リストボタン主が共におられる
   ヨセフの歩み(創世記三十九章より)
   2004/5

エジプトに売られたヨセフは、エジプト王の宮廷の役人で、侍従長に買い取られた。家族から離れてはるかに遠い異国にあって、奴隷のように売買されたヨセフは、その間どんな気持ちで何を考えていただろう。
創世記では、この間、ヨセフが神に祈ったとか、神からの力づけを受けたとか一切記していない。売られて行ってどうなるのか、それにははっきりとした神の答えもなかった。ヨセフもおぼろげであったと思われる。しかし、神はそうしたヨセフの苦しい歩みのただなかに共におられた。
悲劇的なことが生じようとも、苦しい孤独な状態に置かれようと、主はそうしたことに関わりなく、信じる者と共におられるし、信じる人たちのために働かれる。
神がいるのならどうしてこんなことが生じるのか、というような苦しいことが起きることがある。しかし、他方、神がその困難や苦しみのただなかで働かれる、そして神の業を深く理解できるようになる。
ヨセフは異国の人間に買い取られた人間であったのに、それを不服に思ったり、怒ったり、悲しんだりすることなく、仕事に励むことができた。家族もおらず、兄弟に売り飛ばされたという特異な出来事に対して自分の前途を嘆いたり、兄弟のことを憎んだりして過ごすのでなく、このように前向きに生きることができたのは、なぜか、それは単にヨセフがそのように考えるようにつとめたとか、ヨセフの性格であったとかいうことではなかった。
その理由はただ一つ、主が共におられたということである。この創世記三十九章だけで、つぎのように繰り返しこのことが強調されている。

「主がヨセフと共におられたので、うまく事が運んだ」(二節)
「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれる」(三節)
「主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された」(五節)
「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し」(二一節)
「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」(二三節)

