休憩室 2004/11

冬の季節となり、夜空には最も親しまれているオリオン座が東から上ってきて、夜の九時ころには東に見えています。
この数か月、明け方には、金星と木星が上下に並んでとりわけ美しい輝きを見せています。六時ごろでも、夜明けが遅いので、これらの星がはっきりとみえています。この時刻には、最近では、火星が東から上ってきて、東から順に、火星、金星、スピカ(乙女座の一等星)、木星、レグルス(しし座の一等星)、土星とずっとほぼ一列にならんで輝いています。この列の最後になっている土星は、もう西よりの高い空にみえるようになっています。
そしてその列の左側(北東の空)には、北斗七星が立ち上がってきてその広く知られた姿を見せています。
今年は、金星を第一として木星、土星、そして火星といった強い輝きの惑星が次々と夜明け前の夜空を飾るように現れるので、夜明け前に起きることの多い人にとっては朝一番に心に天来の光を受けるような気がすることと思います。


返舟だより 2004/11

十一月十九日(金)から二十三日(火)まで、松山、熊本、福岡、大分、別府、広島(二箇所)、岡山などでの集会と訪問を与えられ、み言葉を語る機会が与えられました。松山では二宮さん宅での山越集会があり、神奈川県からの参加者もありました。み言葉を中心として様々の方々との交わりが与えられて、ともに歩んで行けることを実感し感謝でした。
また、熊本では、ハンセン病療養所である国立療養所・菊池 恵楓園(けいふうえん)からの参加者が二名ありました。そのうち、Nさんは全盲となり、また全身の感覚もなくなっており、両手も不自由となってものをつかむこともできない状況ですが、霊的には主によって支えられ、力を与えられておられるのが分かりました。ほかに全盲の方が四名と、遠く福岡からも二名の参加者があり、健常者の参加者とともにこのようにキリストをもとにして一つにならせて頂ける幸いを思いました。
 なお、このときに、松山市から熊本に渡る途中の、愛媛県佐多岬半島や、大分県竹田から阿蘇に至る山道では、晩秋の野菊(リュウノウギク、シマカンギク、ヤマシロギク)や、ヤマハッカなど、いろいろの植物が見られたので、その一部を採取して持っていきました。病気のために視覚とともに、手の感覚や嗅覚もなくなっているNさんは、その植物を舌で触れたり歯で噛んで植物の感触や味わいに触れておられました。神様の御手のわざをそのようにしてわずかにでも感じ取ろうとされる方もおられるので、目もみえて、手でも触れ、香りも味わうことのできる者は、それらの感覚を十分に生かして神の御手のわざであり、み言葉の一つの現れである自然に対していっそうの愛をもって接すべきことを思いました。
土曜日の夜は、福岡県宗像郡福間にお住まいの、大園兄宅にてお世話になり、よき交わりの機会となりました。日曜日は、福岡聖書研究会と天神聖書集会との合同の集会で、み言葉を語る機会が与えられました。その後、短い時間でしたが、一部の参加者とともに昼食をいただき、主にある交わりのひとときをも与えられて感謝でした。
午後は、大分市に移動し、盲人信徒修養会での聖書講話を受け持ちました。視覚障害者の方々以外に、別府聖書集会の方も数名加わっておられ、会の後に、その方々も含めて夕食のときを与えられ、ここでも交流がなされました。
その翌日は別府市の教友を訪問し、そのうちの一箇所では短時間でしたがともに祈りとみ言葉と讃美のときが与えられました。その後広島県の宮島におられる谷口 与世夫(よせお)兄を訪ね、そこで四人の小集会となりました。参加者の一人Mさんは、以前高松市在住で、その方のところで四年ほど私が毎月一度訪問して集会がなされていたのですが、二年ほどまえに広島に移られた方でした。
 谷口兄は奥様を天に送られても霊的にはともにおられるご様子で、主からの御力を頂いて支えられておられるのを感じました。谷口兄は、時々に発行されている「落ち穂」という印刷物を、最近合本にされて多くの人たちに喜ばれているようです。
 谷口宅での小集会のあと、そこから一四〇キロほど離れた、広島県比婆郡東城町の沖野利之兄宅に移り、夜の集会がなされました。今年は初めての参加者も三名ほどあり、また沖野兄のお孫さんである、小学校四年の子どもも参加してともに学びと讃美、感話がなされました。初めての参加者のうちの一人は、はじめのみんなの一人一人の祈りのとき、このように祈るのは何十年ぶりと言われていました。沖野兄の祈りを主が聞かれて、主がそのように引き寄せられたことを思って感謝でした。その日は沖野宅にて宿泊、翌朝は、澄み切った秋の冷気が周囲を覆っていて気温は二度しかなく、徳島では真冬のような厳しい寒さでした。
 その後は岡山市の香西兄宅を訪問して短い時間でしたが、み言葉をともに学び、祈りのときが与えられました。
 なお、比婆郡東城町の沖野宅から岡山市に行くとき、国道でない山の中を通る道に入ったため、急な狭い山道を深い谷に降りていくことになって、時間がかかりましたが、思いがけず中国山地の奥深くにある晩秋の美しい紅葉や黄葉の自然林の中を通ることができました。その多様な色彩と樹木の立ち並ぶ沈黙の讃美は心に迫るものであり、山々から無数の讃美の声がそこから発せられてくるように感じました。
 人間の意見や議論もそれなりに私たちの必要とするものですが、しかしそれらは救いをもたらしたり、絶望的な悲しみや苦しみ、あるいは孤独にある人の魂を立ち上がらせることはできないことです。それはただ、神のみ、神の言葉のみがなしうることであり、各地で語らせて頂いたいのちのみ言葉が参加者一人一人の心のうちにとどまり、さらにそれが他者にも伝わっていきますようにと祈り願うものです。


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