ことば 2003/11
(169)単純な生活
…これから後、あなたの生活は、「祈り願い、受け取り、与えること」であり、考えることや行いにおいてもひたすら単純さを目ざすことになる。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために・下」 11月2日の項より)
・神に祈り、神より受け、神から受けた愛をもって与える。 この三つのことからなる単純な生活が私たちの最終的な生き方となるという。新約聖書にはそのことがすでにはっきりと記されている。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛せよ。隣人を自分のように愛せよ。(マルコ福音書十二・30~31)
求めよ、そうすれば聖霊が与えられる。(ルカ福音書十一章9~11参照)
人間の生き方は実にいろいろとあるようにみえる。けれども、究極的な生き方はヒルティがのべているように、とても単純なものだと言える。私たちの現実は弱く、あるべき姿にはるかに遠い。しかし、そのような私たちができることは、神を信じて、その神がもっているあらゆる豊かさ、聖霊を少しでも分かち与えていただくことである。そしてその与えられたものを他者に分かつことなのだという。
(170)祈りの人
祈りの人とは、単に祈りをする人ではない、祈りによってすべての事をなす人である。
更に進んで、祈りによるのでなければ、何事もすることができない人である。祈りによって学ぶ人である、祈りによって戦う人である。
すなわち自分の力によってするのでなく、神の力によって万事をなす人である。…
祈りの人とは、祈りは真実の力を持っていることを確信している人である、これに天地を動かすに足る力があることを信じて疑わない人である。
宇宙において最大の力を持っているのは、霊である神であることを知り、霊の誠実によって神に近づき、神から超自然的の力を受けようと願う者である。(内村鑑三・全集
第18巻 199~200頁 口語的表現に変えてある。)
・主イエスは「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。私につながっていなさい。つながっていなければ、自分では実を結ぶことはできない。」と言われた。主イエスにたえず結びついているとは、ここで内村が言っているように、たえず祈りの心をもっていることと同じである。