聖書における祈りと讃美 2005/5
一般的に言えば、宗教というイメージで連想されるのは、祈りや願いということであろう。困ったときの神頼みという言葉もあるし、映像などでも教会などでの祈りの風景がよく見られる。
そして病気や事故など難しい状況に追い込まれた時にはいろいろな宗教の人が勧誘に来ることが多い。
このようなことから、自分にはそんな願い事を宗教に頼る気持などない、という考えの人には宗教そのものに関心がないと言われることもしばしばである。
しかし、聖書においては、祈り、願いとともに、讃美という側面がある。それは一般の人には分かりにくいことである。困った時にはだれでもそれが深刻な状況であればあるほど、何かにすがりたくなる。その意味で祈りということは、自分はするつもりがなくとも、そのような心情は理解できる人が多いだろう。
しかし、この悩み多く、悪のはびこる世の中、さまざまの問題が内外に満ちている中にあって、どうして神を讃美できるのか、全く不可解だというのが多くの人の気持だと思われる。
ここに聖書の信仰が一般の理解を超えたものであることが示されている。
祈りとは、神への願いであり、神からの言葉を聞き取ろうとすることであり、神の霊にいわばひたされている状態でもある。新約聖書で、次のように言われているのもそうした意味での祈りである。
…これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子(キリスト)の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい。(ルカ福音書二一・36)
…絶えず祈れ。すべての事について、感謝せよ。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(テサロニケ第一の手紙五・17~18)
これらの聖書の箇所において、「絶えず祈れ」と言われているのは、絶えず何らかの願い事をせよ、という意味ではなく、絶えざる神との霊的な交わりを持ち続けよ、という意味である。
神を信じない人にとっては、そのような対話や交わりはあり得ないので、祈りは何か困ったときの願い事といった意味であり、また形式的に葬儀などのとき手を合わせるということが祈りのようになっている。
しかし、すでに述べたような意味における祈り、すなわち神との対話、交わりは、聖書において、当然のことながら旧約聖書の最初にある創世記から現れる。
…その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。…」(創世記三・8~10)
神は言われた。「…取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(創世記三・11~12より)
しかし、この聖書における最初の祈り(神との対話)は、ここに引用したように意外にも真実な神への赦しを乞うものでもなく、願いや感謝ではなく、神から逃げようとする人間の言い訳であり、罪をさらに重ねるものとなった。
ここに、人間の祈り、神への語りかけというものがいかに誤りやすいかが象徴的に示されている。このあと、創世記で続いている記事においても、弟の命を奪うというような重い罪を犯したカナンという男のことが書かれている。彼もそのような取り返しのつかない罪を犯したとき、神からの呼びかけがあった。そのときにも、カナンは、悔い改めることなく、自分を神のまえに罪を犯したものとせず、心をかたくなにするばかりであった。
こうした祈り(神との語り合い)の最初の記述はいかに人間が間違っているか、罪深い存在であるかを示すものとなっている。
そしてさらに、その後も数々のあやまちが人間の側からの神への願いのなかに入り込むことになった。その願い事を、神に対してせず、神でも何でもない偶像に対してすら行うようになる者が多く現れていった。
そしてそれを正しい神への祈り、悔い改めの祈りとなすために、後の時代に預言者が神から遣わされることになる。
しかし、そうした神へのかたくなな姿勢がまず記されているがそれと並行するように、神への正しい祈り、呼びかけ―「主の名を呼ぶ」こともなされるようになる。それは、創世記第四章の最後の部分に初めて現れる。
…主の名を呼び始めたのは、この時代のことである。(創世記四・26)
主の名を呼ぶとは、人々が主ご自身を仰いで、神の本質たる力や清さを願い、全能の存在に向かって心を注ぎだしていったことを意味している。
つぎに、聖書で神への祈りが暗示されているのは、大洪水のなかから救われたノアの記事のなかである。真実なものに背きつづける人間たちが洪水によって滅ぼされたあと、水が徐々にひいていった。ノアは箱船から出て、最初にしたことが、周囲の景色を見ることでなく、神への祭壇を築いてささげものを神に捧げることであった。このとき、ノアは祈りをもってしたであろうがその祈りの言葉は記されてはいない。
