ことば 2005/5
(209)祈りは力である。また、祈りは働くことである。私たちは生きて働く神に向かい、行動へと送り出される。…祈りは、ことばを最高に用いることである。(フォーサイス著 「祈りの精神」26頁 )
・祈りは、神からの力を与えられ、その力によって働くことへとうながされる。神はむだには力を与えられないからである。そしてそれが小さな行動であっても、そのことを通じて新たな力を与えられる。
人間の言葉の最もよき使い方は、祈りだと言われている。神に向かう言葉、人への愛のこもった祈りこそは、言葉が最高に用いられていると言える。
編集だより
○キリスト教四国集会
徳島での四国集会のときに今まで使ってきた会場が使えなくなり、一年間、会場を探し決定することから始まって祈りをつづけてきた、キリスト教四国集会(無教会)が、多くの人たちの祈りと支えによって無事終わることができました。
多くの人たちの祈りが集められた特別集会には、いつも何か新しいこと、予想していなかったことが起こされてきましたが、今回も私たちの予想もしなかったような神の恵みのわざを起こして下さいました。
それは参加者があるとは思われなかった、遠い沖縄から二名の方が参加されたり、北海道の旭川や札幌からも参加していただくことができたこと、インタ-ネットや私たちの集会の主日礼拝などのテープだけで関わりのあった方が東京から参加されたり、若者の会に十七名ほどもあつまって若い人たちの独自の運営でなされたこと…などなどです。
○「祈りと讃美」このことは、いつでもどこでもできることです。そして信仰をまだ持っていないひとですら何らかの祈りのようなものを持っています。手紙などでも、「健康を祈ります」などと書くのも、祈りということがそれほど人間に深く結びついていることの現れです。
しかし、そうした心の表面での祈りから始まって、本当の祈りはどこまでも深いものがあります。見える世界を越えて、はるか雲のかなた、天空のかなたにまで通じる祈りもあるわけです。
幼な子のような心でまっすぐに神に信頼して祈る心に、神は天の宝を与えて下さり、そこに本当の讃美が生れると言えます。
主よ、私たちをそのようにどこまでも真実で深い祈りと、神への讃美の心へと導いてください。
○来信より
何か、目に見えない檻の中に自分はいて、脱出しようと遠くに行ってもその檻は、さらに先にある。もがけばもがくほど、縛っている目に見えない糸は、くもの巣のようにさらにきつく絡みつく、以前はそんな感じだったのを、四月号の文章にひどく共感しながら思い出しました。
渇き、私も朽ち果てる寸前でした。導き、支えてくださる神の強いみ手を思います。(四国の方)
お知らせ
○四国集会のテープ、ビデオなど
今回の四国集会のテープ、ビデオなど希望の方は、編集者(吉村 孝雄)宛てに申込をしてください。テープは十本前後で千五百円(送料込み)、ビデオは120分 VHS で 二~三本で、送料とも、二千円です。
○ヨハネ福音書CD
なお、四月号に掲載した、ヨハネ福音書CDは、送料を書いてなかったので問い合わせがありましたが、送料込みで一万円です。(私たちのキリスト集会で、約二年半ほどをかけて学んだ記録です。一般のCDラジカセで聞くことができるもので、CD約五十枚です。)前月号で紹介してから十名余りの方々から申込がありました。四国集会があったため送付には少し待っていただかねばなりませんが、近いうちに発送予定です。