神の御手 2004/7
私たちのこの世界には、思いがけないこと、また不幸としか言いようのない出来事も生じる。病気とか突然の事故、戦争、自然災害などなど。そのような時に、神がいるのならどうしてそんなことが起きるのか、そんなことが生じるから神など信じないという人たちもたくさんいる。
しかし、この世に生きて働く神を信じること、その神が愛の神、真実の神であり、天地をも創造され、造り変えることのできる神であると信じることは、まったく別のところからくる。
人は不幸なことが生じなかったら、自然にそのような神を信じるようになるだろうか。
そんなことは決してない。健康で、生活にも何不自由なこともなく、家庭もみんなが元気に生活している、だからといってスムーズに神を信じるようになったりはしない。かえって、そのような苦しみも悲しみもない生活では、いっそう自分中心になっていくことも多い。
神が生きて働いておられる、ということがわかるようになるのは、そうした外部のことによってではない。
実際、遠い昔、モーセがエジプトから奴隷となっている同胞を救い出そうとしたとき、神の力が与えられて、モーセはエジプト王の前で数々の奇跡を行なって、同胞を解放するようにと迫った。しかし、どんなに奇跡を見ても、王は神を信じることはしなかったし、逆に心をかたくなにしたと記されている。
また二千年前にもキリストが数々の奇跡をされたが、だからといって民衆はそれらの奇跡を見て、キリストを信じたり、神への信仰が深まったということもほとんどなかった。弟子たちも三年間そうした数々の奇跡を目の当たりにしていたのに、自分たちの地位を求めたりキリストが十字架で死ぬと言われてもその意味も理解できなかった。民衆もイエスが十字架にかけられることを望んだのであった。
それなら何によってキリスト教の真理が信じられ、父なる神のこと、愛の神のことが信じられるようになったのか、それは時代がよくなったからとか、自然災害が起こらなくなったからとかでもない。
それは、神が直接に一人一人の魂に働きかけたからである。言い換えると神の聖なる霊が働きかけたからである。神の御手は万能であり、いかなる周囲の状況にもかかわらず神を深く信じる魂を創造しうる。聖なる霊は風のごとく、思いのままに吹く、と言われている。まさにその通りであって、神が直接にその見えざる御手を伸べるとき、いかなる状況にある人でも神を信じ、神の愛に感じるようになる。
使徒パウロもキリスト教徒を迫害するリーダー的存在であったのに、神の御手が働き、その光が臨んだときに、たちまち変えられたのであった。
自然の中にも神の御手の働きが随所にみられる。というより、自然はすべて見る目をもってすればすべてが主の御手の働きだと言える。人間の世界では、しばしば神の御手の働きがわかりにくいし、はじめに触れたように、全くそんなものはないと思う人も多い。そのかわりに神は、だれでもが人間を超えた驚くべき御手によって造られたのではないかと、感じるような被造物(自然)を至るところに置いて下さっている。
旧約聖書の詩人もそうした自然のなかに、大いなる神の御手を深く感じていた。
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。(詩編十九・2)
日々に異なる大空のありさま、青い空のさまざまの色調、また白い雲も刻々とその形を変え、色合いも変わっていく。朝夕にはその茜色の空や雲などとともに雄大な光景を現してくれる。
夜になれば、目に見えるものとして最も崇高な星の群れが広がる。
こうした自然の無限の多様性をたたえた姿において、私たちは神の御手をつねに感じるように導かれているのである。
私たちの内なる目、霊的な目が開かれるほど、そうした自然の世界だけでなく、人間の世界にも神の御手があり、その御支配がなされており、それは宇宙の創造以来、長い歴史のなかにもその御手は働いてきたのだとわかるようになる。
大いなるは神の御手! いかなる時代にも決して衰えることなきその御手の働きを信じて生きるところに私たちの希望があり、平安がある。
主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。(民数記十一・23)