聖書において信仰の父とも言われる、重要な人物であるアブラハムから、詳しい信仰の歩みが記されている。アブラハムについても、神が彼に呼びかけた言葉は、有名である。
あなたは、生れ故郷、父の家を離れて
私が示す地に行きなさい。
私はあなたを大いなる国民とし
あなたを祝福し、名を高める。
祝福の基となるように。…(創世記十二・1~3より)
このような大いなる祝福の言葉を神から聞き取るということは、アブラハムが深い祈りの心をもっていたことを示している。しかし、アブラハムからの神への祈りの言葉は記されておらず、アブラハムが神の言葉に従って故郷を出発し、長い旅路を経て目的地にようやく着いて後、つぎの記述がみられる。
…アブラムは、…天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。(創世記十二・8)
主の御名を呼ぶとはすなわち、祈りである。
このように聖書では信仰の人の祈りの原型が「御名を呼ぶ」という表現でなされている。その後の祈りもその内容の本質は、結局はこの「主の御名を呼ぶ」ということだとも言える。
しかし、創世記においても、アブラハムのような重要な人物であり、信仰の模範となるべき人であるが、それでも、彼の神への語りかけとして最初にその内容が具体的に記されているのは、神の祝福の約束への疑問であった。神がアブラハムへの祝福の報いを告げたとき、彼は、「私には子供がないのに何を下さるのか」という疑問の言葉が、アブラハムの最初の神への言葉として記されている。(創世記十五・2)
それに次いであげられているのは、やはり土地を継ぐことへの神への問いであり(同十六・8)、神がアブラハムに老齢になっているが子供が与えられるという約束について信じないでそれを笑ったという記述である。(創世記十七・17)
このように、意外なほど聖書の最初の創世記ではアブラハムのような信仰の人であっても、そして神が繰り返し大いなる神の約束や祝福を告げているが、アブラハムの側からは、神への感謝や喜び、あるいは讃美というものが記されていない。
それはアブラハムの子孫であるイサク、ヤコブ、ヨセフに関する詳しい記述においても同様である。
神からの語りかけや命令は記されていても、それを受ける人間の側からの神への生き生きした感謝や讃美は創世記には現れないのである。
讃美の生れるところ
それでは、聖書における讃美はどのようなところから生れているだろうか。
旧約聖書で初めて神への讃美が現れるのは、アブラハムやヤコブたちになされた個人的な出来事でなく、イスラエル民族全体の最大の出来事があったときであった。それは長いエジプトでの奴隷の生活から、神の力を受けたモーセによって導きだされ、前方は海、後ろは敵の精鋭部隊が大挙して襲ってくるという、絶体絶命のときに神の力が現れ、海に道が現れ、滅びのなかから救い出されたときであった。
苦難から、共同体がともに助けられた経験こそ、聖書における神への讃美のもとになったのである。このようなことの中にも、聖書の信仰のあり方が、個人にとどまるのでなく、神を信じる人たちの群れと共に歩むという姿を見ることができる。
ずっと後のキリストの時代になって、「キリストを信じる人たちの群れは、キリストのからだである」という驚くべき表現がなされ、主イエスご自身も、「私の名によって二人、三人が集まるところに私はいる」といわれたのはそうした信じる人たちの共同体の重要性を指し示すものであるが、それは讃美を生み出した最初の記述が共同体の救いであったことと関連していると言えよう。
…モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。
主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し馬と乗り手を海に投げ込まれた。
主はわたしの力、わたしの歌
主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。
わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
主こそいくさびと、その名は主。
主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み
えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。…
主よ、神々の中に
あなたのような方が誰かあるだろうか。
誰か、あなたのように聖において輝き
ほむべき御業によって畏れられ
くすしき御業を行う方があるだろうか。…
女預言者ミリアム(*)が小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。(出エジプト記十五・1~21より)
(*)このミリアムという名前は、後に新約聖書の時代にイエスの母の名前のマリアと同じであり、英語のメアリー、フランス語のマリーなどにもなって広く知られ、世界で最もよく知られている女性の名前となった。
