リストボタンことば    2004/5


183)(悲しみからの脱却)
 まことに人間の魂は、神に向かわないかぎり、どちらに向いても、他のどこにおいても、悲しみに釘付けされるだけだ。(「告白」四・10 アウグスチヌス著 (*))

・これはあまりにも悲観的な見方だというかもしれない。この世にはいくらでもよいもの、美しいものはあるではないかと。たしかによい人もいれば、美しい自然もあります。しかし、よい人と見える人にも意外な弱点があり、思いがけない病気で弱々しくなってしまい、あるいは、老年となりやがては死にいたる。
そうした将来をも見つめるとき、悲しみが自然に生じる。美しい自然も、それらはいとも簡単に破壊されていくし、またそれを味わう自分もいつかは病気になり、それらをじっさいに味わうほどの健康も失われていくそこに悲しさがある。それゆえ、ものごとをつきつめて考えるとき、神に向かわない限り、他のどこに向いても悲しみから離れることはできない。それゆえにこそ、私たちは神に向かおうとする心が生じる。
*)アウグスチヌス(AD354430)は、キリスト教会の初期(二~八世紀)を代表する著作家として最も重要な人物で,かつヨーロッパのキリスト教を代表する一人。「告白」は、三四歳までの生きてきた自分を告白し、自らの回心を神に感謝する内容で、五世紀の作。

184)(悪を取り去るためには)
その老漁師は、儀式になれているどこかの宗教家のようでなく、素朴な老人で非常に威厳のある証し人で、真理を説くために遠くからやってきたのであった。
彼はその真理を、眼に見て、手に触れて、現実のことのようにそれを信じ、かつ、それを信じるからこそ愛している人のようであった。その額にも真理そのものが持っているような確信の力があった。
聞いていたローマの将軍の一人が、最も大きな驚きをもって聞いたのは、その老人が、神は完全な愛であるから、人々を愛する者は神の最も高い戒めを果たすものであると教え始めたときである。
善人を愛するだけでは足りない。悪人のために祈り、愛さねばならない。愛によってのみ、悪人から悪を取り去ることができるからである。
(「クォ・ヴァディス」シェンケビッチ著(*)上・270P )著 岩波文庫)

*)クォ・ヴァディスとは、ラテン語(古代ローマ語)で、「Quo(どこへ) Vadis(行くのか) Domine(主よ)」を短くしたもの。これは(主よ、どこへ行かれるのか )という意味。この作品は、新約聖書の少し後の時代に書かれた「ペテロの言行録」に出てくる内容を、ポーランドの作家シェンケビッチが用いたもの。

・ここには、ペテロがローマの町でキリストの証言をしている状況が描かれている。当時キリスト者はローマ帝国によって迫害のただなかにあった。キリスト者の集まりのなかにも、キリスト者を捕らえるために潜入してきた者、信仰もなくして欺くために入り込む者もいた。そうした敵はうちにも外にもいて、キリスト者の安全をおびやかしていた。そうしたなかに使徒ペテロがきて、キリストの証言をし、キリストの教えを伝えている様子が、ノーベル文学賞を受賞した作家のペンによって生き生きと表されている。

185)私は聖なる波から帰り
新緑の木の葉を新しくつけた
若木のような清新な姿となり
天上の星へと登ろうとする。(「神曲・煉獄編33142行以下」)
・これは煉獄編の最後の言葉。原文では disposto a salire alle stelle ready to mount to the stars)であり、「星」という言葉が最後に置かれている。原文ではこの短い箇所に「新しい」という言葉が三度も用いられている。神によって清められ、罪をぬぐい去られ、善きことをゆたかに思い起こすようにして頂いて、さらなる高みへと導かれていく。


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