リストボタン思いがけないところに 2004/11

山道を歩いていると、思いがけないところに草や木の芽が出ているのに気付く。自分で種を蒔いてもなかなか出てこないような野草や草花が、石垣の間、岩間などの条件の悪いところ、あるいは草の繁っているただなかから芽生えたり、またどこにも見られない珍しい木が芽生えていることもある。 また、めったに見ることができない野草が、一つだけ谷間に育っていたりするのに出会うこともある。
小鳥に食べられた種が落ち、また水の流れで移動し、風に種が飛ばされるなどして、種は運ばれ、その場所の土や水などの有無、土質などさまざまの条件が重なって種は芽生える。しばしばそれは意外なところで芽生えてくる。
かつて、徳島県の中央部に近い千メートルあまりの山頂付近にだけ群生しているカタクリに出会って予想してなかっただけに、とても意外で驚いたことがあった。カタクリは、植物図鑑のうちには本州と北海道というように自生地を書いてあるのもあり、四国ではかなり高い山々を歩いても見たことはなかった。それが、突然目の前に現れたあの時のことは忘れられない。
と同時に、どうしてこの山のこの付近だけにあるのだろう、いつから、どのようにしてここに育つに至ったのかと、興味深く感じたものである。
福音も同様で、思いがけないところに、また予想しないような人のところから芽を出して、育っていく。主イエスがこうした種と発芽のことをたとえに用いられたのが意味深く感じられる。
新約聖書においても、十二弟子たちのうちには人を宗教的に指導するなど思いもよらなかったはずの漁師たちが何人も選ばれた。
また人々が汚れているとして見下していた、異邦人の女性が驚くべき真実な信仰を持っていたり、キリストのことなどほとんど伝わっていないと思われるハンセン病の人や、周囲の人たちとの交際もごく狭かったと思われる全盲の人たち、あるいはユダヤ人を抑圧して支配しているローマ人の兵隊の幹部のような立場の人が、主イエスに「主よ」と言ってひれ伏してその信仰を表すなど、種が落ちる不思議さをそのまま表していると思える例が多く記されている。
キリストの最も重要な弟子パウロがまさにそうであった。キリスト教徒を迫害しているさなかに、天からの光を受けて突然変えられたのである。そしてパウロのうちに蒔かれた福音の種はいかなる困難に出会っても成長し続けていき、広く世界に伝わることになっていった。
現在においても、私どものキリスト集会に集うようになっている人たちはそれぞれ本人も思いがけないことから集うようになったと感じているであろうし、私自身もそうである。キリスト教などおよそ私の心のなかにはなかったのであったが、不思議ないきさつから福音の種が蒔かれて芽生えたのである。
またこれは個人だけでなく広く世界の国々を見ても同様なことが言えるだろう。どの地域にキリストの福音という種が落ちて芽生えるか、それは分からない。現在では中国とかアフリカなどで多くの種が芽生えている。それも数十年前ならだれも想像しなかったことである。ことに中国は神の存在そのものを否定する思想のもとで国が動かされているのであったから、そのうちわずかに残るキリスト教も消えてしまうのでないかと思われていたほどである。
しかし、現在では中国は世界的に見ても最も多くの人たちがキリスト教信仰へと導かれつつある状況だという。
聖霊は、風のように、どこから来てどこへいくのかだれも知らない。しかし一度聖霊が与えられるなら、その人は魂の内からいのちの水が流れだすようになる。聖霊という風を用いて、神は今後とも福音という真理の種を蒔き続けて下さり、人間の予想もしないような人や場所において芽を出し、力強く成長を続けることを信じることができる。
私たち個人の心の中にも、苦しみと悩みの暗い状況のただなかに、思いがけないときに、祈りや集会のとき、あるいは人からの言葉や出会いなどを通じて、天からの福音の種を蒔いて下さり、その重苦しい心を一掃して下さる。
人間の予想を超えていることだからこそ、私たちはこのことを知って平安を与えられる。私たちがどんなに道がふさがっていると感じて、希望がないと思われても、神がひとたびそこに福音の種、あるいは平安の種を蒔かれるならただちにそこから芽が出てくるからである。
私たちは、それぞれの人たちが自分自身の苦しみの中に、そして周囲の世界にある暗闇に、神がその全能の御手によって光の種を蒔き、多くの人たちが救われるようにと主の御手の働きを待ち望んでいる。そして私たち自身もひとたび真理の種を蒔かれた者は、少しでも主に用いられて福音の種まきを続けていきたいと願っている。

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