ヨセフの歩み 2004/2
創世記三十七章から、最後の五十章まで、ヨセフの歩みが詳しく記されている。それは十三もの章を費やしている。アブラハムの記事は二十四ページを費やしているが、ヨセフの歩みについては、三十ページを超えている。
このような詳しい記述は何のためであっただろうか。それは、ヨセフの歩みが、後世にとってきわめて重要なことにつながっていくからであった。
それは、エジプトへの移住、そこで初めて民族としての増加、そして迫害、ついでモーセによる出エジプト、その途中において、神からの言葉、十戒というきわめて重要な内容をもったものが与えられた。
そのようなすべては、ヨセフの誕生とかかわっている。もし、ヨセフがなかったらこうしたすべてはどうなっていただろうか。
そしてその大きな歴史の出来事にかかわっていくはじめは、人間の弱さと罪が明らかに記されている。まず、父のヤコブは長い信仰生活にもかかわらず、最晩年になっても自我が抜けきれない人間であることが、ヨセフへの特別な偏愛に現れている。それはルカ福音書に現れるような、放蕩息子の父親とはまったくちがったごく普通の老人のようである。放蕩息子の父親は、自分の好みに合うからといって特定の息子を大切にするのでなく、かえって道を踏み外した者に深い愛を注ぐのであった。
また、ヨセフにしてもその生涯の出発点においては、兄たちのことを告げ口したり、両親や兄たちが怒るようなことを平気で話すような無遠慮な子供、得意がる子供として描かれている。ここには両親や兄弟たちへの尊敬の念に欠けるような分別のない子供のようである。また、兄たちも、ヨセフの年齢からすればそのような夢を語ったとしても、殺そうなどとまで考えるのはふつうでは考えられないほどであり、あまりにも大それたことである。
このように、ここに現れるヤコブ、ヨセフ、多くの子供たち、それらすべては信仰者としての強さや正しさ、勇気などに欠けているただの人間として描かれている。聖書はだれをも英雄とはしないのがこの長いヨセフの歩みの記事においてもはっきりと記されている。
ヤコブは人間的情愛でもって、ヨセフを愛していた。ヨセフもまた人間的な気持ちで得意になっていた。そうした情愛や高慢を打ち砕くことが必要であった。神に用いられる人間はつねにそのような苦しみや悲しみを主が与えることによってその自我を砕いていかれる。
なぜこのような不正やねたみ、依怙贔屓(えこひいき)などが書いてあるのか。それはそうした人間を用いて神は大いなるわざをなされるということであって、いかなる意味でも人間の功績でないということを示そうとしているのである。
人間が歴史を作っていくのか、それとも神がすべてを支配し歴史を動かしていくのか、これが根本問題なのである。すべての栄光を神に帰すること、そこにいっさいがかかっている。それができれば、私たちは永遠の祝福を受ける。しかし人間に栄光を帰する姿勢で生きていくとき、すべては消えていく。それはちょうど正反対の結果となる。
ヨセフの夢、それは預言であった。人間の心の告白であり、叫びであり、感動であるはずの詩が聖書では、同時にまた預言ともなっているのは驚くべきことである。
詩編二十二編などはことに、主イエスの最後の恐るべき苦しみの状況が、あのエリ、エリ、ラマ・サバクタニという叫びをはじめとしてさまざまのことを預言するものとなっているのがその典型的な例である。
そして、このヨセフの記事もヨセフ自身はまったく自分の気持ちで抑えられなかったから両親や兄弟に夢を話したのであったが、それは背後のおおきな神の御手による歴史の導きを表すものであった。神はいかなる妨げや人間の悪意や時代や社会状況の変動にもかかわらず、その御計画を成就していかれる。
新約聖書においても、最大の働きをしているパウロは、かつてキリスト教徒を迫害し、殺すことさえもしたというし、十二人の弟子たちのうちの一人は金でイエスを売るという裏切りをした。主イエスと最もちかくにいた弟子であったペテロは、こともあろうにイエスが捕らわれた後に動転し、三度もイエスなど知らないと激しく言う始末であった。ほかの弟子たちも逃げてしまった。
このような記述も、キリストの福音はごくふつうの人によって、あるいは重い罪を犯した人によっても伝えられていくということを象徴的に示している。
このことは、現代に生きる私たちにも大いなる希望を与えてくれるものとなっている。どんなにこの世が変ろうとも、また人間が弱々しくなろうとも、そうしたただなかに神はその御計画を行う器ともいうべき人間を起こし、弱い人間、罪深い者であってもその人間を造り替えてその御計画を担う者とされるのである。