リストボタン災害の意味  2005/2

去年から今年にかけてだれもが驚くような災害が次々と生じた。私の住む徳島でも、台風が前例のないほどに襲来し、かつそのたびに激しい雨、そのため何十年も耳にしたことがないような大水が出て、かつてない状況が現出した。また、川が氾濫して国道のバスまで屋根近くまでつかったり、新潟では今もなお多数の人たちが厳しい寒さと雪のなかを、仮設住宅など不便な生活を強いられている。そのうえに、インド洋での巨大地震と津波がおそったために三十万人以上の人たちのいのちが失われ、まだまだ病気などのために亡くなる人も予想される。
このような災害をどのように受け止めるべきであろうか。
まず私たちが考えておくべきことは、スマトラ沖の巨大地震、大津波は、昼間の行楽地であったためにその生々しい津波などがビデオで撮影されていて、かつて見たことのないような津波の恐ろしさがまざまざと人々の前に浮かび上がったことがある。
それから行楽地であったために、ヨーロッパやアメリカなどの国々からも多くの人たちが犠牲となったことで一層関心が高められた。また、インド洋沿岸地域の広大な地域となり、多くの国々が関連しているために、政治的にも関心が高く、世界の国々から多数の募金が集められた。
しかし、多数の人たち、貧しい人たちが苦しみ、死んでいくという事態は、あのような地震や津波があったから、今回だけそうであったのではない。
ずっと以前から日常的に、極めて多数の人たちが食物すら欠いていることは、例えば国連の機関の出している記事を調べるならすぐに分かることである。
現在、世界で八億人以上が慢性的な飢えに苦しんでおり、毎日餓死している人数二万五千人にも達しているという。(*
*)(「日本国際飢餓対策機構」や「世界食糧計画 WFPによる。後者は飢餓撲滅を目的として設立された国連最大の食糧援助機関。)
二万人以上もの人が日々飢えで死んでいくということは、一か月で六〇万人以上もの人たちが亡くなっていくということである。この数字は、今回のスマトラ沖の大津波の犠牲者数の二倍以上であり、いかに多くの人たちが貧困で亡くなっているかがわかる。
 このような悲劇的事態があっても、そのために日本やアメリカ、ヨーロッパの国々やマスコミはどれほど報道しているだろうか。そんなことを知らない人がむしろずっと多いはずである。
 このような食べ物がない、という人たちはそれだけで病気になりやすく、やせ細って医者にもかかれずに、生きていくのすらままならないのであるから観光地などへの旅行どころではない。
 このような世界的な飢餓の状況は、もうずっと以前から一部の人たちには知られていたことであるが、新聞やテレビなどではわずかしか報道されないし、政府も力を入れないから一部の人にしか知られていない。
 また、南アフリカはアフリカの中でも、大国の一つであるがそこはエイズの人たちが多数苦しんでおり、多くが死んでいくところでもある。毎日六百~七百人もの人たちがエイズで死んでいるのであって、年間では二十二万人~二十六万人ほども死んでいることになる。
 これは南部アフリカではますます深刻な問題となっており、このままいけば滅んでしまう国もあるのでないかとすら言われているほどである。アフリカ南部の国(ボツワナ)には、エイズ感染者が二五%にも及び、妊娠している女性のうち四三%もの人が、感染していたという。
 また、アフリカの二〇年ほども続いてきたスーダン内戦によって、およそ二〇〇万人にも及ぶ人たちが死んでいった。
 こうしたスーダンの悲劇などは、ごく一部しか知られていない。マスコミでもほとんど報道しないのはなぜか。それはこのような資源も大してないために国際的に重要視されていないからである。
 日本の首相が、平和憲法からしても、イラク派兵ということは間違ったことであるのに、それを人道支援のために行くのだという言葉を繰り返して平和憲法の精神を破ってきた。
 もし人道などというのなら、すでに述べたように毎日数えきれないような人々が飢えで死んでおり、エイズで子供や青年のころに死んでいくという悲劇をなぜ、助けようと言わないのか。
 私たちもテレビや新聞で報道されることだけが、真実だと思ってはいけないのであって、そうした報道のかげに隠れた部分が必ずある。自分たちの国の利益に関係がなかったら、いかに死者が多くとも放置しておく。そしてマスコミも同様である。
 地震や津波で、毎日繰り返し報道されている何分の一かでも、そうした貧困、飢えやエイズなどの悲劇を強調して報道すること、政府もそのようなことにこそ、海外援助協力隊のようなものに力を入れて国際的に実行していくことが、どれほどか世界の平和に貢献するか分からない。
