リストボタン休憩室    2004/4


植物のすがたと人間
春は花や樹木、野草の季節です。だれもがそれらがいっせいに芽を出し、花を咲かせる姿に接します。それらは単に自分自身のために咲いているのでなく、また私たちの心の世界、精神の世界や霊的なことをも暗示するものです。
初々しい新緑のすがたは、私たちに常にいのちの世界を知らせてくれます。枯れたようになっていた木がめざましく芽を出して(*)、生き返ったような姿となるのです。それは復活のいのちを私たちに告げている姿でもあります。キリスト教で最も重要な復活ということを、春の樹木、野草たちは私たちに告げているし証ししていると言えます。
また、花を咲かせること、その後で実を結ぶことも聖書に出てきます。
わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。わたしは露のようになる。
彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張り(ホセア書十四・45

これは、私たちが罪を知り、悔い改めるとき、神の愛と恵みは露のように注がれ、それによって私たちは花咲き、根を張るようになる、ということです。人間がその内面において花のようになるためには、心の方向転換が基礎にあるということなのです。
花の後に実がなります。その実はよき影響を世界に及ぼすシンボルだと言われています。

後になれば、ヤコブは根をはり、イスラエルは芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす。(イザヤ書二十七・6

私たちも実をつけるとは、自分だけの幸福を求めるのでなく、神によって花開いたものは、他者にも何らかのよきものを提供できる存在と変えられるということです。
荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。(イザヤ書三十五・12

ここでは、神の祝福を受けた魂は花を咲かせる、それは喜びの花であると言われています。しかも、砂漠に花咲くといわれているように、もともと何のうるおいもなかった荒れ果てたところであっても、ひとたび神のいのちの水を受けるときには、喜びの花を咲かせるというのです。花は、主にあっての喜びを象徴しているといえます。
以上のように、植物のすがた、花などはすべて霊の芽を開いて見るのなら、多くの霊的な暗示に満ちているのがわかるのです。

*)聖書にも、神が選んだ者の杖は枯れたものであったのに、御手が触れることによって「芽を出して、つぼみをつけ、花を咲かせて実をつけた」と記されています。 (民数記十七・2023

いつくしみ深き

讃美歌のうちで最も多く歌われてきたのは、おそらく「いつくしみ深き」(讃美歌312番)でありましょう。それは日曜日ごとの礼拝や夜の家庭集会、あるいはキャンプとか聖書講習会、さらに結婚式や葬儀や記念会(死後1年目とかに行なわれる召された人を記念する会)などにも用いられます。厳粛な礼拝から野外の集会や葬儀、結婚と性格の異なる集会においても、すべて使うことができる讃美というのはそう多くありません。
それは、友となってくださる主イエス、罪赦してくださるイエスのことをだれの心に入るようなわかりやすい言葉とメロディーで歌っているからだとおもいます。
この曲は、「星の界(よ)」という題名で、一九一〇年四月、「中学唱歌」に発表されて以来、今日まで九〇年以上にわたって親しまれてきたものです。

月なき み空に きらめく光
ああその星影 希望のすがた
人智は果てなし 無窮の遠(おち)に
いざその星影 きわめも行かん

百年近く前の言葉なので、わかりにくいところもありますが、讃美歌で最も日本で親しまれている曲が、同時に星を歌った唱歌として広く歌われてきたのも、神の導きのひとつのような気がします。

春の代表的な野草としては、ほかにいろいろ美しいものもありますが、高山や海岸などとか特殊なところでなく、まれにしかないものでもなく、生活している場の近くで見られるものとしては、やはりスミレがあげられると思います。
それゆえに、芭蕉も「山路来て なにやらゆかし すみれ草」と詠んだのであり、この句がとくに有名なのも、スミレそれ自体が多くの心を惹くものであり、その心をこの句が適切に表現していると受け止められてきたのだと思います。
最近では、スミレの見つかるような山路もだんだん少なくなり、スミレそのものもなかなか見つからなくなっています。
しかし、私たちの心がスミレを創造された神と結びつくとき、この世の生活が「山路」を歩むことであり、いかに問題が多いこの世であっても、そこに「なにやらゆかし」と感じるような出来事に出会うものです。
聖書のなかで、使徒パウロが、「つねに喜べ、感謝をせよ」と勧めているのも、こうした経験があるからだと思われます。


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