リストボタン讃美の心  2005/2

キリスト教信仰においては、讃美というのは不可欠なものとなっている。それは聖書においては、その最初の書である創世記にはあらわれない。ノアが長い洪水の期間における箱船の生活からようやく解放されたときでも、神への感謝をあらわすために祭壇を築いたとあっても、讃美の歌を歌ったとは記されていない。
また、その後のアブラハムやヤコブ、ヨセフといった詳しい記述がなされている重要な人物には苦難も降りかかったが、大いなる喜びもあった。しかしそのときでも、祈りや感謝はあっても、讃美を歌ったということはなかった。
聖書で初めて、神への讃美を歌ったと記されているのは、出エジプト記である。モーセが民を導いてエジプトから脱出したあと、敵がエジプトの戦車すべてを動員して追跡し、間近に迫り、前方は海であり、もうそのままでは全滅するかと思われたとき、大いなる神の御手によって道が開かれ、人々は救われたという記述がある。
その直後に、記されているのが聖書における初めての讃美となっている。

モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。
「主に向かってわたしは歌おう。
主は大いなる威光を現し
馬と乗り手を海に投げ込まれた。
主はわたしの力、わたしの歌
主はわたしの救いとなってくださった。
この方こそわたしの神。
わたしは彼をたたえる。
わたしの父の神、
わたしは彼をあがめる。」(出エジプト記十五・12

滅びが確定的であったような状況から、神の力によって救われたという疑いようのない事実、そのことへの抑えることのできない感動から初めての神への讃美の歌があふれ出たのであった。
そしてこの讃美に続いて、ミリアム(*)もまた、つぎのような讃美を歌った。

女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。
ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。
「主に向かって歌え。
主は大いなる威光を現し
馬と乗り手を海に投げ込まれた。」(出エジプト記十五・2021

*)このミリアムはヘブル語でより正確にはミルヤームといい、アラム語では、マルヤーム。ギリシャ語では、マリア(maria)となり、イエスの母の名前がこの名であり、また新約聖書には七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリアという女性もキリストに救われた重要な人物としてあらわれる。ここから、英語のメアリー(Mary)、フランス語のマリー(Marie)となって広く人名にも使われるようになった。

このように、聖書においては讃美はなんとなくメロディーにひたったり、現代の若者の音楽によく見られるように激しいリズムや音にひたるというのでなく、救いの体験ということ、神のめざましい力と愛への感動が元になっている。
こうした讃美の重要性のゆえに詩編という形になって旧約聖書に多くのページをさいて納められた。
その詩編の成立にはとくにダビデという一人の人間の果たした役割が大きかったと思われる。彼は、すでに子供のときから勇敢であって、だれも向かうことのできない敵の巨人に対して素手同然で向かっていって勝利したり、軍の指揮においてもすぐれた手腕を発揮した。また若いときから楽器(竪琴)の演奏もできるという音楽的な能力にも恵まれていたうえ、詩という形で深い心の経験を表すことができる人物であった。
詩編とは人間の苦しみや悩みを神に訴え、その苦しみから神の測り知れない力と、神の愛や真実によって、救われたということを述べたものである。それはおのずから曲が付けられ、その感動を多くの人たちが歌うということによって共有することになった。
この詩編の讃美がのちのキリスト教の讃美にも流れ込み、それ以後今日まで無数の讃美がなされ、また生み出されていった。
このようにキリスト教の讃美というのは、まず言葉、詩(歌詞)があったのであり、その歌詞の意味をよく知った上で讃美するということが不可欠になる。
もちろんメロディーやハーモニーだけでも私たちの心に安らぎとか喜びを与えるものであるが、それだけではキリスト教信仰の上からは核心を欠いていることになる。
このことに関連して、祈りにおいても似たことがある。
それは異言といわれている祈りである。何を言っているのか分からない霊的に高揚したときに舌が動くというのが異言といわれており、そのことは、新約聖書ではギリシャのコリントという都市のキリスト者に見られた。
意味不明の異言で祈ることが霊的な賜物としてそれをあたかも特別に大事なことのように言い出す人たちがあらわれたため、パウロは、次のように言ってそのような傾向に警告した。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。(コリント十三・1

だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つか。(同十四・6

このように、意味不明の祈りは、自分自身を霊的に高揚させることにはなっても、他者には何にも役に立たないと言って、意味のわかる言葉で、神からの真理を語ることを強くすすめている。それが次の言葉である。ここで「預言」とは、未来のことを言い当てることでなく、その字のように、神の言葉を預かること、神の言葉を受けて、それを誰でもがわかるように語ることを指している。

皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。(同十四・31

このようなパウロの精神は当然、讃美についても同様であったからつぎのように言っている。讃美とは祈りの延長であり、かたちを変えた祈りに他ならないのである。

では、どうしたらよいか。霊で祈り、理性でも祈ることにしよう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしよう。(同十四・15

こうした記述から、私たちの讃美も単に音楽的に安らぐとか波立った心を静め、気分転換といったことにとどまらず、神への祈りであり、それが他者にも同じように祈りの心を呼び覚まし、ともに祈り合うことにつながっていくことが求められている。そしてそこに、「二人三人私の名によって集まるところに、私はいる。」との主イエスの言葉にあるように、その讃美と祈りのなかに、主イエスはとどまって下さり、聖霊を注いで下さることが期待できる。

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