苦しみを通って(詩編七十三編より) 2004/1
この世に生きるかぎり、私たちはだれでも悩み、苦しみを持っている。一見そうしたものがなにもなさそうに見える人であっても、その心の奥に取り去りがたい問題を抱えているものである。そのような問題はないという人もいるかも知れない。しかしそうした人の傍らにこそ、困難な問題が待ち伏せているかも知れないのである。
この世で生きるかぎり、どこまで行ってもそれはやはり何か心を曇らせたり、悲しみに沈むようなこと、落胆させることにつきまとわれるであろう。
旧約聖書の詩編はさまざまの詩が集められている。そのなかには、そうした苦しみと悩みのゆえにあやうく道を誤りそうになった一つの魂の歩んだ道がありありと見えるような詩もある。ここではそうした内の一つをあげて、遠い昔に生きた人間の足跡をたどってみたいと思う。
神は正しい者に対して、また心の清い者にむかって、
まことに恵みふかい。
それなのにわたしは、あやうく足をつまずかせて
まさに倒れるばかりであった。
これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、
その高ぶる者をねたんだからである。
彼らは死ぬまで彼らは苦しみを知らず
からだも肥えている。
だれにもある労苦すら彼らにはない。
だれもがかかる病も彼らには触れない。
高慢は彼らの首飾りとなり…
心には悪だくみが溢れる。…
そして彼らは言う。
「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」
彼らはいつまでも安らかで、富を増していく。
わたしは心を清く保ち
手を洗って潔白を示したが、むなしかった。
日ごと、わたしは病に打たれ
朝ごとに懲らしめを受ける。
「彼らのように語ろう」と望んだなら
見よ、あなたの子らの代を
裏切ることになっていたであろう。
わたしの目に労苦と映ることの意味を
知りたいと思い計り
ついに、わたしは神の聖所を訪れ
彼らの行く末を見分けた
あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え
彼らを迷いに落とされるのを
彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし
災難によって滅ぼし尽くされるのを…
わたしは心が騒ぎ
はらわたの裂ける思いがする。
わたしは愚かで知識がなく
あなたに対して獣のようにふるまっていた。
あなたがわたしの右の手を取ってくださるので
常にわたしは御もとにとどまることができる。
あなたは御計らいに従ってわたしを導き
後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。…
わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが
神はとこしえにわたしの心の岩
わたしに与えられた分。
見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。
御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。
わたしは、神に近くあることを幸いとし
主なる神に避けどころを置く。
わたしは御業をことごとく語り伝えよう。
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「私は危うく足をすべらせ、まさに倒れるばかりであった。」
この詩の作者は、あるときに信仰の危機に陥ったことがある。それはもう少しで、信仰を失い、滅びに落ちていく寸前まで行っていたのがうかがえる。どのような人であっても、時として大きな動揺に落ち込むことがある。
例えばモーセのことを考えてみる。彼は歴史のうちで最も大きな足跡を残した一人であり、深い信仰と勇気によって耐えがたい困難にも屈することなく、エジプトという大国の権力のもとにあった民を導きだし、砂漠でのあらゆる困難にも耐えて多くの民を約束の地まで、導いた人であった。そのようなモーセですら、その信仰が動揺したことがあったため、そのことで、目的の地、神の約束の地に入ることができないと言われたのである。(*)
(*)主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」(民数記二十・12)
