主にあって喜べ 2005/1
地上に生きるかぎり、私たちの生活にはさまざまの心配や苦しみ、また悩みは終わることがない。ある大きな問題が解決されたらどんなにいいだろうと思っていても、それが実際に解決されてもまた新たな問題が生じてくるものである。
それは個人的には病気や、家族の問題、また職業や経済的な問題、人間との関わり、あるいは将来の問題など、また一度目を外部に向けても、災害や飢え、貧困、あるいは戦争など世界の国々においてもつねに見られる。
どのような人でも、こうした何かの悩みをかかえている。それらがないという人がいるとしても、それはただ目先のことを考えているからにすぎないとか、何かが生じるその直前の状態である場合が多い。
そしてこれらの問題を自分の力で解決しようとしても、とうていできないというのを感じるからこそ、それが重い問題となり、心に暗い雲となってくる。
また、次々と生じる世界や日本の災害などに直面して、神などいないのではないか、と考える人もいる。
しかし、このような状況はいつの時代にもあった。神はその暗闇のただなかから、光を投げかけておられるなである。私たちは、ただ神を見上げることによってその光を受けることができ、この闇のただ中にあっても不思議な力と前方に輝く光を見ることができるようになる。
光を与えようとされるのは、神の愛のご意志なのである。
この光を受けるとき、私たちは悲しみのなかにあっても、ほかでは感じなかったある主の平安を与えられる。それが新約聖書で言われている、「主を喜ぶ」ということである。
苦しい出来事そのものを喜ぶことなど到底できないが、そこからの逃れの道、救いの道として神を喜ぶことができるという、まったく意外な道を神は備えられたのであった。
キリスト教の生命はそこにある。罪という暗闇や死に至る道程に呑み込まれそうになっても、そこから立ち止まって主を仰ぎ見るだけで、あらたなところに移されるのである。
主イエスは、「悲しむ者は幸いである」と言われた。なぜそんなことがあり得るのか、それはその悲しみの中から主によって喜ぶことができるからである。
涙のなかから仰ぐときにこそ、主の御顔を最もはっきりと見ることができる。
楽しいこと、遊びや飲食などに心が一杯になっているときには、そうした深い喜び、主がともにいて下さるというしみ通るような実感というのは決して感じられないのである。
この世は深い謎に包まれている。何の罪もないような人、貧しさにあえぐ人がさらに困難な目に遭って苦しまねばならないこともある。神がいるのになぜ、悪がはびこり、正義が踏みにじられているのかと、強い疑問の声をあげる人もいる。
しかし、主が私たちの魂の近くにきて下さり、主にある平安と喜びを感じたとき、初めて、主はたしかにこの混乱の世にも変ることなく生きて働いておられることを実感する。そしていっそう神などいないという世の人々の声は過ぎ去った風のように力なきものとして感じられる。
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(ピリピ 四・4)(*)
喜ぶというようなことは、命令されてできるのか、と不思議に思う人も多いのではないかと思う。およそ、喜べ、というような命令は考えられないことである。しかし、キリストを信じることの本質的な意味はいつどんな時にも喜ぶことができるような賜物を与えられるということである。それは高い目標であり、究極的な状況だと言えよう。
こうした主にある喜びは、別の箇所では、聖霊による喜びとも言われている。「聖霊の実は愛、喜び…」と言われている通りである。
この箇所についてある注解者はつぎのように記している。
あらゆるところで、またどんな状況のもとでも喜ぶ!
ここに、この手紙の基調がふたたび響いている。(一・4、一・18、二・17~18、三・1などを参照)そしてそれはこの手紙を読む信徒たちに、聖なる命令(divine imperative)として伝わってくる。
「喜ぶこと、自らを励ますこと、力付けること、元気を出すことなどは― キリスト者の理解するによれば―ほかの命令と同様な命令なのである。(カール・バルト)」
周囲の状況が喜びがあるかどうかを決めるのでない。主にあって、主との生きた交わりによって、信徒はいかなる状況のもとにあっても喜ばねばならないし、また喜ぶことができるのである。それゆえに、ここに使徒は繰り返し命じている。「喜べ!」と。(THE NEW INTERNATIONAL COMMENTARY ON THE NEW TESTANENT/ PHILIPPIANS 140P)
「福音」とは、「よき知らせ」というのがもとの意味である。よき知らせとは、喜びの知らせであるからこそよき知らせなのである。イエスが誕生したときにも、天使たちが讃美した内容はまず、第一に喜びであった。
天使は言った。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。…」(ルカ福音書二・10~11)
また、主イエスも、迫害され苦しめられるということは、耐えがたいことであるのに、つぎのように命じられた。
…わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜べ。大いに喜べ。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ五・11~12)
しかし、そのような命令は、できないことを命じているのではない。敵を愛し、敵のために祈れということも、同様で、自然のままの人間はできないが、主イエスと深く結びつくことで可能となっていく。
同様に、この命令も、主と深く結びつくことによってのみなしうることであり、こうした命令は、主と深く結びついてあれ、ということを言い換えたものとも言える。
遠くの高い山々を見つめるように、私たちはこのような、困難のただなかにすら与えられる主にある喜びを思う。現状ではそれがとても経験できないという者であっても、見つめて求めていけばそうした天の国の喜びは必ず流れてくる。
(*)このパウロの言葉は、印象的な言葉であり、参考のために他の訳をあげる。
・汝ら、常に主にありて喜べ、我また言ふ、なんじら喜べ。(文語訳)
・Rejoice in the Lord always. I will say it again: Rejoice! (NIV)
・Freut euch im Herrn zu jeder Zeit! Noch einmal sage ich: Freut euch!(Einheits-ersetzung)
(このように、感嘆符をつけて、パウロの強い気持を表現しようとしている訳は英、独、仏、スペイン語など各種の外国語訳に見られる。)