 私たちもマスコミの報道からしか判断できないのでなく、いつの時代にも、報道されている悲劇はごく一部なのだということを念頭において置かねばならないと思う。
 こうした状況は、今に始まったことでない。
 九〇年ほど昔の、第一次世界大戦では、ドイツなどの同盟諸国は死者338万人、英仏などの連合諸国は515万人の死者を出したし、そのときにちょうど流行したインフルエンザは世界で二五〇〇万人もの死者を出している。
 第二次世界大戦では、第一次大戦よりはるかに多い数千万の死者を出している。
 また、古くは中世には、ペストの大流行があり、わずか五~六年の間に、ヨーロッパ全人口の二五%ほど、二五〇〇万人を超える人たちが命を落とした。
 このような特別な事態でなくとも、またそのような記録になっていないアフリカやアジアなど世界の各地でどんな多くの死者や病人、自然災害が生じたか分からないことがずっと多いのである。
 こうした現在の世界各地、そして歴史的に見てみるとき、今回のようなことは特別でなく、たえずこうした大規模な悲劇は生じてきたし、現在は飢え、貧困とエイズということで毎日驚くべき人たちが死んでいるのである。
 今回のインド洋での巨大地震関係だけが注目を特別に浴びているが、それは政治やマスコミの扱い方に因っているところが多い。
 それゆえ、今回のような事態が生じたから神がいないとか言う人もいるが、実はそういう疑問や議論ははるか昔から言い古されてきたことであり、それをキリスト教は克服してきたゆえに、今日まで続いてきたのである。
 キリストはどんな目に会ったか、完全な愛と真実によって生き抜いた人が、あのようなひどい仕打ちを受けて、釘で張り付けられて殺されたということ、それだけ見ても普通の考えからでは、どこに神がいるのか、ということになる。
 そのような残酷な光景をまのあたりにし、さらに「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのか!」と叫んで息を引き取ったイエスを見れば、どこにも神はいない、神の助けなどないと思われるのに、そうした一部始終を見ていたローマの兵隊の百人隊長が、「本当にこの人は、神の子だった」と深く心を動かされイエスを信じるようになったのである。
 キリスト信仰というのは、いかに目にみえる状況がひどいものであっても、そのただなかに神は啓示を与えられ、神の愛と正義を信じる人を起こされるということなのである。
 逆にいかに奇跡を見ても、信じない人は信じないのである。だからこそ、イエスを迫害した人たちは、そうした奇跡を見て、イエスの驚くべきわざを目の当たりにしても信じるどころか、かえってイエスを憎み、迫害するようになったのである。
 神を信じることは、いかなる外的状況の中でも生じることである。それは神がそのように導き、啓示を与えるからである。それはキリストの最大の弟子であったパウロの例を見てもわかる。彼は、キリスト教徒を迫害して殺すことにも加担し、その迫害のさなかで、キリストの光を受けて変えられたのである。
 パウロはまわりの状況によって信じたのでなく、人の説得にも関係はなかった。どこから見ても信じるような理由はなかったが、神はそこに啓示の光を与えたのである。神が光を与え、人はそれを受けたら信じるようになるのであって、そこには周囲の状況とも関わりなく神は呼び出されるというのをはっきりと示している。
 この世は昔から悲しみと苦しみが至る所で存在してきた。それがあるから神がいないというのでは全く人間は神を信じることはできなかったし、神のことが分からなかっただろう。しかし、逆にそのような悲しみや苦しみがあるそのただ中において、神は信じる人を生み出して来られたのである。
 また、人間にとって最大の不幸は死ぬことではない。
 死が最大の不幸だと考えるのは、死んだら終り、死のあとにはなにもない、と考えるからである。しかし、もし本当にそうなら、私たちは事故に遭っても遭わなくても必ず死ぬ。死が最大の悪なら、人間はいかなる人でも最大の悪に向かって進んでいるということになる。それでは、生きることにどんな意味があるだろうか。どんなに善く生きても、すべて最大の悪に向かっているのが事実ならば、善く生きるということ自体が意味を失ってしまうのである。
 このようなことはキリスト教に限らず、すでにギリシャの哲学者も指摘していることである。正義のために迫害され、自ら死刑になることを受け入れたソクラテスは、まわりの人たちに向かって、自らに降りかかった死刑ということは決して災いではないと、つぎのように述べている。