これが、聖書の中で神への讃美が表れる最初の記述である。
主こそはわが歌。主と結びついているとき、私たちの内には自ずから歌が生れる。主に向かっての歌である。ここで分かるように、最初の讃美は、踊ること、体を動かして全身で表すことと結びついていた。(*)それは当然であった。心からなる喜びや感動はからだ全体で表すようになるからである。
(*)言葉から見ても、歌うことと踊ることの関連は、コーラス(合唱)という言葉にも見られる。この言葉は、語源はギリシャ語の コロス(choros) であるが、この言葉は、もともとは「(輪になっての)踊り」という意味であり、そこから現在のコーラスという言葉が生じている。また、バッハの曲にもよく見られるコラール(ドイツのプロテスタント教会の讃美歌)という言葉もここから出ている。
このように言葉の上からも歌うことと踊ることは本来は分かちがたく結びついていたのがうかがえる。なお、踊るというギリシャ語の動詞は、コリューオー choreuo 。
聖書における最初の記述ということは、それが現在のキリスト教世界においておびただしい讃美歌や聖歌、さらにバッハやヘンデルほかのキリスト教音楽があるが、それらあらゆるキリスト教音楽の最初がこの歌だということになる。
なぜこの出来事が讃美の最初になったのか、ここには、はっきりとした理由がある。それは、滅びから救い出されたという決定的な体験である。
人々はエジプトで長い年月にわたる奴隷の生活を強いられ、しかも子供が生れたら男の子はナイル川に投げ捨てて殺せと、命じられ民族としても絶滅の危機に瀕していた。
そのような危機のなかに神がモーセを遣わし、数々の驚くべきわざを神の力によってなし、それでもエジプト王はイスラエルの人々を解放しようとしなかったために、神ご自身が特別な方法を用いて人々を解放することになった。
そのような長い苦難の後に、ようやく解放され、モーセに導かれて「乳と蜜の流れる地」に向かっての長い旅を始めた。しかし、まもなく、エジプト軍が大挙して襲いかかってきた。そのとき前方には海が広がり、絶体絶命という状況であった。人々は救い難いような状況に直面して、こんなことなら、エジプトでいたほうがましだ、我々を死なせるつもりか、といって激しくモーセに迫ってきた。
このように状況ではたしかにふつうの方法では助かることはない。しかし、モーセはそれほどの危機に直面し、人々の殺気だった激しい動揺のただなかにあって、神への信頼を貫くことができた。
…モーセは民に答えた。「恐れるな。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見よ。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。
主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静まっていなさい。」(出エジプト記十四・13~14)
この確信に答えて神は、驚くべきわざをその御手によってなされた。このような神の守りとその万能を固く信じるところに、神への讃美が生じる源泉がある。
自分たちを滅ぼそうとする、敵が神の力によって滅ぼされたこと、そのときに神の力をまざまざと体験したということが、今も全世界に響きわたるキリスト教の賛美という大河のみなもとになった。
そしてこの讃美はだれに向かうのかと言えば、それは神である。ふつうの歌は自分の気晴らしとか、他人に聞いてもらおうとして歌うものが多い。
詩編と讃美
旧約聖書のハート(心臓)とも言われる、詩編は、まさに祈りと讃美の結晶である。
詩編こそは、祈りと讃美の融合した最も高い内容を持っている。それゆえに、主イエスの最も苦しいとき、最後の危機的な状況において、詩編二十二編の冒頭の言葉がそのまま叫びとなって現れたのである。
それは、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!)という激しい苦しみの中からの叫びであった。そしてこの詩のタイトルとして、「"暁の雌鹿"に合わせて。賛歌」という指定がある。このような恐ろしい苦しみからの叫び、それが、どうして歌になるのか、と疑問に思う人もいるだろう。
それは、当然である。一般の人々にとって、歌とは楽しいときに歌うものというイメージが強い。だから悲しいとき、ことに人が亡くなったときのキリスト教での葬儀に参加した人から、「人が死んだというのにどうして歌など歌うのか」と、とても不思議そうに言われたことが何度かある。
しかし、聖書においては、楽しいから歌う、心がうきうきしているから歌うというものではない。
最初の神への讃美は、敵に追いつめられ、もう滅ぼされるという危機一髪の状況からの救いのときに自ずから生れた。それは、楽しいとかいった感情でなく、魂を揺り動かすような深い感動から生れたのである。
