はこ舟 2003年11月 第514号
聖なる大路
目を覚ましていること
海と風を静める
渇きを満たすもの 詩篇四十二篇
政治と信仰
休憩室
ことば
返舟だより
聖なる大路 2003/11
この世には、さまざまの道がある。どこに続いているのかわからない。その道を歩いていけば、行き着く先は、闇であり、抜け出すことのできない迷路や出ることのできない沼のようなところに続くのもある。崖から転落するような道もたくさんある。オウム真理教のような新興宗教などもそのようなものが多い。組織の奴隷のようになったり、金やエネルギーだけでなく、心まで奪い取られることもある。
また、目に見えないものは信じないという道を日本人の大多数は歩んでいるが、その道の行き着く先は、滅びしかないということになる。死後は目には見えないものになるのであり、目に見えないものは存在しないと信じて生きていくなら、当然、死後は一切が無となり、それは滅びに他ならないからである。
名誉や事業の成功、遊びや快楽を求める道も、いずれそれらは行き詰まり、道はなくなっていく。人間は老年になるとともに、能力は衰え、病気がちとなり、事業も、遊びも名誉も追求できなくなっていくからである。
そうしたこの世の道とまったく異なる道が、聖書では古くからはっきりと示されている。
…荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。…
そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ
汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ
愚か者がそこに迷い入ることはない。(旧約聖書 イザヤ書三五・6~8より)
この言葉は、神によって救いを受けた者が歩む道を指し示している。そこには、この世の荒野のただなかにあって、天よりの水が流れ、うるおされる。そしてはるか前方へと続くまっすぐな大路がある。そこにはこの世の混乱した道、さまざまな悪しきものが入り込む道と違って、神に導かれる者だけしか入ってこない。
それは人間的に見れば、主イエスが言われたように、狭き門から入る道であり、その道は細いと見える。しかし、それは霊的には何者も破壊することもできない大路であり、神の国へとまっすぐに続いている道である。
時代がどのように変わろうとも、政治や社会のしくみがどうなろうとも、この道は過去数千年の間、変わることなく人間の前に、与えられ、存在してきたし、これからも存在し続ける道である。魂の目にこの聖なる大路を見つめて、歩ませて頂きたいと思う。