こうした動揺は、この詩の作者の場合は、何によって生じたのだろうか。それがつぎのことである。
「悪しき者が栄える」というこの世の現実によってである。これは私たちの身近なところから、社会的な問題や、国際的な状況を考えても至る所で見られる。心に神を信じないで、嘘や不真実な態度をもってしている者がかえって楽しく、幸福そうに生きていることはいくらでもある。真実に生きようとしてかえって苦しめられ、痛めつけられ、悲しみや悩みに生きなければならないということは周囲にも見られるし、どこの国にもあった、迫害のきびしい時代にはキリストを信じるだけで、大きな苦しみに直面して、命さえ奪われることにもつながっていった。
神が愛であるなら、そうして真実であるなら、どうしてこうした不可解なことが生じるのか、それがこの詩の作者にも切実な問題として浮かび上がって行ったのである。
安楽に過ごし、幸福そうに見える者たちは、つぎのように見えたのである。
「死ぬまで彼らは苦しむこともなく、肥え太っている。誰にでもあるはずの労苦もなければ、病気にすらかからない。そして心には悪いことを考え、弱い者を見下し、暴力、武力をもって人に偽りを言う。」
その上、彼らは信仰とか神の導きとか支配ということについては全く問題にせず、そうした信仰をあざけり、神は何を知っているのか、何も知らないからこそ悪をこんなにのさばらせているし、よい事も悪いことも同じように起こるのだ…などと神をあなどり、神を信じる者たちを見下している。
このような悪しき者たちが悪を重ねても何の罰もないということ、そしてそのような人たちから、神などいない、神は何にも見ていないのだ、神を信じるなど無意味で愚かなことだと見下される。信仰をもって生きようとする者に対して、このように嘲られるということは、はるか昔から絶えず、つきまとってきたことなのである。
この問題は、聖書では、とくに旧約聖書のヨブ記という書物に詳しく記されている。神を信じる者にふりかかる理由なき苦難や悲しみ、それは一体どんな意味があるのか、神がおられるのならどうしてそんな理不尽なことがおきるのか、神を信じる者には幸いが注がれるというが、まったくその逆だと思えるようなことが実に多いというこの世の現実をいわば命がけで体験させられた人の内面的な記述であるといえる。
このような他人からのあざけりに出会ったとき、それに耐えることができなくなって、信仰が揺らぐことがある。そしてその揺らぎが大きくなり続けてついに信仰を失い、サタンの力に取り込まれてしまうこともある。そのよく知られた例が、ユダである。ユダは、キリストの十二弟子の一人として、数えきれないような人間のなかからとくに選ばれてキリストの弟子となった。しかし、現実の数々の不可解な出来事、主イエスが、いつまで経っても社会的には、まったく力もなく、改革などもできるような人間でない、ハンセン病や目の見えない人、耳の聞こえない人、重い病人たちを重視して彼らとのかかわりを重んじられた。そして、ユダヤの国の再建といった大きいと見えることについては、いっこうに口にされない。おそらくは、そうしたいろいろのことへの疑問がふくらんで、ついにキリストへの信仰を失い、こともあろうに、そのキリストを計画的に裏切り、金で売り渡すというような、神を信じない者でも簡単にはできないようなことを犯してしまった。
このように、信仰の動揺はどこまで堕ちていくかわからない。
この詩の作者も、現実の不可解な悪がはびこっている出来事、自分がどのように願っても聞き入れないように見えるなどのことが続くとますます神の存在そのものがわからなくなってくる。
この詩の作者は、病気にもさいなまれていたことはつぎの言葉からもうかがえる。
日ごと、私は病に打たれ、朝ごとにこらしめを受ける。(14節)
この点でも、旧約聖書のヨブ記に表れるヨブという人物と同様である。病気はいつの時代でもその病状がひどくなればなるほど、耐えがたい苦しみとなり、祈ることも他人の話を聞くことも受け入れることもできないほどになる状況となることが多い。
このような時、神を信じない、善の力をも信じないで、不正を働き、弱い者を苦しめている実態にふれるとき、人は最も動揺する。病気の苦しみがひどいとき、それが治らないときにはそれだけでも、神はおられるのか、どうしてこの苦しみはいやされないのかと神への疑問、不信となりがちである。
