リストボタン目を覚ましていること    2003/11

この世は、絶えず何かを拝もうとさせる。それは、地位の高い者や有名人という人間であったり、権力や、金であったり、人からの評価や生活の安定、あるいは人間との表面的な和であったりする。それらを重要なものとして、第一にすることをたえず、求めてくる。ときには強要してくる。
こうしたことは、家庭や、学校、また社会のなかでも至るところにある。
現在の学校教育では、成績という数字であらわされるものが第一であるかのように思い込まされるし、自分が一番大切だといって、自分を第一にせよと言われたり、「君が代」という天皇讃美の歌を歌うことを強要されているのもそうした一例である。
戦前は日本では、天皇を現人神(あらひとがみ)として拝むことを強要された。また、現在では、国際的には、アメリカはイラク戦争など、自国のやり方を何でも正しいと言わんばかりに他国にも迫ってきて、日本も含め、多くの国々がアメリカの力を第一に置くように仕向けられている。
また、現在でも地域では、近くの神社の一員であることを当然のごとくにしようとし、それを拝むようにと仕向けられる。会社でも、その会社の不正や間違ったことをも利潤のためならば、それを拝め、すなわち黙認せよと迫ってくる。
世の中は、たえずこうした一種の偶像を拝むようにと圧力をかけてくる。
それゆえに、主イエスはその伝道の生涯のはじめにつぎのような試みを受けたのであった。

更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』
と書いてある。」(マタイ福音書四・810

新約聖書のなかで、主イエスがたえず目を覚ましておれ、と言われたこと、また使徒パウロがしばしば、たえず祈れと教えているのは、このような誘惑に負けないためである。

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