愛と視力 2004/11
神からの愛は視力を与える。それは見えないものを見る視力である。
こうした愛なき者はわずかしか見えない。深くは見ることができない。人間が自然に持っている愛といわれているものは、逆に霊的な視力を狭める。「愛は盲目である」などといわれるのはそれである。
聖書に言われているような愛がなければ、人は、自分の気に入るもの、力強いもの、有名なものあるいは美しい者だけ、しかもその表面だけをみようとする。
そして弱い者、傷ついた者、あるいは敵対する者たちの背後にある神の御手が見えない。
主イエスが言われた、敵を愛し、迫害する者のために祈れという言葉は、彼等がもし立ち返るときにはどんなに人間に変ることができるかを見つめて言われた言葉である。
主イエスが裏切ったペテロをも深い愛のまなざしで見つめていたのは、そこからどのように変わることができるかを見つめていたからでもあっただろう。
聖書にはそうした神の愛を注がれた人たちがどのように見つめ、生きたかが記されている。
主イエスより六百年ほども昔に現れたエレミヤもその一例である。彼は、大国の攻撃によって国が滅びようとする危機的状況にあって、その原因を深く見つめて神の言葉をもって警告した。真実に背き、神の言葉に従わずにまちがったもの、偶像に従いつつある人々に対して、エレミヤが深い悲しみを持って語ったのは、彼等の前途にある大いなる裁きを見つめていたからであった。
そしてさらに彼は、その裁きのはるか彼方にある救いをも見つめていた。
神の深い愛を与えられていたエレミヤはその双方を見つめることができた深い霊的を与えられていた。
私たちが神からの愛を受けているほど、身近な人間や日々に接する雲や青空、雨や風、あるいは草木などの本性を見る視力を与えられる。それは時間を超えて未来のことすら見える視力ともなることがある。使徒パウロの手紙などにはそのような遠大な前途のことが見えていたことがうかがえる記述がいろいろと見出される。
主イエスがこの世に来られたのは、「見えない者が見えるようになるためだ」(ヨハネ九・39)と言われている。それゆえ、私たちが絶えず幼な子のように主に向かって求めていくとき、いっそう霊的な視力を与えられると信じることができる。