このように、精神的にも、肉体的にも打ちのめされたこの詩の作者は、もう少しで、「神などいないのではないか、神に頼っても助けてはくれないのだ。神が善人を助け、悪人を裁くなどといっても、そんなことは見られないではないか…」と、周囲の人に言ってしまうところであった。
そのことを、次のように言っている。
…「彼ら(神を否定する人々)のように語ろう」と望んだなら、
見よ、あなたの子らの代を裏切ることになっていたであろう。(15節)
このような、神に対する疑問や不信は、聖書そのものにも記されている。旧約聖書の伝道の書にもつぎのように記されている。
すべての事はすべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。善人にも、罪人にも同様である。(伝道の書九・2)
また、やはり旧約聖書のヨブ記において、一人の心身ともに苦しみにさいなまれる人間の告白を聞くことができる。ヨブという人は、日々神に祈りを捧げる信仰あつい人であったが、突然に家族の死や財産を失い、さらに自分も苦しみのはなはだしい病気になってしまう。どんなに祈っても平安がえられず、訪ねてきた友人も自分の苦しみを理解せずに、かえってヨブは罪あるからそのような苦しみに遭うのだと叱責する。
ヨブは妻からも棄てられ、友人たちからも理解されず、病の苦しみに耐えがたい状況となり、神などなにも助けてはくれない、正義の神などというのはないのだという心の動揺に揺さぶられていく。そこからつぎのようなうめきが生じたのであった。
…皆同一である。それゆえ、わたしは言う、「彼は罪のない者と、悪しき者とを共に滅ぼされるのだ」と。(ヨブ記九・22)
このような信仰を揺るがすような誘惑にかられて、もし自分が周囲の人々に、神などいないとか神がいるかも知れないが、悪をも裁くこともせず、真実な人にも何も報いてはくれないなどと、言ってしまったら、それこそ、長い歳月を受け継がれてきた、神の民の神への信仰をも揺るがすことになってしまっただろう。それは、未来の世代に最善のものを受け渡していかねばならないのに、まちがったものを受け渡すことになり、それでは未来の世代を裏切ることになっただろう…と言っているのである。
しかし、こうしたいろいろの心の動揺を、神にすがり続けることにより、辛うじてこの作者は、乗り越えることができた。それは、つぎのように記されている。
わたしは神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。
あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え、彼らを滅びに落とされるのを
彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされるのを(17~19節)
これこそ、この作者の決定的な転機であった。長い間の苦しみや悩み、そして神などいないのではないか、という黒い雲がその心をおおうとき、最大の危機が訪れた。そしてそのぎりぎりのところで、神にすがり続ける心が、神の憐れみを受けて、この作者は、「神の聖所」に入ることができた。それは、実際の聖所であったかも知れないが、霊的な祈りのうちでの聖所でもあったであろう。現代の私たちには、後者の意味となる。
祈りのうちに、また時が来て、この作者は神よりの啓示を受けたのである。それは、悪の滅びであった。それまで自分をあれほど苦しめ、悪の力が神より強いのではないかとすら思わせ、信仰そのものが崩壊の危機に瀕していたほどであったが、そこまで動揺させる悪の力に支配されようとしていたが、この作者は、時が来て一瞬にしてそれまでの深い謎から解き放たれたのである。神は現に存在しておられる。その神は悪をいとも簡単に崩壊させることができる。そして悪の最後がどうなるかを、まざまざと霊的な目で見ることができたのである。
先にあげた、ヨブ記という書物も、長いヨブの苦しみに対して、どんな宗教的な議論や説得、あるいは、過去の経験もなんにも役に立たなかったが、苦しい長い日々ののちに、時至って神がヨブに直接に答えられた。その神からの語りかけによってヨブはようやく悪との戦いから開放されることになったのである。
このようにして、窮地を脱した作者は、かつての自分を思い起こす。
わたしは心が騒ぎ、はらわたの裂ける思いがする。
わたしは愚かで、(神がいかにこの世をご支配されているかについての)知識がなく、あなたに対して獣のようにふるまっていた。(21~22節)
