語りかける神 2005/1
人間の声、意見しかないようにみえるこの世にあって、神は生きて働いておられるゆえに、私たちが予想もできないような状況において、また思いがけない場所や時を選び、人を選んで、神は呼びかける。
去年、カナダに英語の学びに行った県外のある青年が、そこにおいて、キリスト信仰の重要さを深く感じる経験を与えられたということで、予定より早めに帰国して、二週間ほどということで私たちの徳島聖書キリスト集会の各地での集会(家庭での集会)に参加している。
こうしたことは本人もその家族もまわりの人も予想しなかったことであろう。
思いがけないことは、この世にはいくらでもある。しかしそれは私たちの予想を超えたよい方向へというのでなく、しばしば望んでもいないこと、予想もしないよくないことである場合も多いし、よいことと思えても、その後別の事情によってよくないことに変わってしまうことも多い。例えば、よい相手だと思って結婚してもひどい人間だったとか、子供が生れて喜んでいても、その子供に生涯苦しめられるとかいったことも多いと考えられる。
しかし、今も昔と変ることなく、神は人に対して必要なときに思いがけない呼びかけをされ、その呼びかけを受けた者は、いかに周囲の者がその経験を無視または否定しようとも動かされない精神の基盤を与えられる。
そしてその呼びかけに従っていくならば、あとで悪い結果になるということなく、必ずよい方向へと向かわしめるものなのである。
キリスト教の最大の使徒パウロは、キリスト教徒を迫害しているそのさなかにキリストからの呼びかけを受けて、キリストの使徒となった。ほかのヨハネとかペテロ、マタイなども、漁師や徴税人として仕事をしているそのときに、突然思いがけない呼びかけを受けたのであった。そしてこれらのことは、単に昔そんなことがあった、ということでなく、現在も生じていることなのであって、その預言ともなっているのである。
この世には思いがけない苦しみや悲しみがよく起こるし、新聞などでもよく報道されている。しかし、愛の神がなされる思いがけない呼びかけや喜び、あるいは平安などが現在も変ることなく、神の御計画にしたがって人々に与えられているということは二〇〇〇年の間、変ることがない。
私たちが開かれた耳と目を持っているなら、周囲のさまざまの出来事、それは個人的な出来事、周囲に起きること、あるいは風にそよぐ木々の音や雲の動きなど自然の風物なども、そこに神からの愛の呼びかけがあり、神の国へと招き、導こうとしておられるのだと感じられてくる。
聖書で言われている神は、愛の神であり、愛はつねに語りかけて止むことがない。