勝つことがすべて 2003/10/2
あるスポーツの有名な人が、監督を辞めた。それを評して、別の監督が我々の世界は勝つことが第一だ、負ければ辞めるのも仕方がないと言ったという。
勝つことがすべて、これは、なにもスポーツの世界だけのことでない。信仰の世界も実は勝つことが第一なのである。
私たちが勝利を得るために、神は信仰を与えられた。
十字架にてはりつけの刑に処せられたが、それはじつは罪の力に勝利されたということであり、完全な善の敗北と思われる出来事が実は、最大の勝利なのであった。
キリスト教において勝つということ、それは、ふつう世の中で言われている勝利とは大きく異なっている。世の中の勝利は、スポーツの世界で典型的にみられるように、数である。得点をどれだけとったか、打率やホームランがどれほどあるかということが決定的である。また、会社などでも、どれだけ収益をあげたか、これも金額であり、数である。
入試でも、得点で合格が決まり、敗北とはすなわち得点が少ないことである。
スポーツでも、入社、入試などのテストでも、わずか一点低ければ負けということになるし、不合格になる。勝った人と、負けた人の差が一点しかない、それでも、勝利したものは、大学入試であれば大学生となっていくし、スポーツでは、優勝となると、多大の名誉や報奨金なども伴う。しかし実際は、一点しか差がなく、気候や体調などほんの一時的なことでも決まったということも多い。
そうした得点をとるためには、生まれつきの能力が必要だし、健康も必要である。ベッドに寝ているような病人では、スポーツそのものがはじめからできないし、会社勤めも、勉強もわずかしかできないから大学入試もきわめて難しくなる。さらに天候とか体調など偶然的なこともかかわってくる。
しかし、キリスト教信仰の世界で、勝つということは、そうした「数」とはまったく異なる意味を持っている。わずか一点で決定的に勝利と敗北が決まったり、
天気や体調によって決まるというものでない。
それは、人間との戦いでなく、悪との戦いである。キリスト教にいう、勝つことがすべてというのは、悪との戦いに勝つことがすべてということである。
しかも、その勝利のためには、人間はただ信じる心があればよいというのである。私たちの生まれつきの能力や努力、健康や偶然、あるいは金の力といったものによらず、すでに勝負はついているというのであり、その勝利を得るためには、人間はただ、神を信じ、神を仰げば足りるというのである。
人間は、その内に働く、罪の力に負けていて、死んだも同然の状態になっている。
罪の力とは、神の持っているような究極的な真実や正しさ、あるいは、愛ということに反するようにさせる力である。はじめからすでに敗北しているのであるがその中に主イエスが来てくださって、負けている者を新しく立ち上がらせ、本来は決して持つことのできない勝利を与えられるということである。
キリスト教信仰の根本的な内容とは、罪の力に勝つことである。そして、それがすべてであるとすら言えよう。
旧約聖書からすでにそのことは、重要な内容となっている。アダムとエバの物語は、罪の力に敗北した人間の根源的な姿が表されている。また、モーセが受けた十戒という神からの戒めは、罪の力に負けないようにとの戒めであると言える。偶像崇拝してはいけない、というのも、真実と愛に満ちた神以外のものを大切にするとは、すなわち悪に負けることであるし、安息日を守れというのも、それによって悪の力に負けないようにするためである。
しかし、十戒のような戒めをいくら繰り返し言われても、悪の力に勝つことはできない。預言者がいくら警告しても民は聞き入れなかった。そのゆえに、神はキリストを地上に送ったのであった。キリストは、人間を罪の力に勝たしめるために送られてきたお方であった。
キリストは罪の力に勝利したお方であるということは、死にも勝利したということになる。
…死はすべての人に及んだ。すべての人が罪を犯したからである。(ローマの信徒への手紙五・12より)
多くの場合、人は死ということを、肉体の死とだけ考えて、罪と何の関係もないことと思っている。けれども、使徒パウロは、人間にとって死という最大の暗い出来事は、実は罪の結果なのだと示されていた。これは驚くべき洞察である。死はごく自然な現象として自然界には、至るところに見られる。人間に限らず、動植物全般にわたって、死ということがある。それは罪となんの関係もないように思われるからである。
しかし、そうした表面的な見方と全くことなる見方をパウロは神から示されていたのである。
そこから、キリストは罪の結果である死に対しても勝利したのだということが弟子たちにも次第に明らかになってきた。
罪の力(悪の力)と死の力に勝ったキリスト、そのキリストを信じることによって、私たちもその勝利を受けることができる。
この二つに勝つならば、私たちはどんなことが降りかかってきてもそれに負けずに勝利する道が開かれていると言えよう。
それゆえに、ヨハネ福音書において、キリストがとらわれる直前の夕食の時に述べた最後の言葉が、
「勇気を出せ、私はすでに世に勝っている。」
(ヨハネ福音書十六・33)
ということであった。ここで言われている「世」とは、この世であり、この世を支配しているかのように見える悪の力を指している。神などいないとするこの世の霊的な力に勝利しているということなのである。それは、イエスを殺そうとするような力にもすでに勝利しているということであった。だからこそ、十字架上で殺されるという最も敗北のようなことのただなかに、勝利が得られたのである。
私たちを打ち負かそうと押し寄せてくるこの世の力、闇の力そして死の力に対して、自分の考えや意志の力では到底勝利などできない。科学技術がいかに発達したからといってもそうしたものに勝つ力とか方法は全く与えることはできない。それは人間を超えた力によって初めて勝利ということが視線に入ってくる。
さらに聖書の最後の書物である、黙示録というのも、その内容は要するに、悪の力との戦いにおいて、最終的に神が勝つということがテーマとなっていると言えよう。
…世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。 (Ⅰヨハネ五・5)
まことに、キリスト教とは「勝つ」ことがすべてなのである。