リストボタン祈りを欠くとき     2004-3

聖書の最初の人物であるアダムとかエバは祈ったとは記されていません。アダムはエバが与えられたとき、本当の助け手が与えられたとして喜んだと記されていますが、神への感謝を捧げたということはなかったのです。
また、エバにおいても、ヘビの誘惑に出会って神の戒めを破ってしまったこと、アダムにも罪を犯させたことに対して、神からその罪を指摘されたにもかかわらず、なおも自分を正当化しようとしました。そして神にその罪の赦しを願ったことも記されていません。
そしてエデンの園から追放されたときにも何らの神への祈りもなかったのです。
また、箱船で有名なノアは、当時の人たちがみんな悪に染まり、真実に背き続けて改めようとしないために、神の大いなる裁きがなされようとしたとき、ただノアだけはその神への従順のゆえに救われたのです。
そしてノアはその大洪水が長い間かかってようやく引いたとき、最初に舟から出てしたことは、周囲の見知らぬ光景に驚いて歩き回ったりすることでなく、神への感謝の祈りを捧げたということでした。
このように神に従い続けたノアでしたが、生活が安定しぶどうの栽培もして安楽に暮らせるようになってから、ぶどう酒に酔って裸で寝てしまうというようなことも生じました。
これは、安楽な生活が続いて祈りを忘れたからだと思われます。
同様なことは、ダビデにも見られます。旧約聖書の詩編は、後世の讃美歌、聖歌などの源流となり、きわめて重要なものとなりましたが、その詩編は多くはダビデの詩に由来すると言われています。そして当時の王から命をねらわれて迫害されつつも、武力でもって復讐しようとはせず、神に必死で祈り続け、神からの助けを受けて生き、のちにその神への忠実が祝福されて王となったのです。しかしそのようなダビデですら、王となって周囲の国々を平定し、支配を十分にするようになって、はなはだしい罪を犯してしまいました。それは後々まで取り返しのつかないような混乱をもたらすことになりました。
これも祈りがなくなったからだと思われます。物質的にも地位の上でも安定したものとなると、祈りに切実さがなくなります。そこから祈りそのものも次第になくなっていくことになり、そうしたところに悪の力が入り込んできたわけです。
ここに、神の園から締め出されていく魂が象徴的に記されています。神への祈りを持たなくなったとき、私たちはアダムのように、食べてはいけない木の実を食べようとする傾向を生じがちです。
他者のために祈るとは霊を注ぎだすことであり、そのためには神からの霊を受けていなければできないことです。そのために主イエスもまず神を愛し、隣人を愛せよと言われたのです。それは、まず神に祈り、神からの霊と力そしてみ言葉を受けて、その後に隣人のために祈れ、ということでもあります。
祈りを怠るところから、魂はさまよい始めるのです。
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