これだけ、「主が共におられる」という事を重複をいとわずに書いてあることは聖書のなかでも他にはみられない。創世記を書いた著者がいかにこのことを強調しようとしていたかがうかがえるのである。
神を信じていたら困難なことは生じないということではない。ヨセフのように兄弟からも憎まれ、売られ、そしてこのように誘惑された上でそれに打ち勝ったが、全くの無実の罪で獄屋に入れられてしまうこともある。
しかし、神はそのわざをなさろうとするとき、まずこのように苦しみを与えてから行なわれることが多い。
ヨセフはこのように奴隷として売られてもその事態を甘んじて受けて、それを神からのものとして歩んで行った。それによって主人に認められ、家の管理や、財産のすべてを任せられるほどになった。他国から買い取られた奴隷にこのような特別な信頼を寄せるということは、人間のなすわざではなかったゆえ、聖書はそれをすでに述べたように「主がともにいて主が栄えさせた」とあるように、それらすべては神がヨセフとともにいてなしたことだと記されている。
このようなふつうでは考えられないほどの恵みを受けたヨセフは、そのような幸いなことばかりが生じたのではなかった。
ヨセフが直面したつぎの大きな試練は、女性から来た。しかもヨセフを全面的に信頼している主人の妻がヨセフを誘惑しようとして、それがヨセフによって退けられるのがわかると、その女はヨセフの衣服を捕らえて引き入れようとした。しかしヨセフは衣服を残して部屋の外に逃れた。そのことで女は怒り、そのヨセフの衣服を証拠のようにして、夫の主人に、ヨセフが自分を誘惑しようとしたのだといって告げ口した。それによって主人は激怒してただちにヨセフを牢獄に入れてしまった。
こうしたいまわしい事件の直前に繰り返し、主はヨセフと共にいたと記されているのに、このようなひどい災難に陥れられるとは、一体神が共にいたのであろうかと思わされるほどである。
しかし、聖書で神が共にいるというとき、決して苦しいことや悲しみがない安楽な生活が約束されているなどとは記されていない。むしろ、神が共にいた人として最も大いなる人物であった、アブラハム、ヤコブ、モーセ、エリヤ、ダビデ、預言者のエレミヤなど、いずれもいろいろの苦しみや困難につぎつぎと直面していった人たちであった。
神がともにいるとは、困難に出会わないことでなく、困難によってさらに深い洞察と力を与えられ、その困難を乗り越えていくことであった。
ヨセフは自分の主人であり、全面的に財産など一切を任されていたほどの信頼を受けていた主人の妻を誘惑するという、最も恥ずべき罪を犯した者として牢獄に入れられた。そのくやしさや、怒りはふつうなら耐えがたい屈辱であったであろう。しかし、ヨセフはこのようないまわしい事態にもなお、前向きに生きることができた。その主人やその妻への怒りや憎しみを持ったままであれば、その背後におられる神を忘れているということになる。神はどのようなことが生じても必ず、自分と共にいて最善になるようにされるということを信じて生きていこうと決心したと思われる。それはかつて、自分は兄弟によって危うく殺されそうになったがそれでも不思議ないきさつで助けられたという事実もヨセフに力を与えたであろう。ヨセフは牢獄に入れられてもなお、無実の罪で牢獄にあるということへの不満や怒りをもって生活することなく、そのようなことがあってもなお、神はおられる、それでも神は働いておられるとの確信をもっていたようである。
与えられた場所が、金持ちの家であろうと、奴隷としてであろうとも、また牢獄という暗くて不潔で死に至る場のようなところであっても、ヨセフの神への信頼は揺るがなかった。
かえって、その与えられた牢獄という場において、真剣に生きるようにした。そこから、獄屋の番人はヨセフにすべての囚人の管理をゆだねるようになった。
このようなことも、ヨセフの能力とか生まれつき、やさしかったとかいうようなことには決して関連づけられていない。ヨセフが困難に出会って心身共に打ちのめされそうになったこともあるだろうが、それでも彼は神に心を向けることを止めなかった。
それは神がそのように背後で働いていたのだ、というのがヨセフの実感なのであった。私たちにおいても、自分がなにかできても、また周囲の状況で認められ、賞をもらっても、また失敗したり、病気となって仕事ができなくなっても、なお、このヨセフのような心で出来事に対処することができるのだと言おうとしている。
主が共にいてくださることから生じる神の祝福、それはこのようにいかに思いがけない事故や人間関係の困難があろうとも、変ることなく続いていく。
人間にとって最も必要なこと、それはこの創世記で見られるように、「主が共にいて下さること」である。そのためにこそ、私たちの方で妨げとなるもの(罪)があってはいけないのであって、キリストはその罪を除くために来られたと言われたのである。
罪が除かれるとき、それは私たちの心で主に背いて生きようとする心が除かれることであり、そのような心に主は来て下さって共にいて下さる。
このような意味のゆえに、主イエスの誕生の記述に際して、マタイ福音書ではこう言われている。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ福音書一・23)

キリストが来られてから確かに、それまでの遠い存在であった神が著しく近くに来て下さった。それは主イエスご自身、「疲れている者、重荷を背負っている者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われているし、キリストが私たちのうちに住んで下さることになり、これこそ、神が共にいて下さるということの最も成就したかたちだと言える。
マタイ福音書の最後の言葉は、「世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ福音書二八・20)であったが、世の終わりまでしか共にいないのでなく、さらに世の終わりを超えて新しい天と地においても、神は共におられる。
それは使徒パウロが述べているように、この世を去るとは、消滅することでなく、信じる者にとっては、「主とともに住むこと」(ピリピ書一・23)なのである。
聖書は、神が私たちとともにいて下さることをその冒頭の書である創世記からずっと一貫して最後まで説き続けている書である。エデンの園において神がともにいて守り、すべての必要を満たしていたのに、あえて人間は神の愛に背いて神とともにいるという最大の恵みから引き離されていった。
しかし、後に現れたアブラハムという人物において、神が共にいるということはどういうことなのか、そのことを実例をもって人間に示したのであった。アブラハムの子孫が夜空の星のようになるとは、神が共にいる人々が世界に無数にできていくということの預言であった。そしてそれはキリストによって実現されていった。現在も、そして未来にいかなることが生じようとも、神が共にいて下さる人々は限りなく生れていくことであろう。
区切り線
音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。