リストボタン主の慈しみに満ちている世界   2004/9-2

現代の私たちの世界をみるとき、そこが神の愛で満ちているという実感を持っている人がどれほどいるだろうか。新聞やテレビなどで報道される内容からはおよそ、そうした神の愛とはほど遠い現実がある。
ことに最近はテロ事件があちこちで頻繁に発生し、日本でもその可能性が高まるなか、今年は台風が前例のないほどに多く上陸し、地震も発生、ということで全地に神の愛があるとは考えたこともないという人が大部分であろうし、キリスト者であっても心配ばかりが先に立っているという場合があるだろう。
しかし、こうした目にみえる世界の状況のただなかに、神は私たちに詩篇を指し示されている。
旧約聖書の詩編とは、どこの国にもある古代詩集とは本質的に異なる内容と目的を持っている。それは詩編を初めて見たとき、今から三〇年以上前にははっきりとは分からなかった。しかも訳語が口語訳ではあまりにも冗長で力が感じられず、誇張した表現とかまるで現代とは関係ないといった用語、言葉などのために、違和感が先に立って、詩編二三編などのわかりやすいものなど一部の詩以外には深く心に入ってくるものもなかった。
しかし、年を経るにつれてこの詩編というものが、神からの私たちへの直接的なメッセージを深くたたえているのに気付くようになった。用語や訳語など、また表現の不適切さなどを超えて、その背後にある永遠の神からのメッセージを知るとき、ここにはだれもが本来入っていける神の大きなご意志と憐れみの世界があると分かってきた。
ここでは、世界を慈しみで満たして下さっている神とはどんなお方であるのか、そして人間はどのように神とこの世の認識へと導かれるのかについて印象に残る表現である、詩編三三編について学びたい。

主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。
琴を奏でて主に感謝をささげ
十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。
新しい歌を主に向かってうたい
美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。

讃美こそは人生の目標
主に従う人、正しい人(心の直き人)とはだれか、それは神への讃美をもっている人だといわれている。人間は誰でも生まれつき正しい人とか悪人というのはないのであって、誰しも罪深い存在である。しかしそこから神を信じ、神からの赦しと清めを受けて、神に従う人となることができる。そのような人が正しい人、直き人と言われている。
神を知らないときには、うつろいやすい人間に従うしかない。自分という人間、あるいは周りの人、世の中の人間に従うことになる。新聞、雑誌、テレビなどもみんな人間の産物であり、それらに従うことは人間に従うことと同様である。
しかし、一度私たちが神を知らされて、罪深い者でありながら神からの憐れみを受けて罪赦されるのを実感したとき、私たちはそのあまりの大きな変化によって人間より神に従いたいという自然な心が生じる。そしてそこから神への讃美が生れてくるのである。神に従う心をもって歩むとき、周りの何の変哲もないと思われた光景や出来事などが一つ一つ神のわざと感じられてくるからである。
人間の最終的な目標は神への讃美である、それはことにこの旧約聖書の詩編を読むときに繰り返し現れる内容である。こうした詩編によって私たちは、日常生活のなかで立ち止まり、私は神への讃美の心を持っているだろうかと考えさせられるのである。
もし神への讃美を持っていないのがわかれば、その心の奥には、自分の考えや思いで生きていく姿勢、人間への讃美、あるいは人間的な欲望や願いがあったり、神への不満、不安、将来への絶望など讃美の心を妨げるものがある。
讃美などできないと思わされたときこそ、静まって、神に目を上げ、詩編のこころに立ち返っていくとき、再び神は私たちの心に、新しい讃美を与えて下さる。

多様な讃美
この詩では、ついで多様な讃美がすすめられている。
「琴を奏でて、主に感謝を捧げ、十弦の琴、新しい歌、美しい調べ」などといった言葉が重ねられている。
心にあふれるものがあるとき、それはおのずと多様な讃美へとうながされる。楽器が弾けるものは多様な楽器をもって、それができない者であっても、声という神から与えられた楽器がある。声は声帯といういわば一種の弦楽器のようなものである。
わたしたちは楽器がなくても、声を持って、どこにいても讃美をすることができる。
現代の私たちにとっては、可能な楽器を用い、声をもって讃美し、さまざまのタイプの讃美へとうながしていると言える。こうした多様な讃美へのすすめは、新約聖書にもみられる。

キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
(コロサイ三・16

ここでいう「詩」というのは、旧約聖書の詩篇を歌う讃美であったと考えられ、讃美とは当時のキリスト者たちによって生み出された新しい讃美であったと考えられる。
そして「霊の歌」というのは、とくに聖霊が注がれて作られた即興的な讃美ではないかと推測されている。いずれにしても言えることは、このような多様な讃美が最初からキリスト者の間には歌われていたということである。
主イエスも最後の夕食のあとで、讃美を歌ってから祈りの場へと赴いたと記されている。これからゲツセマネにて血のような汗を流して必死に祈り、そのあと捕らえられて十字架につくことになるという緊迫したときにあってもなおこのように讃美を歌ったということからしても、讃美というのが現代の我々が考えがちな、心楽しいから歌うなどといったものとは本質的にことなる意味を持っているのがわかる。それは単なる形式とか聖書講話の付け足しなどでなく、それ自体が深い意味を持っているのである。それは祈りであり、困難なときにあって神からの力ある霊を受けることでもあった。

主の慈しみに満ちている世界

主の御言葉は正しく
御業はすべて真実。
主は義と公正を愛し(*
地は主の慈しみに満ちている。
御言葉によって天は造られ
主の口の息吹によって天の万象は造られた。

*)新共同訳では、「恵みの業と裁きを愛し」と訳されているが、「恵みの業」と訳された原語は、セダーカーであり、セデクとともに、「正義」と訳される言葉である。創世記にメルキゼデク という人物が現れるが、メルキとは王の意、ゼデクとはセデクと同じで、それゆえこれは「正義の王」という意味だとしてヘブル書の著者も引用している。(ヘブル書十一・2
また、「裁き」と訳された原語は、ミシュパートであり、これは、裁きという訳語のほかに、旧約聖書では正義、公正、公平などとも訳されていることが多い。現代の日本語では、「裁きを愛する」というと、人間を罪あるものとして断罪することを愛するというように取られる可能性が高い。なお、関根正雄訳では、「義と公平を愛で給う」と訳されている。英語訳などもたいていは、He loves righteousness and justice のように訳されていて「神は正義と公正を愛する」という意味に訳している。


この詩の作者の讃美のもとになっているのは、神は正義の神であり、悪をそのままに放置しておくことなく、必ず正しく裁かれる、その確信がもとにある。神の言葉がいかに力強いものであるかという実感である。
それがこれらの言葉に現れている。
私たちがこの詩の作者の信仰で驚かされるのは、全地が神の慈しみ、神の愛で満ちているという表現である。この文章のはじめに書いたように、このようなことを現代の人がどれほど深く実感しているだろうか。世界は混乱と悪や不安、飢饉などで満ちているというのが多くの人の実感であろう。
この詩編が作られたはるかな昔も決して平和で、何も苦痛のない時代であったわけではない。現代のように病院もないから、病気になっても医者もおらず、また国家や部族同士の戦いはいつの時代にもあった。人権などというものも認められておらず、福祉制度もなく、特に女性は夫が戦死または病死や仕事中での事故死などに遇えばたちまち生活もできないほどに困窮することも多かった。そうした苦しみや悲しみのただなかにあってもこの詩の作者は「地は主の慈しみに満ちている!」 と感謝しつつ歌うことができた。
それはなぜなのだろうか。それは神から与えられた、新しい心と目で世界を、また現実を見つめていたからである。
預言者たちが国の滅びと荒廃のただなかで、未来に訪れる救いのときを霊の目でみることができ、黙示録の著者が、迫害の暗黒のなかで、天上の清められた人たちの大いなる讃美の声を聞き取ったように、この詩の作者もまた、通常の人たちには見えないし感じることもない、神の愛が地を満たしているのを実感したということなのである。
この詩の作者のように、この世界はいかに混乱や悪がはびこっているようにみえても、私たちの魂が、神(キリスト)に深く結びつくほど、地にはよきものが満ちていると実感されてくる。
ヨハネ福音書の冒頭で、次のように言われていることも、こうした「満ちている」という実感を表したものにほかならない。