実際、かつての自分を振り返るとそれは獣のようであったことを思い知らされる。獣、それは神を知らない。祈ることも、目に見えないお方に信頼することも知らない。そして自分の欲望や本能、あるいは目先のことだけに動かされている。神によって目に見えない力の存在を明らかに知らされたとき、かつての自分がいかに愚かであったかがはっきりと分かってきたのである。
ひとたび神からの啓示を明確に受け取ったこの詩の作者は、新しい歩みへと進む。それは、それまでどうしても分からなくなっていた神の生きた導きにあるという確信であり、実感であった。現実の世の中において、数々の混乱や汚れ、不信や悪があっても、たしかなある力が自分をとらえ、その生きた御手が自分を彼方の御国へと導いて下さっているということである。このような、生ける導きこそが、キリスト者がつねに必要としていることであり、それこそが、私たちに平安を与えてくれるものである。
しかし、私は常にあなたと共にあり、
あなたは、わたしの右の手をかたく取られる。
あなたは御計画に従ってわたしを導き
後には栄光のうちにわたしを受け入れて下さる。
私にとってあなたの他に、天には誰もなく、
地には、あなたを離れて私の慕う者はない。
わが肉とわが心は衰える、
しかし、神はとこしえにわが岩、わが命である。
見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。
御もとから迷い去る者をあなたは滅ぼされる。
しかしわたしは、神に近くあることを喜び、
主なる神に信頼し、
そのすべての御業を宣べ伝えよう。
この詩の作者は、長い苦しみの後にようやく神の固い導きの手を自らに感じて、この確かな御手の実感から、これは永遠まで、なくなることはないことを知った。いまだ復活という信仰はほとんど見られなかったキリスト以前五百年以上も昔の時代にあって、この作者は、「後には、栄光のうちに私を受け入れて下さる」という確信を持つに至った。深い生ける神との交わりは、死によってそれが失われるものではないという啓示を伴っていたのである。
たとえ自分の肉体や心が老齢のゆえに衰えようとも、神は岩のごとく私の救い主であり続ける。
そして悪を放置する神でなく、繰り返し神からの語りかけを受けてもなお、それを拒み、受け入れようとせずに、悪の道を歩み続けるかたくなな心に対しては、神は必ずそのことを罰せられる。これは単なる信仰でなく、現実に私たちの周囲でいくらでも見ることができることである。悪の道、不信実な行為を続けていたらその行き着く先は滅びであること、心がだんだん壊れていくか、それとも老化して生きた喜びや感動をまるで感じなくなっていく。これこそ、裁きである。
神の近くにあるという実感は、それが何にも代えがたいことを知る。それとともに、そのような生きて働く神、私たちを導き続ける神のことを何とかして伝えたいと願うようになる。それゆえ、この詩の作者は、最後に「神のみわざをことごとく語り伝えよう」との言葉で結んでいる。
自分が神から与えられた経験が奥深いゆえに、それを黙っていることができない。聖書には、この内部から動かすエネルギーを神が与えること、そこから聖書の唯一の神への信仰が伝わっていくことが示されている。
これは聖書の特質だとも言えよう。詩編だけを見てもこのような箇所はつぎのようにいくつもある。
わたしの口は恵みの御業を
御救いを絶えることなく語り
なお、決して語り尽くすことはできない。
しかし主よ、わたしの主よ
わたしは力を奮い起こして進みいで
ひたすら恵みの御業を唱えよう。
神よ、わたしの若いときから
あなた御自身が常に教えてくださるので
今に至るまでわたしは
驚くべき御業を語り伝えて来た。…
私が老いて白髪になっても、私を捨てず、御腕の業を、力強い御業を
来るべき世代に語り伝えさせてください。(詩編七十一・15~18より)
この詩には、神がなさったこと、神のみわざを今までも絶えることなく語ってきたが、今後とも、老年に至るまでも語り続けていきたい。どうか、神よ、私を助けてください、という切実な願いがにじみ出ている。
わが神、主よ
あなたは多くの驚くべき業を成し遂げられる。
あなたに並ぶものはない。
わたしたちに対する数知れない御計らいを
わたしは語り伝えて行こう。(詩編四十・6)
