雪のように白く 2004/1
水は不思議な性質を持っています。人間の体重の60%以上を水が占めていることからもその重要性がうかがわれます。栄養分を溶かして体全体に運び、酸素も全身に運んでいます。さらに筋肉で生じた熱を運び、また体内で生じた不要物や有害なものも水に溶ける形にして排出されるということで、体内から十二%の水が失われたら死んでしまうと言われています。
そのため、水だけあれば、食物を摂らなくても人間は30~40日程度生きられるが、水がなかったら、二週間も生きられないといわれています。
そのように私たちが生きていくにも絶対不可欠な水ですが、その水はまた、地球上の植物や動物などの生命を支えています。
このように人間だけでなく、地球全体を見てもきわめて重要なものですが、さらにその現れ方も不思議なものです。
空気中には水がたくさんあります。しかし目には見えません。それは気体(水蒸気)の状態で存在しているからです。
その水が、温度が下がると気体のままでいられなくなって小さな液体の水、水粒になります。それが雲です。雲の白い姿、その形は無限な多様性を持っていますし、夕暮れや朝などの太陽の光を受けるときには、驚くばかりの色合いにもなって壮大な芸術作品が大空に展開されます。
そのような美しさとともに、膨大な水の集まりである海は深い青色となり、大空の青とともに私たちの心を引きつけ、清めまた高めてくれる働きを持っています。
さらに、大気中の水蒸気が冷えてできる雪は、それが液体のときに見られるような白とか海などの青い色とはまったく異なる純白となります。
このように、水は目に見えない形、雲の白やグレー、夕日などの赤や赤紫、川や海の青や緑、そして雪の純白と、その色彩も実に多様なものとして私たちの前に現れます。
このように、水は私たちに最も身近なもので、自分のからだを維持し、命を支えてくれていることから始まって、地上の生物を支え、また芸術的な点でも、空の雲や川、海、そして雪などのように実に深いものを与えてくれています。
そうしたなかで、聖書において、雪の白さというものが、罪との関連で特にあげられています。
古代の中国人が考えた、雪という漢字を見てみます。彗星の彗という漢字は、細い穂や竹枝をそろえて手で持つさまを示したものであり、雪という漢字の下の部分は、この彗の下の部分と同じであるとされています。そのため、雪とは、「雨+彗(すすきなどの穂でつくったほうき、はく)」の会意文字で、「万物を掃き清める」という意味を持っていると、漢字の字源辞典で説明しています。
すべてを純白にし、汚れたものも、見にくいもの、古びたものもみんな覆ってしまう、雪が一面に降ると、確かに万物の汚れが掃き清められたような状態にしてくれます。数千年も昔の中国人は、雪を、あらゆるものの汚れを清めるものというイメージを持っていたのがうかがえるのです。
聖書においても、雪の白さは、罪からの清めと関連したつぎの箇所が知られています。
…主は言われる。
たとえ、お前たちの罪が緋(ひ)(*)のようでも、雪のように白くなることができる。
たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。(イザヤ書一・18)
… わたしを洗ってください雪よりも白くなるように。(詩編五十一・9)
(*)緋とは、鮮やかな朱色のこと
雪を見てまず美しいと感じるのが暖かい国の人の受け止め方ですが、ここでは、神の愛を深く感じることに関連して思い出されているのです。
ことにはじめに引用した箇所は、今から二千七百年ほども昔に書かれたと考えられている書物であるのに、神が人間の重い罪を赦して下さるお方であるとはっきりと記されています。
緋色のような罪と言われているのは、朱色のように著しく目立つ罪、どこから見てもその罪がはっきりわかるほどの明らかな罪、といった意味あるいは、人を殺すときの血の色を連想することから、最も重い罪といったことが含まれていると考えられます。そのようなひどい罪であっても、人が立ち返ることによって神に従うことによって一方的な赦しを与えられるということです。
それはその後七百年ほども後になって現れたキリストの赦しの愛を予告するものとなっています。
どんなに過去に、だれの目にも明白な汚れた罪、また重い罪を犯していても、ただキリストがそれらを赦して下さるために十字架について下さったと信じて仰ぐだけで、それが赦され、雪のように純白にしていただけるというのです。人間の努力では到底、過去のさまざまの罪を消すことも清めることもできないのであって、それは本当に驚くべき神のわざです。
私たちも雪を見るとき、こうした数千年前の預言者の心に投じられた神の愛を思い起こし、いっそう神からの清めを受け、雪のように白くしていただきたいものです。