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
(ヨハネ一・16

使徒パウロもこうしたキリスト信仰によって、満ちあふれるものを深く体験したがゆえに、つぎのように述べている。

また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
(エペソ三・1819

これらはすべて、この詩の作者が言っている、「地は主の慈しみで満ちている」ということと共通した実感である。新約時代のヨハネやパウロにおいては、旧約聖書における詩人が感じた以上の豊かさとあふれるものを
魂において実感していたのがうかがえる。それが彼等が生涯、キリストを証ししていこうとする原動力にもなっている。
私たちは日常の変化のない生活が当たり前と思ってしまって、それを超えた世界があるということに気付かずに生きていることが多い。
そのような動きの取れなくなっている世界に生きる私たちにとってこの詩の作者のように、神に引き上げられて、通常では見ることのできないところを見た人たちの証言は貴重なものであり、それによって私たちもまた引き上げられるのである。
しかし、こうした特別の霊的な恵みが与えられていなくとも、周囲の身近な自然の姿を見つめることによって私たちは神の慈しみが随所に現れているのを感じることができる。明け方近く、闇に輝く金星の強い光は私たちへの光のメッセージであり、私たちに語りかけようとして下さっている神の愛を感じさせてくれるし、山野の野草たちは、その花や姿の一つ一つが私たちにやはりその純粋さや創造の多様性をもって、私たちの狭い心を広げ、創造の大きな神の御手へと導こうとする神のお心を感じさせるものである。

神の言の力
この詩の作者はこの広大無辺の天地宇宙が、神の言葉によって創造されたという確信をもっていた。私たちの通常の受け止め方は、一五〇億年ほど昔に、無から、ビッグバンという大爆発によって突然に、しかも偶然にできたというものである。しかし、その大爆発以前はどうだったのかと問われても、無であったとしか言いようがないのが現代の科学のいうところである。 そして将来はどうなるのかということについても、どこまでも膨張するのか、それとも収縮をはじめていくのかも分からない。
こうした万事が究極的には分からない、ということに行き着くのが科学であり、ここに大きな限界を持っている。
究極的にはっきりしたことは何も言えない、ということからは、確たる希望は生れない。平安も与えられない。そもそもこのような科学上の理論を理解できる人はほとんどいないのであって、天文学の研究者という極めて一部の人だけということになる。ほかの人はみんなそれを信じているだけなのである。
こうした科学の力を信じることによっては悩みや苦しみ、絶望といった人間の深い闇には何も力を与えることができない。たった一人との人間関係で複雑にもつれてしまった心、憎しみや怒り、ねたみなどの心はこのような科学上のことではどうすることもできない。
しかし、聖書に現されている信仰は、万人に開かれており、しかも苦しみや悲しみのただなかにいる人に深い支えと力を与えるものである。
ここで作者が述べていること、「神の言葉によって天地が創造された」ということは、神の言葉が絶大な力を持っていることを実感している心がそこにある。
キリスト者のものの考え方の基本はやはり、聖書の最初に書かれているように、神が天地万物を創造されたということであり、今もその創造の力を維持し続けており、万物を支えておられるということである。
その万物を創造されたお方であるからこそ、私たちの周囲の悪をも究極的には滅ぼすことができるお方であると信じることができる。

歴史における神
主は大海の水をせき止め
深淵の水を倉に納められた。
全地は主を畏れ
世界に住むものは皆、主におののく。
主が仰せになると、そのように成り
主が命じられると、そのように立つ。
主は国々の計らいを砕き
諸国の民の企てを挫かれる。
主の企てはとこしえに立ち
御心の計らいは代々に続く。

