ことば    2004/10

195)人の生涯には、いつか突然、単純な信仰の境地が訪れて、神への真の愛がなければ、どんな信仰も、教義的な知識も、魂の向上に役立たないことがわかり、反対に、心のなかに神への愛があれば、一切が明らかになり、容易になり、単純になる、ということを示される。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」 上・八月二日の項より)

Einmal im Leben des Menschen kommt plozlich das Einfach und zeigt ihm,das ohne die rchte Liebe zu Gott aller Glaube und alle dogmatische Kenntnisnicht vorwarts hilft,warend mit dieser Liebe im Herzen alles klar,leicht und einfach wird.

これは、主イエスが、一番大切なことは、神を愛すること、それと同様に隣人を愛すること、と言われたことに通じるものである。神への真の愛、それはいつも主イエスによってうるおされているものであるが、それがなかったら、いろいろの学問的な知識も、それをもって誇り、他者を裁いたり、見下したり、自分を正当化したりするのに使われてしまう。また神への真の愛があるなら、神もその聖霊と愛を注がれるゆえに、主イエスが約束されたように、「聖霊があなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせて下さる」(ヨハネ十四・26)となる。神への愛があればあるほど、神と一つになるということであり、神のお心、ご意志も伝わってきて、隣人への愛も与えられ、いろいろの出来事、自然のたたずまいなどにもその背後に神の愛の御手を実感できるようになっていき、ただその愛を日ごとに受けて、またそれを他者に与えるという単純な生活へと導かれる。私たちもそのような聖なる単純さを与えられたいと思う。

196)この逆境の中にもいいことがある。私たちの眼と耳とがだんだん開かれてきているんだ。神が私たちに語られるとき、神の声など聞こえっこないようなところから、静かな小さな声で神は話しかけておられるんだ。(「死の谷を過ぎてークワイ河収容所」)

・この本は、今年五月号の「はこ舟」誌で紹介したことがある。太平洋戦争のときに日本軍は、タイとビルマを結ぶ密林や山岳地帯という困難な場所に430キロメートルに及ぶ鉄道を建設した。あまりにも苛酷な労働酷使のために、毎月二千人を超える人たちが死んでいくというおびただしい犠牲者が生じた。その地獄のような生活を強いられた人たちのなかで、驚くべきことに神への信仰を強く持ち続け、キリスト者としての生き方を貫き、他者のために犠牲になる人、死に瀕している人たちへ献身的な愛を注ぐ人たちが現れた。この本の著者も同様であった。自分が置かれている恐ろしい状況、毎日やせ細った人たちが病気の苦しみにさいなまれ、死んでいくという光景を目の当たりにしながら、それでも神からの語りかけが一層よくわかるようになっていくという驚くべきことが生じていった。神はたしかに、思いも寄らない苦しい状況、敵対する人、あるいは病気で寝たきりの人、また野の花や空にひろがる青い空、吹く風の音など、またそれとはまったく異なる都会の喧騒のただなかなど、さまざまのことから神は語りかけておられる。私たちが心の耳をすまし、静かな小さい語りかけに耳をすますことが求められている。

197)弱い者が強い者を必要とするだけでなく、強い者もまた弱い者なしには存在しえない。弱い者を排除すればそれは交わりの死である。(「信じつつ祈りつつーボンヘッフアー短章366日」 70P 新教出版社 )

・病気や性格、または能力、老年などでさまざまな意味で弱い者は強い者が必要だというのはすぐにわかる。医者とか健康な者、能力のあるもの元気なものがそうした人たちを支え、いやし運ぶからである。
しかし、強い者が弱い者なしには存在できないのだ、というのは多くの人たちにとって不可解であろう。それは新約聖書のなかに深く見られる。パウロが「弱いところに神の力は完全に現れる」(コリント十二・9)と言ったが、弱さのなか、弱い者と自覚するところや、そのような弱さを持った人たちとの関わりによって神から力を与えられて強い者も支えられる。それゆえ弱い者を排除しようとするような人間の交わり、集まりは神の命を与えられなくなって、枯れていく。


返舟だより 2004/10

今月もいろいろの方から読後感とか励まし、また祈りを届けて下さった方々があります。その中からの一部です。

確かに、私どもは、この地上での暗く不健康な面を目にしがちですが、そうした中に「主の慈しみ」のあることをあらためて思わざるをえません。混乱の世界を通して、みことばが今日まで語りつがれ、そして今後もまた語りつがれようとしているところに、新たな力のわき起こるのを覚えます。感謝と希望をもってこれからの毎日を歩みたいと存じます。そのことをはっきりと示して下さいましたこの度のご文章に、心から感謝申し上げます。(関東地方の方)