そのような神への激しい心、深い心の動きこそが詩編の中心にある。それゆえそれは苦しみの心であっても、悲しみや、神への懇願、また神のわざやみ言葉の力への感動など、広い範囲の内容が含まれる。それは楽しいから歌うというのでなく、神が人の心を動かし、それが言葉となり、さらにそれを多くの人が共有して体験をともにするために歌われるようになっているのである。
人間的感情からの歌でなく、背後に神がおられて神がそのような苦しみや悲しみ、喜びや感謝という神に関わる数々の心の感動をつづらせ、歌わせているのである。
さきほどの、エリ、エリ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神…)という叫びも、そのような絶望的にみえる状況に置かれてもなお、そこにも神の御手があるのだ、そして最終的にはそこから救い出されるのだという意味が込められている。そのような耐えがたい苦しみをも通って、神は救いへと導かれるという驚くべき神のわざがそこにある。その神のなさることへの深い感動があるゆえに、詩となり、讃美となって後の時代の人たちにも受け継がれていったのである。
詩のかたちになると、私たちに不思議な働きをして心に残ることがしばしばある。
例えば、「カエルが古い池に飛び込んで水の音がする」などという文ならだれにとっても何の印象もなく、そのまま流れ去っていく。しかし、「古池や かわず飛び込む水の音」という五七五の言葉をもって俳句になると、にわかに余韻を与え、そこに込められた著者の宗教的あるいは哲学的な思いまでも感じられてくる。
詩という形になればこのように、単にふつうの文で書いたより以上に多くの人の心の部屋にとどまり、共有されることが多くなる。
それがさらに適切な曲がつけられるといっそうその詩は豊かになり、幅ひろくなり、今度は詩の言葉を十分に理解できないものにすら伝わっていくことがある。
おそらく日本において最もよく親しまれている讃美歌といえる、「いつくしみ深き友なるイエス」(讃美歌三一二番)についても、それが次のような詩のみでは到底多くの人に伝わらず、また感動も与えなかったであろう。
いつくしみ深き 友なるイェスは
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて、
などかはおろさぬ、負える重荷を。
適切な詩にふさわしい曲がついて、その詩は一段と時代や場所を越えて共感できるものとなり、人々の心に響くようになる。
音楽はそれ自体、人の言葉とはちがった人間の魂の深いところに届くことがあるからである。そのような音楽の意義は古くから言われている。
旧約聖書でもつぎのように、音楽がとくに悪の霊を追い出す働きがあることが記されている。
…ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。(Ⅰサムエル記十六・23 )
また、古代中国の代表的な思想家である孔子にも次のような音楽についての言葉がある。
子曰く 、詩に興り、礼に立ち、楽に成る。(「論語」泰伯第八)
孔子は言う、正しい詩によって、その言葉がわかりやすく、繰り返し歌っている間に、心が動かされる。そしてそのような、よい詩によって善を好み、悪を憎む心を奮い立たせる。
礼によってそれが安定する。
さらに、音楽によって完成する。音楽は人の心を養って汚れたものを追い払い、正しいことがわかり、愛がわかり、人間の正しいあり方に従うように仕向けるからである。(中国の学者、朱熹1130~1200 の集註 しっちゅう による説明より。)
このように、人間のあり方、性格という奥深いものを完成させるのが、音楽であるというほどに孔子は音楽の重要性を知っていた。
そして、詩を学ぶことの重要性をつぎのように述べている。
子曰く、何ぞかの詩を学ぶことなきや。詩はもって興すべく、もって、観るべく、もって群すべく、…多くの鳥獣草木の名を識る。(「論語」陽貨第十七・9)
ここでも、孔子は、詩が、人の心を興す、つまり感動させ奮い立たせるということを第一にあげている。さらに、「観る」とは、詩にはさまざまの人間のことが書かれているから、人の考え、感情、昔のしきたり、文化も見ることになるというのである。そして「群すべく」というのは、詩によって心が耕され養われるために、他の人とも和らぎ交わることになる。そして当時の詩はそこで歌われている内容が広く鳥獣草木の名の学びにもなると説いている。(ここでの詩とは中国最古のいまから三千年ほど昔の詩集である詩経を指している。)
こうした詩の持つ意味については、本質的な点で聖書の詩篇にもあてはまるといえよう。
聖書の詩を正しく読むときには、たしかに私たちの心は動かされ、心に波紋がひろがり、弱っていた心もしばしば奮い立つ。数千年という時間を越え、国や民族、国土を越えて、聖書の詩は私たちの心に流れ込み、そこで枯れていたものを生かし、立ち上がらせる力がある。主イエスが十字架上で最後の激しい苦しみのとき、詩編の言葉のままで、叫び、祈ったということ、それはいかに詩編の言葉が主イエスの心に最後まで存在し続けたかの証しである。
