受け身に生きる 2003/10/3
聖書を読んでいると、気付くのは受け身の生き方が目立つということである。聖書やキリストのことを知るまでは、自分で主体的に能動的に生きることが一番よいというように思わされてきた。自分で考え、自分で行動するのが何より大切なのだというようにである。
しかし、聖書では、自分で考えるとか自分で主体的に生きるということが、いかにもろいかをすぐに教えられる。聖書の最初に置かれている書、創世記には、アダムとエバの話が出てくる。神の最善の戒めに背いたのは、自分の考えに従ったからである。このくらい背いてもよいだろう、といった考えは自分で判断したのである。ヘビにそそのかされたことがきっかけであるが、そそのかされたとき、自分で考えた上で、神に背くことを選んだのであった。
ここでも、自分で主体的に考えて行動するということが、いかに誤りを含んでいるかが示されている。
これは特にパウロの書簡でも示されている。
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ…(ロマ書一・1)
使徒パウロは、自分のことを現代の我々からみると驚くべきような言葉で表している。
僕と訳されている原語とは、奴隷のことである。奴隷はまったく受け身で生きる。自分で考え、自分で行動などしていたら、厳しい取り扱いをうけるか売り飛ばされてしまい、生きられないからであった。
命じられるままに、行動する、これが奴隷なのである。
また、次には「選び出された」という言葉も同様であって、自分の意志で使徒になったのでない、そのような特別な職務にはとても自分の意志ではできないという意識がある。理由は分からないがとにかく全能の神が深い理由によって自分を選んで下さったという、神への深い畏れを伴う感謝の心がここには感じられる。
かつてキリスト者を迫害して殺すことまでしたような人間であるのに、なにゆえに、自分がとくに福音を伝えるという重要な職務に選び出されたのか、それは全く分からない。わかるのは、ただ、神の全能とその全能の神がすべてを知っておられるのに、それでも自分を選んで下さったということへの深い感謝の念なのである。それはかつての自分の重い罪を赦して下さったのでなければ選ばれることはあり得ない。あのような自分をも赦し受け入れて下さったということを深く実感させるものである。こんな自分をも選んで下さったという深い感謝の念がここには現れている。
つぎに、「召されて」という言葉である。これは、原語では、「呼ばれた」(*)というごくふつうの言葉である。英語でいえば、called であり、どこにでも聞かれる言葉であるが、日本語訳のように、「召された」などというと、日常ではほとんど使われない言葉になってくる。要するに、神あるいは、キリストから呼び出されたということなのである。
また、「使徒」という語も、原語では、「遣わされた者」(**)という意味であって、これもまた、受け身の意味を持っている言葉である。
(*)ギリシャ語では、クレートス(kletos)という言葉で、「カレオー kaleo(呼ぶ)」という語から作られた言葉で、「呼ばれた」という意味で受け身の意味を持っている。
(**)この語の原語は、apostolos といい、「遣わす、派遣する」(アポステロー)apostello という語から作られた言葉で、「遣わされた者」という意味になる。
こう見てくると、使徒パウロは自分のことを、つねに受け身の存在として深く感じていたのが分かってくる。キリストに敵対していた自分を愛し、十字架によって救って下さった、なんと自分は神に愛されている存在なのかという実感が感じられる。
このような、受け身のあり方は、聖書には基本的なあり方なのである。聖書の一番最初の書物である、創世記で最も重要な人物はアブラハムである。そのアブラハムの信仰のあり方がのちの聖書に記された信仰のあり方の基本となっているほどであり、それゆえに「信仰の父」と言われる。そのアブラハムも、やはり自分の意志でそのような信仰の先達となったのでなく、まず、神がアブラハムを呼び出し、その呼びかけに応えて神の導きに身を委ねたことが出発点にあった。パウロと同様に、神から「呼び出された」経験がもとになっているのである。そしてその後もいろいろと失敗もあり、人間的な考えにとらわれたこともあったが、その都度、神からの呼びかけによって立ち直っていった。
モーセも同様で、初めは自分で同胞の苦難を救おうとしたが、かえって殺されそうになり、遠くの地まで命からがら逃げて行った。そのところで、結婚し、子供も生れて、羊飼いの平和な生活を送っていたとき、モーセは神から呼び出されたのであった。モーセが自分で考えてエジプトから奴隷のように扱われている同胞の苦しみを救おうとしたのではなかった。そんなことは考えることもできない不可能なことであったからである。
そうした羊飼いという生活の中において、神からの呼び出しをうけたことが、彼の生涯にとって決定的なことになったし、彼の同胞にとってものちの世界の歴史にとってもきわめて重大な影響をもたらすことになった
また、旧約聖書に見られるが、戦いは主の戦いであり、主が戦われるということが重要な真理であった。
モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。
(出エジプト記十七・11)
これも、ふつうの戦いとまったく異なるものである。普通の戦争は、自分の武力に頼んで先制攻撃を加えようとする。太平洋戦争でもそうであった。しかし、この出エジプト記の例では、モーセは武力や兵士の数に頼んで攻撃するのでなく、モーセはただ神に祈り続けるだけであった。手を上げているとは、神に必死に祈るその姿を象徴的にあらわしている。神が戦い、勝って下さるのを待つばかりなのである。ここにも受け身がある。戦いすらも、本質的に受け身なのである。
このように、受け身の生活はよくないとか、つまらないと思っているのは、大きなまちがいであって、世界の決定的な重要な出来事も実はこのように、自分以外のところからの呼びかけを聞き取ることにあった。
主イエスのような方ですら、自分では何もできないと言われた。
…イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子(イエスのこと)は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」…
わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。(ヨハネ福音書五章より)
このように、二回も繰り返して、主イエスは自分からでは何事もできないと強調されている。ここにも受け身の生こそ、究極的なものであることが示されている。主イエスは、
「私は道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ十四・6)
と言われた。主イエスが真理そのものであるが、それは完全に神に対して受け身であり、神からの真理や命がすべて流れ込むようになっていたからであった。神の真理や命は神ご自身のものであるから、当然、力も含まれている。受け身というとなにか、弱々しいものを連想する人があるであろうが、それは全く逆なのである。
主イエスがいかに敵対する人が取り巻いても、また十字架に架けられるという事態になっても、なお、周囲のものが驚くほど沈黙を守り、泰然自若としておられたのは、周囲の人々の敵対心に対しても動揺させられない力を持っておられたからであり、それは神に対して完全に受け身であったゆえに神の力が注がれていたからであった。
主イエスは「私はすでに世に勝っている」と言われたが、私たちはただそれを信じるだけで、その勝利にあずかることができるのである。
信仰を持って生きるとは、神に導かれて生きるということである。自分の意志で切り開いていくというのではない。「自分の意志で道を切り開いていく」というと、聞こえはよいが、実際には、至るところで切り開けない状況に直面して、だれかの助けを与えられるのを待つしかない。
自然の風物はなぜあのように、美しいのか、なぜ人間とは全くことなる純粋さを持ち、それゆえに一層の美しさを保っているのか。それは、自然の風物が、人間の前に提示され、人間が受け身になって、それら神のわざを受け取ろうとするかどうかが問われているのである。
虫が美しい声で歌っている、私たちが受け身の心になって、それに対して心を開くと自然にそれは心に流れ込んでくる。神ご自身の作品である、大空や星、山々やその渓谷の美しさ、雄大さ、あるいは野草の繊細な美しさ、などなどすべては、神がすでに創造されてあり、私たちの眼前に繰り広げられている。ただ私たちはそれを心を空しくして受け入れるだけでよいのである。自分で作り出して味わうことなど不要なのである。
福音書の最初のところで、本当の幸いについて記されている。それは、「心の貧しいものこそ、幸いだ」(マタイ福音書五章)というのである。心の貧しいということは、すなわち、心になにも自慢や誇り、金や能力など、頼むものを持っていない状態であり、神に対して全くの受け身の心を指している。そのような心にこそ、神の国が与えられるという約束である。
そして、私たちの日々の生活も自分の意志や努力で切り開いていく必要はなく、主によって導かれるままに生きていくことが求められている。信仰を持って生きるとは、大いなる御手によって導かれて生きるという受け身の生なのである。
そして私たちの肉体の命が終わるときには、神によって復活させて下さることが約束されている。復活ということなど、まったく人間の力とか意志、金やいかなる権力によってもできない。それはただ、神がしてくださることであり、それを待ち望むことだけが私たちにできることであり、そうした受け身の姿勢だけが必要とされているのである。
自分の力に頼って生きること、それは、主体的に生きるとか言ってこの世のほとんどの人たちがそれこそが一番よい生き方なのだと思っているが、それは実に危ないし、不安や心配に満ちた道である。自分そのものがいかに頼りない存在か、いったん事故や難しい病気になったりするとたちまち自分の意志や働きなどきわめて限定されてしまうからである。
神に対して受け身に生きるという、弱いように見える生き方が実は最も強い力を発揮する生き方であるのは、歴史を見ても、また本当にキリスト信仰に生きた人をみてもその強さがわかる。それは神の力がそこに注がれるからである。