九月号にあった「私たちが召されたのは、苦しみを受けた時でもキリストを思って甘んじて受けるため、また祝福を受け継ぐためである。」何と直截(ちょくせつ)(*)で、身のひきしまるおことばでしょうか。それと同じ思いで、「相手によきことがあるようにとの祝福の祈りにも似た気持ちがなければ平和な関係とは言い難い」という言葉にも共感しました。(関東地方の方)
*)表現がまわりくどくなく、きっぱりしていること。「ちょくさい」とも読む。

○…
私の心のなかの聖霊が曇りを取り去られ、新しくなるのを覚えます。これからも御誌を愛読させていただきたくお願いします。(東北地方の方)

・今後とも、神の言葉が、私たちの内なる曇りを取り去って下さり、新たな力を受ける一つの手段としてこの「はこ舟」が用いられますようとねがっています。

先日は、「はこ舟」誌とともに「ともしび」をお送りくださってありがとうございました。「ともしび」は皆様の証しとして、掲載された内容は、はじめから終りまですべて、老齢になって何もできない私には心に残ることばかりでした。今日もまた、開いては読ませていただきました。(中部地方の方)

「今日のみ言葉」(*)は、今月のみ言葉として繰り返し読ませて頂き、励まされております。また野草と樹木たちの珍しい写真と解説はとても嬉しく慰められております。先生のお宅の近くの山には神様のお造りになって見事な草花やきのこなどがたくさんあり、御業の素晴らしさをいまさらのように思いながら眺めております。(関東地方の方)

*)「今日のみ言葉」とは、インタ-ネットメールで希望者に私が毎月二~三回程度送付しているもので、短い聖書の言葉とその説明、そして「野草と樹木たち」というタイトルで、わが家のある山や、各地の集会で聖書の学びをしていますが、そこへ行く途中で写した野草などの写真を入れてその解説を付けてあるものです。希望者は、私、吉村(孝)宛てに申込んでいただきますと、お送りします。

偶然のように、徳島聖書キリスト集会のHP*)に導かれ,はじめて「今日のみ言葉」を読み,命の水に心洗われる思いが致しました。メールですべての項目を定期配信していただけることに感謝します。(近畿地方在住で、ホームページを見て申し込まれた方です。)
*http://pistis.jp

「はこ舟」九月号の中で、特に「平和の原点」の論考に同感、共感をもって読ませていただきました。キリストにあってまず本当の平和を持つこと、それが社会的平和以前に求められている。このことを人類全体が、いや私自身が忘れている、そのことが根源的な「罪」なのではないかと感じさせられます。
人間の最終的な目標は、神への讃美にある、 アーメンであります。(関東地方の方)

全国集会
十月九日(土)~十日(日)に福岡市で、キリスト教(無教会)全国集会が開催されました。今回は、韓国、中国の参加者も交えて、聖書講話、発題などもなされ、夜の自由参加のプログラムとして教育基本法と平和憲法に関する有志のがなされたことが従来になかった内容でした。ただ、中心となるべき主日礼拝の聖書講話が二人によってなされましたが、配当された時間が長すぎた上に、その内の一つはとくに、学者の研究発表的な内容であって、苦しむ人、問題をもった人への福音とは言い難いものがあったのは残念でした。
学者のようにでなく、主イエスが語られたように神の権威と聖霊とによって、しかもだれにでもわかる言葉で、今苦しんでいる人、闇にあるひとたちを見つめ、福音そのものを語る人が起こされますようにと特に願われます。
しかし、全体としては、会場には神の霊、いのちの水というべきものが注がれ、それにうるおされた人たちも多かったと思われます。そしてこのような機会でなければ与えられない、中国や韓国からの参加者による発題や、久しぶりの方々との出会い、主にある交流が与えられて、今後も共に歩むための基礎が与えられました。また、多くの資料の作成など、それらの担当にあたった方々の主にある御愛労に感謝です。そうした働きが今後もよき実りを結ぶようにとねがっています。
また、インタ-ネットのホームページを通じて、「はこ舟」や「今日のみ言葉」の読まれるようになったある方が福岡に在住で、その人も初めてこの全国集会にも土曜日だけ参加。集会の終わった翌日に、私たちの集会から参加した有志の人たちがその方を訪問して、そこに信仰を求めている未知の方も参加していて、予想していなかった交流も与えられました。
私は福岡からの帰途、広島に立ち寄り、私どものキリスト集会とも関わりのある谷口 与世夫兄を訪問しました。谷口さんは足が弱くなって歩くのも不自由でしたが、霊的には主からの力を与えられ、支えられているのを実感して私にとっても恵みのひとときを与えられ、感謝でした。


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