そしてその詩編の言葉が唯一の天への絆であるかのように、その一点に主イエスはその苦しみをゆだねた。
このような音楽の重要性については、やはり中国の歴史家である、司馬遷がその大著「史記」のはじめの部分に、数千年前の皇帝とされる、舜(しゅん)について次のような記述を残している。
… 舜は、指導者階級の者たちの子供たちに、音楽を教えさせることにした。そして「詩は人のこころを述べるもの、歌は、詩のことばを長くしたのもので、…高低の音がよく調和すれば、神も人もこのためによく調和するのである。」(「史記 五帝本記第一」筑摩書房 世界文学体系 第五巻より)
このように、詩と音楽とは深く結びついていることを述べた上で、正しい音楽それ自体が、人間と神が一つになることを助けるのだと知っていたのがうかがえる。
詩編や預言書を見れば、深い祈りがそのまま神への歌となっているのに気付く。さきほどの詩編二二編は全体の一五〇編の詩のなかでも、とりわけその苦悩が激しいことが記されており、「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか」に始まる必死の祈りであり、叫びである。
しかも、そのような厳しい内容の詩がそのまま賛美となっている。この詩のタイトルとして、「"暁の雌鹿"」に合わせて、賛歌。…」とある。そして実際この詩編二二編の著者は激しい苦しみと苦悩の後に、そこからの絶望の淵からの救いを体験し、大いなる讃美が生れている。
私は兄弟たちに御名を語り伝え、
集会のなかで神を讃美します。
主をおそれる人々よ、主を讃美せよ。(詩編二二・23~24)
こうした苦難の叫びとか苦しみがいやされ、讃美となる。
…声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。(歴代誌下五・13)
ここには、心を合わせ、声を一つにして主に讃美することによって、雲が満ちたという。これは、神が間近に迫り、神の力で包まれたということを意味している。神への心からの讃美は、神を近くに引き寄せる力があることを示している。
…主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。
どのようなときも、わたしは主をたたえ
わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。(詩編三十四・2)
このように、神の大きな御手のうちに入れていただいたとき、私たちの心は、神の大いなる力とそのわざに心が開かれ、それに対する深い感動のゆえに、讃美が生れるようになる。どのようなときにも、主をたたえることができる。絶えることなく、讃美が歌えるということは、何にもまして素晴らしいことであろう。というのは、神の偉大さや愛、苦しみが襲いかかるときですらそれが実感できるとき、神への讃美が生れる。
旧約聖書には、エジプトにおける長い年月にわたる苦難があり、そこからようやく解放されるが、さらに敵に追い詰められ滅ぶ寸前になって神の力によって救い出され、そこから、初めての神への讃美が始まる。
それまでは神に従うということ、神の呼びかけに従うということがあったのみであって、ノアにしても、アブラハムやヤコブ、ヨセフのような劇的な歩みを与えられた者であっても、神への讃美は生れなかった。それは一つには時間が必要だということである。神を知ったとは、神を信じるようになって罪の赦しを実感したことである。次に、神に導かれ、み言葉に聞くことが続く。そして数々の苦しみを通って、忍耐を経て、希望へと結びつく。そこに讃美が生れる。
新約聖書の祈りと讃美
そして、主イエスも、最後の夕食の後、もうこれから捕らえられ、十字架にかけられ、侮辱され恐るべき苦しみを受けねばならないことを知っていたその直前においても、讃美をもって夕食の会場を後にした。
…一同は讃美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。(マタイ福音書二六.30)
そしてそこからゲツセマネでの祈りへと続いていった。
また、使徒パウロは迫害を受け、捕らえられて衣服もはぎ取られ鞭打たれ、厳重な監視のある牢獄に入れられ、足にも足かせをつけられた。
驚くべきことにそのような状況に置かれても、パウロたちは真夜中ごろでも讃美を歌い、祈っていたとある。
…群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。
そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。
この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。…(使徒言行録十六・22~25)
