平和の原点 2004/9-3
三年前、アメリカで、テロによって世界貿易センタービルが破壊された事件以降、平和のためと称してアフガニスタンやイラクへの戦争が始められた。しかし、それが世界平和につながったであろうか。最近の世界で生じているテロ事件の頻発をみても、決して平和になったとは言えない。
平和のためと称して武力、戦争に訴えること、それははじめから一般の人々、とくに女性、老人や子ども、病人や障害者といった弱い立場の人が犠牲になることが明らかである。
よく、武力が必要な理由として、警察と同じだなどという反論をする人がいる。しかし、警察力は、その目的が国民の生命や財産を守ることであり、そのため悪をなした人を捕らえることになる。それは悪人の犠牲となる弱い立場の人を守るということにつながる。
しかし、戦争は、太平洋戦争とか、今回のイラク戦争を見ても明らかなように、はじめから弱い立場の人を大量に巻き添えにして殺してしまうことを当然のこととしている点において、根本的に異なる。
さらに、戦争は今回のことでも見られたように、他国をも巻き込んで多数の国々や人間を互いに全く知らない人たちを殺したり、傷つけたりする。警察は国内に限られて、他国をも巻き込んでの無差別的殺傷を引き起こすということはない。
武力を用いるという問題の多い方法と違って、真の平和に向かう確実によい一歩がある。そしてどんな長い距離も小さな一歩から始まるように、ここでいう一歩とは、きわめて小さいものとみえるが、これこそが確実な一歩なのである。
それは、まず自分が本当の平和を持つこと、しっかりと揺るがない平和を持ち続けることである。
そのためにはどうするか。それが主イエスの来られた目的でもあった。
それは私たちの本当の平和とは、魂の内なる平安であり、それは自分の考えや他人からの説得などにはよらない。私たちの心の動揺や混乱などは魂の奥深いところで、自分は悪いことをしたのだという意識からくることがある。だれしも人間を超えた正しい存在、清い存在、そして愛のお方を前にして、うしろめたい気持ちにならないという人は少ないだろう。
まず私たちの過去の罪をぬぐい去っていただき、今、現在の心の罪を清めて頂いていて初めて、私たちは主イエスを真正面から仰ぐことができる。
私たちが神との平和を与えられるとき、それが一人の人間の魂の平和の根源であり、出発点である。神との平和とは神と人間とを阻む罪の問題がなくなると、すぐに実感できることである。
たった一人の心の平和が何が世界の平和と関係があるのか、という人もいる。しかし、そのたった一人が集まって世界があるのであって、私たちもそうした人間のうちの一人なのである。だからたった一人でも確実な平安を持っている人は確実にこの世界に平和を生み出したことになる。
主イエスの言葉に、つぎの有名な言葉がある。
ああ、幸いだ、 平和を実現する人々は!
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ福音書五・9)
このところで言われている平和という意味を、現在私たちが新聞やテレビなどで耳にするふつうの社会的平和だと考えられる場合が多い。しかし、主イエスが福音書においても戦争を無くそうとか、政治的、国際的な平和を樹立しようとされたというような記述は見られない。それはなぜかというと、社会的な平和以前に一人一人のうちに確固たる平和がなければならないからである。
目にみえる戦いがなくとも、人間の心が傲慢で、自分中心に生きていて、聖書に示されているような愛の神を否定し、真実を愛することのない心があるなら、その人の心には揺るがない清い平和はないし、そのような心をもった人間同士では、何かのきっかけで争いがたちまち生じるからである。
日本においても、六十年近く外国との戦争をしなかった。しかし、だからといって日本人の心はより清く、真実になったであろうか。
自分の心の内にすら、確たる平和を持てないならどうして他者との関わりで本当の平和、神が喜ばれるような平和を持つことができようか。
人間的な遠慮や妥協、相手に対して気を悪くさせてはならないといった感情的なレベルでの平和は聖書でいわれている平和ではない。
それは次の主イエスの言葉によってもうかがえる。
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。(マタイ福音書十・34)
これは、古い人間的なもの、目に見えない真実や清いものを求めるのでなく、目にみえるもの、金や快楽あるいは汚れたものや人間的な感情を重んじるようなあり方の中にくさびを打ち込み、そうした心の姿勢が間違っていることを思い知らせるために来たという意味である。実際、主イエスは、当時の偽善的な宗教家や人々の形式的なものに堕落した宗教的姿勢を厳しく指摘した。その指摘を神からの警告と受け止めず、そのために、人々は激しく怒ってイエスに対して 敵意を持つようになった。しかし、他方ではそのようなイエスを神の子、救い主として受け入れる人もあり、そのような人には、神の力と祝福を与えられたのであった。
このような主イエスの態度は、神への悔い改めなくしては真の平和はあり得ないという確信から来ている。
主イエスが剣を投げ込むために来た、といわれたように、キリストの弟子たちもたとえ周囲に混乱が生じようとも、真理を伝えることへと導かれた。使徒言行録にはそうした大きな混乱や騒動、迫害がいろいろと記されている。キリストの使徒として最も大きな働きをしたパウロについても、そのことが記されている。当時の大祭司たちは、パウロのことを訴えて、つぎのように告発した。