ここでも、神の驚くべき、不思議なわざを経験したということがもとにある。自分が何ごとであれ、深く経験したことがすばらしいこと、喜ばしいことであればあるほど、それを黙っておれなくなるだろう。これは信仰と無関係のことでも同様である。しかし、それと聖書の語り伝えようとする心との違いはどこにあるだろうか。それは、信仰と無関係なことなら、相手が関心を示さなかったり、時間が経つと気持ちが変わっていつかなくなってしまう。しかし、神によって動かされた感動は、また神がうながして語り伝えようとされる。それゆえに伝えようとする心が弱まることがない。人がもう伝えまいとしても内なる何かがうながして伝えさせようとするからである。
こうした、内なる働きかけによって、すでに旧約聖書の時代から神がなさる大いなるわざを経験し、苦しみにある者への助けの体験はずっと語り伝えられてきた。
新約聖書の時代になり、そうした流れの上に、さらにキリストが十字架による罪の赦しと、復活という他にはなにものも代えることのできない大いなる出来事が加わり、それを体験した者はさらに新しい力とうながしを内に持つことになったのである。
キリストの十字架と復活以前に、キリストが誕生したとき、最初に知らされた羊飼いたちは、その驚くべきイエスの誕生のことを人々に知らせた、と記されている。(ルカ福音書二・17)
また、いのちの水ということは、永遠の命、あるいは聖霊を言い換えた言葉として、ヨハネ福音書ではとくに重要な言葉であるが、そのことについて、井戸端で主イエスとの会話のときに、そのいのちの水を与える者こそは主イエスであるということを知らされたサマリアの女は、そのことと共に自分の過去を鋭く見抜いたことに、非常な驚きを覚え、せっかく運んできた水瓶や汲んだ水をそこに置いたまま、告げ知らせに行ったことが書かれている。
…女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。(ヨハネ福音書四・28~30)
この何でもないような記事は、すでに述べてきたように神によって起こされた感動はだまっていられないものであり、それはただちに外部に向かって告げ知らせたいという強い衝動を引き起こすものだと言おうとしているのである。そして実際に多くの人たちがその女の生き生きとした証言に動かされてイエスのもとにやってきたのであった。
基本的にはこれと同様のことが、以後もずっと全世界で生じていったのである。
イエスの十字架と復活、そしてそれに続く聖霊の注ぎはその深い感動の原点となった。
聖霊が注がれるまでは、十字架の処刑のときも逃げてしまい、イエスの弟子ですらなかったと強く言い張ってしまったペテロたちであったが、聖霊が注がれることによって別人のようになった。
そして多くの人々の前で、イエスの復活を驚くべき力をもって証言しはじめた。
…しかし神はこのイエスを復活させられた。私たちは皆、その証人なのです。…
そしてイエスは神の右に上げられ、私たちに約束のとおり聖霊を注いで下さった。…
だから皆ははっきりと知らなくてはならない。
あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒言行録二章より)
このようにしてキリスト教の伝道は始まったのである。これを見てもわかるように、キリスト教伝道ということは、決して組織が命じたり、強制したり武力で制覇したりすることとはかかわりのないことであった。たんに、無学な漁師であったペテロが我が身に生じた決定的な体験、罪赦され、新しい神の力を与えられ、生きた主イエスのみ声を聞いて導かれるというただ、それだけのことでなされていったのである。
その後、パウロというユダヤ人はキリスト教徒たちを激しく迫害して殺すことまでしていた。しかし突然、天からの光を受けてそれまでの一切が砕かれ、自分の重い罪を知らされた。そればかりか、その罪を赦され、力を与えられたという点ではペテロと同様であった。そしてその経験をもとにして、生きたキリスト、聖霊によって導かれて、ただちにキリストのことを証言する生涯へと変えられたのであった。
歴史はこうした人間がつぎつぎと二千年にわたって生み出されてきたことを記している。私たちがいま、キリストの福音を知らされているのも、過去の長い歳月、途絶えることなく、泉がわくようにしてこうした人々が生み出されてきたからである。それは人間の努力によらず、組織の力でなく、また偶然でもなく、ただ神ご自身が人を動かし、証言する人たちを絶えず生み出してこられたからなのである。
そしてこれからも、いかなる時代になろうとも、神はその御計画に従ってそうした人間を生み出し、キリストの福音を世の終わりまで伝えさせていくことであろう。