第32回 キリスト教四国集会(無教会)について 2005/5
祈りと讃美というテーマについて
五月十四日(土)~十五日(日)の二日間、徳島市において、第三十二回の四国集会が行われました。今回は、「祈りと讃美」というテーマが与えられ、それに従って聖書講話やグループ別の集会も行われました。
それは聖書にあるとおり、どのようなときにもキリスト者は祈り、感謝し、主にあって喜び、主を讃美する、というのが目標であるからです。
無教会の百年にわたる歴史のなかで、各地で数々の聖書講習会とか講演会、全国集会などが行われてきましたが、「祈りと讃美」という主題でそのような特別集会が行われたということは、私はいろいろな印刷物においてもかつて見たことがありません。
しかし、聖書には祈りと讃美は、きわめて重要であり、聖書全体にみられるものです。祈りはキリスト者の呼吸であり、讃美は聖書の神を信じる者にとって、自ずから湧き出る泉のようなものと言えます。祈りも讃美もない、キリスト者というのは考えられないことです。
しかも、祈りと讃美は神を信じ、主イエスを救い主として信じることができるようになった者はだれでもできるように導かれます。
祈りと讃美を通して私たちはキリストと交わり、神の国へとさらに導かれていくのです。全国集会などでは、一部の知的な訓練を受けてきた人だけを念頭において、無学な庶民などまるで、講話者の頭にないと思われるような、長時間の研究的な聖書講義なるものがしばしば行われてきました。
祈りと讃美は初めての人も、まだ信仰のない人も、何十年の信仰の経験がある人も、また所属している教派が違ってもだれでも、どこでも一致して祈り、讃美することができるのです。
そして祈りと讃美によってかつて、使徒言行録にあるように、牢獄に鎖でつながれていても、なおその鎖を断ち切る力を与えてくれるのです。 ここでいう牢獄や鎖を象徴的に受け止めるなら、私たちはこの世の闇の力に閉じ込められ、目に見えない鎖のようなもので縛られている状況です。
しかし、祈りと讃美はそうした鎖を断ち切る力があるのです。
今回の集会は内外の闇の力が押し迫るとき、私たちにとって最も必要な神の力を受けるため、それを伝える力を与えられるために、少しでも祈りと讃美の重要性を指し示し、参加者に上よりの力が与えられ、悪の力に打ち勝つことができるようにとの願いが込められています。
今回は、このような目的のために、各プログラムの前後には従来よりやや長めの黙祷の時間をとり、二日目の午後には、グループ別集会のときにも後半で祈りの時間をとくに設けました。
また、讃美を多様な讃美集から採用し、特別讃美として、手話讃美、コーラス、独唱、讃美を体で表現する讃美の踊り、10人ほどが次々に讃美する特殊なかたちの讃美など、讃美歌だけでなく、讃美歌21、新聖歌、リビングプレイズなど多様な讃美集を用い、全体では30曲ほど用いたのです。
聖霊の風
今回の四国集会で、これまでの四国集会とは違って、とくに多くの方々から言われたのは、四国集会全体に、「聖霊が感じられた」ということでした。
私自身も確かに、この世の会合とはまったく異なるある目には見えない何かにひたされているという感じを受けたし、聖霊の風が柔らかく吹いていると言える状態でした。
それは、二日間のプログラムにおいて、時間を大きく越えるものは皆無であったし、どれもほぼ時間通りに終えられ、ゆったりとした主にある交わりのときが与えられ、会場のあちこちで、主の名によって集まっての交わりがなされていました。「二人三人、私の名によって集まるところには、私はいる」という主イエスの約束の言葉の通り、あちこちに主がおられ、聖なる霊が包んで下さっていたように思われたのです。
み使いらも、神の民も 無限の愛をほめたたえて
天に響かせ地に満たせよ 聖霊来たれり (新聖歌四一六より)
さまざまな障害者の参加
そのようにある種のあたたかい何かを感じた方が多かったようですが、それは神の一方的な恵みであり、絶えず満たして下さろうとする神のわざに他ならないのですが、一つには多くのハンディ(障害)をもった方の故でもあったと思います。
視覚障害者の方々は、全盲五名、弱視四名の九名が参加され、聴覚障害者の方は三名、肢体の障害を持たれた車椅子または歩行器での方は二名、知的障害者は二名で、十六名の障害者の参加がありました。さらに、かつて心の病となって入院されたことがあるが、現在は退院されている方も何人かおられました。
重いからだの障害を持った方の参加は、集会全体の雰囲気を真剣なものとし、重みのあるものにしてくれます。軽薄に流れようとする傾向をおのずと引き締めることにつながるのです。元気な者たちだけの集会はともすれば一種の遊びや娯楽的な方向に進み、あるいは学問的な知的に優れた人たちだけの集会は、一般のごく普通の庶民が加われない何かがかもしだされることも多いのです。
遠隔地からの参加
今回の四国集会は、今までになく多方面の方々が参加されました。外国人としては、韓国から、朴さんと、徳島に住んで三年ほどになる若い女性(ご両親がイギリスと、イタリアの人)、それから北海道から三名、九州二名、沖縄から二名、関東地区からも七名、中国地方からは六名ほど、近畿地方からも十数名の参加がありました。こうした四国外の遠いところからも参加されたのはどうしてなのかといえばそれはキリストが招かれた、引き寄せたのだと言うほかにはありません。
私どもとは全く会ったこともない、沖縄の若い方が、私どもの集会のホームページを見て参加を決め、だれも知った人もいないにもかかわらず、参加されました。
もう一人、やはり沖縄からはるばるこの徳島での四国集会に参加された方がいます。
また、北海道からは、全盲でしかも透析を徳島に来てからも受けなければならないような方もご夫妻で参加されましたが、この場合は、昨年の夏に、私が北海道の瀬棚郡に聖書講話のために出向いたときに、同行した全盲や弱視の方々との出会いからでした。
東京からは、やはり私たちのだれも会ったことのない人で、私たちの集会のテープを聞いて礼拝をまもっている人が初めて参加されました。
このように、遠いところであるにもかかわらず、不思議な力で招き寄せられた方々が参加されましたが、そのような遠隔地からの参加者は時間もエネルギーや費用も多くかかるために真剣な心で参加されたと思います。その主にある熱心がまた四国集会全体によき影響を与えていたと感じます。
幼な子たちの参加
今回の集会では、小学校四年以下のこどもが(生後九ヶ月の乳児を含めて)、五名ほど参加しました。そのうち三名は二日間参加しましたが、そうした幼な子たちの参加はいわば天使が加わったようなところがありました。
新約聖書のなかに、人々が祝福の祈りをしてもらおうと、子供たちをイエスのもとに連れてきたことが書いてあります。しかし、弟子たちはわずらわしいこととみなして、こどもの親たちを叱ったのです。
しかし、主イエスは「子供たちを来させなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」といわれて、子供たちを祝福されたのです。(マタイ福音書十九・13~14)
大人も子供も、八〇歳を超えた高齢者、若人たちも、また重度の障害者も軽度の障害者も、健康な者も、さらに、日本人だけでなく外国の方も含めて、老若男女さまざまの人たちがキリストの名のゆえに一つに集まり、大きな家族のように交わることができるのは、まさにそれは神の恵みであり、神のわざであると感じたことです。(
今回は、何人かの子供も含めて、全体では152名の参加者がありました。)