この男(パウロ)は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります。(使徒言行録二四・5)
また、パウロは、ギリシャの町フィリピでは、彼をねたむ人たちのために捕らえられ、つぎのように訴えられた。
そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。」(使徒言行録十六・20)
このように、パウロは平和をもたらすどころか、騒ぎと混乱をもたらすものとして訴えられている。これは主イエスご自身が神殿において、いろいろなものを売り買いしていた人たちの椅子などをひっくり返し、人々がいかに見せ掛けの宗教に生きているかを厳しく指摘したり、当時の指導者であったパリサイ派の学者や祭司たちにはっきりと彼等の偽善を指摘したために、彼等が怒り始めたということが聖書には書かれているが、そうした真理のために語る姿勢を弟子たちも与えられていたからである。
こうした聖書の記述を見ても明らかなのは、キリストの福音こそは、真の平和をもたらす根源であり、それなくば平和というのは単にみせかけのものであり、砂上の楼閣のようなものだという認識である。
それゆえ、使徒たちは例えば次ぎのように、その手紙の冒頭で、「あなた方に平和があるように」という祈りを繰り返し強調しているのである。
私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和(平安)が、あなた方にあるように。(ローマの信徒への手紙一・7など多数)
平和の根底には、私たち一人一人のうちに、神との平和がなければならない。パウロはその点を明確に述べている。
このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。(ローマ五・1)
信仰によって、義とされる、すなわち救いを与えられ、神との霊的な交わりを与えられたということは、神との平和を与えられたということなのである。この平和こそが人間同士や、人間の集まりである社会的平和の揺るぎない原点となる。
この神との平和がないということは、すなわち、真実に背いているということであり、赦しや相手のために祈る愛をも持たないということである。なぜなら、愛や真実の完全な総合された存在が神だからである。
キリストこそ平和の源であるということは、新約聖書ではとくに強調されている。
…実に、キリストはわたしたちの平和である。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄された。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた。…(エペソ書二・14~16)
この文は初めて読む人にはわかりにくい表現もある。「肉において敵意の壁を壊した」といっても何のことか分からないだろう。これはキリストが自分の肉体に十字架刑を受けて、血を流して死なれたが、それによって、さまざまの敵意を滅ぼしたということなのである。キリストの十字架の死を自分の罪のためになされたことだと心から信じて罪の赦しを実感した者は、それまで持っていた他者に対する何らかの敵意や見下すような感情は壊され、相手に神の国がきますようにとの祈りの心が芽生える。
また、この時代には、ここに書かれているように、戒律ずくめのユダヤ人の旧約聖書(律法)のこまかな規定を守らなければ救われないとして、そうした規定を守らないユダヤ人以外の人々を見下し、彼らを汚れているとしていた人たちが、そのような傲慢さや異邦人への敵意を完全にぬぐい去ることができた。それはそのような規定とは全く別に、キリストの十字架による赦しを信じるだけで、赦され救われるからである。
このようにして、キリストの十字架は多様な敵意や傲慢が作っていた壁を取り壊して、どんな民族であっても信じるだけで救われ、またどのような敵対者同士も片方が救いを実感したときから、祈りという道が開けて和解の道が開けるということなのである。
平和とは単に敵意を持たないということでない。人間が互いに愛もなく、無関心なのを平和な状態だと錯覚したりすることが多い。しかし、そうした無関心、あるいは冷たい平和というものは何かあるとたちまち敵意となってくる。日常の生活のなかでもそうしたことはよくある。だれかが自分の悪口を言っているということが伝わったとたんに、その人とは平和な関係は失われてしまう。
イラク戦争が始まったとき、アメリカではその戦争に反対した人は強い圧力がかかってきて、それまで平和な友人同士であったと思われていた関係がたちまち崩れた人も多かったようだし、イラクでの日本人人質事件のとき、それまで平和そうにみえた人間がとたんに人質になった人を攻撃しはじめたのであった。
その意味で、単に争っていないというだけでなく、相手によきことがあるようにとの祝福の祈りにも似た気持ちがなければ、本当の人間同士の関係は平和な関係とは言い難い。そしてそのような静かな持続的な祈りをなさしめるのが、私たちの内に住んで下さるキリストであり、聖霊なのである。
個人的なレベルにおいても、また社会的な広い範囲においても、確かな平和を造り出すための基礎は、やはり聖書にいうように、まず一人一人がキリストの十字架によって罪赦されて神との平和を与えられることなのである。