そしてそこに神の驚くべきわざがなされ、パウロたちは解放されることになった。
このように新約聖書においても、祈りと讃美は深く結びついているのがわかる。
現在の混乱した状況にあって、私たちの魂を正しい場へと引き戻すのは、神の言葉と結びついた、祈りと讃美なのである。しかもそれは、難しい議論や学問、講義などと違って、まったくキリスト教を知らない人や悩める人、病の人、学問的なことは分からない人、どんな人にとっても本来共に持つことができるものである。
祈りと讃美によって私たちは神の愛を受け、神からの力をいただくことができる。まだ信仰を持っていない人も讃美の歌によって励まされ、神の清い霊的なものに近づく助けとなるのである。
私自身が、初めてのキリスト教の集会で、自分がもっていた心の問題と何の関係もない、ヘブル語がどうの、ヤハウエ資料がどうのという講義などは全く心に残らず、かえってそこで歌われていた讃美が祈りのこもったものであったために、心に深く残されたのを思いだす。
私たちが悪の力に負けないでそれに打ち勝つために、最も必要なのは、真剣な祈りである。そのことは、すでに述べたように、主イエスが捕らえられ、鞭打たれ、ののしられ、ひどい侮辱を受けてそのあげくに十字架につけられるという恐ろしい状況に向かう直前に、何をなしたか、と言えば、それはゲツセマネにおける血の汗がしたたり落ちるとまで表現されているような真剣な祈りであったことからもわかる。
そこでサタンの力に勝利したのであった。
主イエスの深い祈りは、三年間の短い伝道の日々においても、つねに持たれていた。しばしば夜を徹して祈ったということが記されている。
弟子たちの上にも主イエスのまなざしは常にあり、彼等の信仰がなくならないように祈ったと言われている。
そのような祈りによって主イエスの三年間の伝道の生涯は支えられ、十字架の死はその祈りの延長上にあった。
さらにイエスの死後、弟子たちは主の言葉に従って祈りをつづけていた。そこに聖霊がはげしく下り、それまでの恐れにおののいていたような態度から一転して、命がけでキリストの復活を証ししていく人間となった。
ここにも、祈りが中心にあるのがわかる。
十字架による罪の赦しを受け、復活のキリストである聖霊を注がれたこと、そこから新しい時代の讃美が泉のように生み出されることになった。
使徒パウロは、そのことをつぎのように書いている。
…霊に満たされ、 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(エペソの信徒への手紙五・18~20より)
聖霊に満たされるとは、言い換えれば、ヨハネ福音書で「ぶどうの木」とたとえられるキリストに深くつながることである。
…わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。(ヨハネ福音書十五・5)
ここで言われている「豊かに実を結ぶ」、それは神への感謝と讃美が生れてくるということも意味している。キリストが宣べ伝えられるようになって、まもなく厳しい迫害の時代が来る。そこでは苦しめられ、飢えたライオンのような猛獣にキリスト者が襲われ、大群衆の前で死に至る様が繰り広げられていった。
そのような時代に記された、聖書の最後の書物である黙示録には、そのような悪の力が神に裁かれることが象徴的な言葉で記されている。
そしてそのただなかで、天上では大いなる讃美が神に捧げられる。
…彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
全能者である神、主、
かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」(黙示録四・8より)
私たちの目に見える世界の状況がどうであろうとも、聖霊によって神に感謝し、讃美することができるように
していただけるという約束が聖書に記されている。それはどんなに雲で空が覆われていようとも、その雲のかなたには、太陽の光が変ることなく輝いているのと同様である。
そのような絶えざる祈りと讃美を目に見えるかたちで、私たちのまわりに備えて下さった。それが、自然の世界である。樹木は、それが大木であるほど、いかなる風雪にも揺るがずに黙して立ち続けてきたことを示すと同時にそれは祈りの姿を私たちに指し示すものとなっている。また野草の花たちは、土から生じた弱いものでありながら、その色彩や花の姿、かたちによって神の素晴らしさを思わせ、神への讃美がそこに感じられる。
うるわしい夕焼けも壮大な神への讃美であり、波の打ち寄せる姿はそのまま讃美である。
神は、私たちの身近なところに、祈りと讃美のすがたを日々現して下さっている。それは私たちをどのようなときであっても、祈り、讃美することのできるものへと導こうとされている神の御心の現れなのである。
ハレルヤ、
新しい歌を主に向かって歌え。
主の慈しみに生きる人の集いで讃美の歌をうたえ。(旧約聖書 詩編一四九・1)