらず、そこに計り知れない神の力が与えられているという確かな実感があった。
謙遜とは、英語で humility というが、この言葉は、ラテン語の humus に語源があり、これは、「土」を意味する。パウロは文字通り自分が土のごとき存在であることを感じていたのである。
「真の謙遜とは、自分以外のところから来ている力を実感することだ。」とヒルティは簡潔に述べているが(*)、たしかにそのように自分が小さいと感じ、そこに神からの力が与えられるという経験をすることで初めて私たちは謙遜ということを知る。
新約聖書のはじめのところで、主イエスの教えの最初にある、「心の貧しい者は幸いだ。天の国はかれらのものである。」ということもこの真の謙遜あるところに、天の国が与えられるという約束なのである。

*)眠れぬ夜のために 第一部 9月6日の項

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