閉じられていくこと、開かれることと 2005/6
私たちはすべて老年に向かっていく。老年とはさまざまのよきものが次々と閉じられていくことである。健康で自由に仕事や遊び、趣味、旅行などできていたのが、次第に一つ一つできなくなっていく。車にも乗れなくなり、歩くことすらままならないようになる人も多いし、寝たきりとなっていく場合もある。
そしてついにはこの命さえも閉じられていく。
しかし、このような現実にあって、開かれていく世界がある。それは目には見えない天の世界である。
閉じられていくのは、目に見える世界であって、目には見えない天の世界はだれも閉じることはできないし、究極的なよきもので満ちている世界であるゆえに、古びることも変化することもない。
そこに通じる道は、過去の経験でもなければ、経歴やこの世の業績、健康、病弱、あるいは過去の罪や善行ですらない。ただ幼な子のような心をもって、罪の赦しを受け、神を見つめることである。
実際、老年にならなくとも、病気になって動けなくなっていけば、娯楽やこの世の楽しみは確実になくなっていくのであって、何か本当によいものを見つめようとすれば、いやおうなく、天の国へとまなざしを向ける他はなくなっていく。
神は病気や老年ということを用いて、この世のものを閉じていき、人間が、神を仰ぐという狭き門から入り、天の国への細い道を通っていくように仕向けておられる。ただその単純なことによって、天から神の国のよきものが流れてくるようにしてくださる。そしてその彼方には、無限の清い世界、苦しみも悲しみもない世界、もはや決して閉じられることのない世界が開けていて私たちを待っているのである。