私たちが神のわざをみるとき、現在みえる世界のことだけを考えていてはいけない。なぜなら神ははるか昔から歴史を動かし、導いておられる神だからである。聖書にはそのために、周囲の暗黒と混乱、またそれと対照的な自然の雄大さや美しさなどをたたえる言葉とともに、過去から現在へと導く神のこともしばしば記されている。
ここでも、この詩の作者からはるかに昔のことである、モーセによるエジプトからの脱出へと思いをめぐらしている。
そして時間の流れの中で、すべてが権力者や武力、あるいは偶然的なことで生じていると思われている歴史においても、この作者は天地を創造し、今も支えている神の万能の力がやはり働いていると知っていた。
私が高校などで学んだ歴史とは全くの暗記物であって、教える教師は何かというと、「これは○○大学の入試に出された」などということを口癖のように言っていたので、さすがにそれにうんざりしてしまったのを思い出す。そこでは目先の有名大学入試に少しでも多く合格させるということだけが至上命令であって、歴史が何なのか、何のために私たちは歴史を学ぶのか、日本人として歴史を知った上で、未来をどのように考えていくのかなどといったことは全く一言も触れることはなかったし、当時の教師はそのようなことを考えたこともないような状態にみえた。
そのように歴史など単なる暗記物だとほとんどの生徒たちが見くびっていたし、試験が迫ってきたら集中的に覚えたらいいのだと考えていた。
しかし、歴史とはそのようなものでなく、はるかに深く重要なものであることが、大学に入学して当時の学生たちと議論し、彼等がたえず口にしていたマルクス・レーニン主義関係の本を読むようになって気付いたのである。歴史というのは、その背後に法則がある、その法則にしたがって動いていくのだといった考え方は初めてのことであって、驚かされたものであった。そしてそのように歴史を見る考え方のもとは聖書にあるということも分かってきた。
聖書でははじめから歴史は極めて重要なものとなっている。アブラハムという個人が神の祝福を受けるとき、その子孫は空の星のようになる、そして子孫は外国に長い間奴隷となって苦しんだあとで、救い出され大きな民族として発展していく、ということが創世記に記されているが、ここにもすでに歴史とは神の御計画そのものであるということが暗示されている。
歴史は神の導きそのものであり、神の万能が現れるところであり、また時間を通して神のわざが表されるところなのである。
それゆえ、この詩においても、モーセを遣わして、エジプトにいた民を救い出し、そこから周囲の国々に神の力を証しさせ、将来神のことが世界に知らされていく予告となっていく。
そしていかに権力や武力があろうとも、またいかに広大な地域を征服しようとも、神がひとたびある国の支配や権力を打ち破ろうとされるとき、必ずそれは成る。

主が仰せになると、そのように成り
主が命じられると、そのように立つ。
主は国々の計らいを砕き
諸国の民の企てを挫かれる。

これはそのような確信を表している。神への信仰とは、単に個人的な悩みとか願い事を聞いてもらうための存在でなく、世界の歴史全体を支配し動かしておられるお方への信頼も含まれているのである。
このような社会的、政治的な領域における信仰はよく分からないという人がいるかも知れない。しかし、自分の心の内だけの平安を思っているだけでは、どこか漠然とした暗さが心深くに残る。それは周囲の社会や人々はどうなっていくのだろうという疑問がついてまわるからである。そうした世界全体に関する闇を克服するのが、ここに現れているような信仰なのである。

個人を見つめる神

いかに幸いなことか
主を神とする国
主が相続地(嗣業)として選ばれた民は。
主は天から見渡し
人の子らをひとりひとり御覧になり
御座を置かれた所から
地に住むすべての人に目を留められる。
人の心をすべて造られた主は
彼らの業をことごとく見分けられる。

ここで、一五〇編ある詩全体のタイトルともなっている詩編第一編の冒頭にあるのと同じ言葉、
「いかに幸いなことか」(原文では、「アシュレー」という一語)が出てくる。
当時も現代に至るまでも世界のあらゆるところで、様々の神々がいる。しかし、聖書で言われている神、天地創造された神を信じることこそ、あらゆる幸いの原点であることが言われている。
天地宇宙を創造された神であり、歴史を導くという壮大な神でありながら、そのまなざしは一人一人を見つめて下さっているという。その著しい対照がここにある。
原文では、この詩編三三編の六節から十五節までに、「すべて」という言葉(コール kol)が次のように五回も繰り返し現れる。日本語の聖書では、その言葉が省略されたり、「皆」とか「一人一人」とかいろいろに訳されているので、そのことに気づきにくいが原文ではその繰り返し強調されていることがはっきりと浮かび上がってくる。

・主の息吹によって、すべての星々(万象)が造られた。(六節)
・すべての地は主を恐れ(八節)
・世界に住むものは全て主におののく(八節)
・主は、天から人の子らすべてを見つめ(十三節)
・地に住むすべての人に目を留める(十四節)
・人の心をすべて造られた主は(十五節)

