はこ舟 2004年7月 第522号
内容・もくじ
本当の教育
神の御手
ヨセフの涙
預言者の孤独
愛国心
休憩室
ことば
返舟だより
お知らせ
本当の教育 2004/7
教育ということは、ほとんどの人が経験する。だれでもどこかで、いつかは教育され、また教育する立場となった経験がある。学校教員でなくとも、家庭において、子どもや家族への教育、会社やサークルなどでの教育などなど、教えはぐくむということや、教育を受けるということは随所にある。
教育とは引き出すことだといわれる。(*)
生まれつき持っている能力を引き出すという意味である。たしかに音楽や英語、数学などの学びにかかわること、またスポーツや、例えば家を建てたりするなどのさまざまの技術は、引き出すことができる。適切な教師によって助言や働きかけ、訓練によってそれらは見違えるような状態となる。
(*)「教育する」という英語 educate とは、ラテン語の e(~から) と、 duco(引く、導く)という語から成っていて、「引き出す」という意味を持っている。
しかし、神が持っておられるような愛や真実、正義は引き出すことができない。なぜならもともと人間はそういうものをもっていないからである。人間の魂の深いところから、引き出してくれば、それは自分中心という醜いものが出てくるだけであろう。だから、いくら成績がよくなっても、また何かの技術やスポーツなどができるようになっても、それらができればできるほど、それを自慢に思ったり、できない者を見下したりする、傲慢さや高ぶりが伴うことが多い。
人間から引き出すことができる愛は、自然のままの人間的なものであり、どこまでいってもやはりどこかで自分というものと結びついている。自分が心惹かれるものを愛する、自分によくしてくれるものを愛する、自分への何らかのお返しを期待するような愛というようなものでしかない。
神の愛、それは上から与えられねばならない。次ぎの聖句にあるように、すべてよいものは上から下ってくる。
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。(ヤコブの手紙一・17)
そういう意味では、真の教育は人間にはできないのであって、神によって、キリストによって直接的によきものを与えられ、導かれ、造られていくしかないのである。
それが、主イエスがあのぶどうの木のたとえで語った意味でもある。
わたしにつながっていなさい。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。(ヨハネ福音書十五・4~5より)
単に知識や技術、考え方などを身につけるにとどまらず、人間の一番深いところがよくなっていく(実を結ぶ)ことは、人間は自分でもそれができないし、当然それは他人にもできないことである。それはただ、神に、キリストに結びついて始めて可能となっていく。