私の身に降りかかったことは、きっと善いことであると思われる。それで私たちのなかで、死を災いであると信じる者は皆たしかに間違っている。
このことについて私は有力な証拠を持っている。私が出会おうとしているもの(死)が幸いなものでなかったら、いつものあの警告のしるし(*)が私を差し止めないはずは決してないのである。(「ソクラテスの弁明」四〇・C

*)警告のしるしとは、ソクラテスがすでに子供のときからしばしばあったもので、なにかよくないことをしようとしたら、たとえそれが小さなことがらであっても、必ずそれを差し止める声がするというのであった。ソクラテスがギリシャの悪意ある人々によって死刑が宣告されたとき、それを甘んじて受けようと決断したときに、その声がなにも差し止めなかった。それゆえに、そのことは善いことなのだとソクラテスは確信を持つようになったのであった。

このこと以外に、ソクラテスは、死後に生涯を正しく送った人たちと交わることができるならそれは言葉に言い表せない幸いであると言う。また、
「善き人には生きているときにも、死後にも、悪しきことはひとつもない。」と確信していた。(同41D

 キリスト信仰にあっては、死は最悪のものでないことは、当然のことであるが聖書にははっきりと書かれている。だからこそ、キリストもあのように若くして命を終えたが、それによってキリスト教は全世界にひろがることになった。パウロも、死とは、主イエスと永遠にともにあることで、それを本来なによりも望んでいると述べている。
 悲劇はいつの時代にもある。そこから神は招いておられる。どんな深い悲しみも、もしそこから神に立ち帰り、主イエスによる罪の赦しを経験し、生きて働く神の御手によって導かれるようになったなら、いのちの水を与えられて新しく生まれ変るなら、そこにこそ永遠の幸いがある。
主イエスが、このように祈れと教えられた主の祈り、そこにもこのようなこの世の厳しい現実に向けた祈りが含まれている。
御国がきますように。この祈りは、神の御支配が来ますようにという祈りであり、正義と愛に満ちた神がこの世を支配し、導いて下さいますようにという祈りなのである。そしてそれは神の御手のうちにあるあらゆる良きもの、愛や真実、正義、清さ等々をも意味する。
私たちが身近な人たち、あるいは日本や世界のさまざまの苦しみに満ちた状況を知らされるにあたっても、そのところに御国がきますように、神の御支配がきますように、と祈ることは、神の愛の御手が悲しみを負った人たちのところに差しのべられますようにという祈りにほかならない。
また、私たちの日毎の食物を今日もお与え下さい、という祈りは、自分の食物を下さいという祈りでなく、「私たち」の食物であり、そこには、豊かな日本であっても、食事もできないような方々、それは病気が重度になった場合には、食物の有り余るただなかにて食物を取り入れることができないのである。そのような人たちにも食物を与えて下さいという祈りも含むことになる。
また、世界のおびただしい貧困と飢えに苦しむ人たちに食物が与えられますようにとの祈りともなり、この祈りは著しく広い範囲を含んでいるのである。
さらにまた、主イエスは「人はパンだけで生きるのでない。神の口から出る言葉によって生きる」と言われたし、ご自分のことを、「私は命のパンである。」と言われ、「このパンを食べるならば、その人は、永遠に生きる。」(ヨハネ福音書六・4850より)と言われた。
主の祈りに含まれる「日毎のパンを下さい」という祈りは、通常は口から食べる食物のことを意味しているとされることが多いが、こうした主イエスの言葉を考えるとき、私たちはこの主の祈りが、霊のパン、命のパンであるキリストを私たちすべてに与えて下さいという祈りへと導かれる。
ルカ福音書では、「ああ幸いだ、貧しい者は!」と言われている。なぜ、貧困が幸いなのか、それはそのような中から、神に真剣に求めるときに初めて、命のパンである霊のキリストを魂に受け入れて、そのキリストによって力と慰め、そして永遠の命を与えられることにつながるからである。
「ああ、幸いだ、悲しむ者たちは。彼等は神によって慰められるから」という主イエスの言葉はいつの時代にも生じるそうした数知れない悲しみを背負わされている人への深いメッセージが込められている。
「重荷を負う者は私のもとに来なさい。私がその重荷を軽くしよう」という言葉も同様である。
私たちの世界に満ちている苦しみや悲しみといった状況はつねに存在してきたのであり、そのような闇であるからこそ、神はそこに光を投じて下さったのである。
さまざまの災害や事件という形で現れているように、闇は確かにある、至る所にある。しかし、光も確かに存在する。やはり太陽のように至る所に注がれている。その光を実際に受けたものは、聖書に言われているように、「闇は光に打ち勝つことができなかった」という事実をも体験する。この二つは明確な事実である。私たちは闇の事実の前におののいて打ち倒されてしまってはいけないのであって、もう一つの事実である、光がそこに射しているという事実に固くすがっていくことこそ、求められている。
私たちは、災害などで苦しみにある人たちのことを覚えて祈り、主の御手が触れてくださいますようにと願い続けると共に、身近な人たちで苦しみに遭っている人たちを覚え、できることをなすことの重要性を思う。
そしてどのような苦しみや闇にあっても、光が届かないところがないということを、つねに証ししていきたい。それによって悪に苦しむ人たちが、永続的な光を見出すことを願い続けたい。

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