このように何度も「すべて」が繰り返されているのは、この詩の作者がそれほどに神が全世界、宇宙、人間、歴史を総合的に支配なさっているというのを深く実感していたからである。この点において、日本も含めさまざまの民族の神々は、それぞれの土地の神、山の神など、ごく狭い領域の神にとどまっているのと著しく対照的である。そうした神々を信じるということは、この世界の背後に薄暗いもの、不気味なある力を感じていたのを示していると言えよう。
現代の私たちはどうであろうか。神など信じないという人たちも、会社の力、金の力、権力や政治、大国の力あるいは武力、さらに偶然や悪意、死の力等々、得体の知れない力をいくらでも信じていると言えよう。
私たちはすべてを、正義と真実な神の支配下にあるものとして、統一的にみつめることがここでも求められている。

真の安全と勝利
王の勝利は兵の数によらず
勇士を救うのも力の強さではない。
馬は勝利をもたらすものとはならず
兵の数によって救われるのでもない。
見よ、主は御目を注がれる
主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
彼らの魂を死から救い
飢えから救い、命を得させてくださる。

今から二千数百年も昔から、はやくもこのように武力や権力、軍備増強の限界をはっきりと知っていたことに驚かされる。馬とは古代世界にあっては軍備の象徴的なものであった。
日本でも、すぐれた騎馬隊は戦さを支える重要な存在であった。一五七五年五月、長篠の戦で武田勝頼の優秀な騎馬隊が、織田・徳川の連合軍に大敗したのは、兵力な差もあったが、決定的な敗因は鉄砲隊の攻撃によるものであった。鉄砲が登場するまでは馬に乗った勇敢な武将たちの戦いが勝利を導く重要な要素となっていたのである。
この詩の作者は、兵の数や馬の効果的な利用も、勇敢な勇士がいてもそれらは決して勝利につながらないという。このようなことは、現代で言えば、いかに軍隊を強力にして、軍備を最新の強力な破壊力のあるものにしてもだからといって勝利を得ることはできないということになる。
このような驚くべき発想はどこから生れたのだろうか。
それは歴史を導き、国々すべてをも背後で支配している神への絶対的な信頼の心であり、信仰であった。そしてそれは頭のなかで漠然と神の力を信じているというのでなく、この詩を造った人のいわば血となり肉となっていて、毎日の生活においてもそうした神への深い信仰に生きていたからであろう。さらにそれに加えて神の霊的な啓示によって、このような真理が示されたのである。
このような確信は、ほかにも見られる。

戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが
我らは、我らの神、主の御名を呼ぶ。
彼らは力を失って倒れるが
我らは力に満ちて立ち上がる。
(詩編二十・89

ここでも、この詩の作者は当時の戦力を誇り、それに頼る姿勢とは全く異なって、神に頼り、神を呼ぶことこそ、勝利の基であり、そして軍備に頼るものが祝福を受けず、最終的には倒れていくことも知っていた。
このように、信仰の確信は神との深い交わりから本人の平安、そして天地宇宙の創造への神、社会的政治的な問題へとつぎつぎと広がっていく。
そして最後に現在と未来をみつめるまなざしが置かれる。

我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。
我らの心は喜び
聖なる御名に依り頼む。
主よ、あなたの慈しみが
我らの上にあるように
主を待ち望む我らの上に。

私たちは現代の問題に直面してどのような手段もその解決に即効性のある方法などないのを知っている。個々の人間の悩みや苦しみ、悲しみに対してなすすべのないことが多い。
さまざまな病気の中で、医学もどうすることもできない重症の癌や、エイズなどの重い病気に苦しむ人においては日夜その心身への負担、苦痛はたとえようもないことも多いし、また飢餓や貧困の苦痛、戦争のために家を追われた人たちの苦痛もはかりしれない。
しかし、また、それらの方々を少しでも援助しようと、それぞれの状況に赴いて苦闘されている人たちも多い。
そうした中でそのようなところに実際に関わっておられる方々とともに、誰でもが可能な道は、ここにあるように、神を待ち望み、祈りを続けることである。神は真実なお方であるゆえ、真実な祈りはどこかで必ず聞かれるからである。そして神の慈しみが太陽の光や雨がすべての人に及んでいるように、世界の人たち、そのような広いところでなくとも、身近なわずかな人たちのために祈ってその上に注がれるようにと願い続けることができる。そしてそうした祈りの心を持ちつづけるときには、神が聖霊を注いで下さって、闇のただなかにあっても、主にある喜びや平安を与えて下さるということを、この詩は最後に指し示しているのである。

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