リストボタン聖書における平和について(とくに旧約聖書の平和)   2005/7

アメリカの大統領がイラク戦争などを旧約聖書を用いて正当化することがあった。 そのため旧約聖書では戦争が肯定されているのだと、安易に考える人がいる。
ここでは、とくに旧約聖書において、平和とはどのような意味で言われているのかについて考えてみたい。
聖書においては平和ということは、随所に記されている。聖書とは平和をもたらす書物であるからそれは当然と言えよう。
しかし、聖書のはじめの部分には深い意味における平和ということは見られない。それは、復活とか、一夫一婦制とか、悔いた砕けた心こそ、最も神が喜ばれる捧げ物であるというようなことがやはり聖書のはじめの部分には見られないのと同様である。
普通、平和とは戦争がない状態を言うことが多い。旧約聖書のとくにヨシュア記やサムエル記などの歴史の部分では、神ご自身が、戦うことを命じられ、ペリシテ人、アマレク人たちを打ち破るべきことが記されている。旧約聖書においては、神が戦争のない状況を初めからは示していないのがわかる。
しかし、預言書においては武力によって戦うことは、一時的なことであり、究極的なあり方は、そうした武力が全くなくなることが指し示されている。

終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって大河のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書二・24より)

これは今から二千七百年ほども昔の書である。戦乱の時代のただなかに、このようにはっきりとさまざまの国民が唯一の神の真理に向かって流れ込むように、引き寄せられることが象徴的に記されている。現実の世界がいかに荒れていて、平和への希望などないようであっても、そうした外的状況と関わりなく究極的真理は示される。ここに聖書の深い意味がある。
新聞やテレビ、雑誌の評論をいかに多く読んでもそのような視点からの記述は全くない。聖書の永遠性、独自性はこうしたところにある。
平和という原語は、旧約聖書が書かれたヘブル語では、シャーロームという。この言葉の動詞の形はシャーレームであり、これは次の箇所に見られるように、「完成する」「満たす」、「完全にする」といった意味を持っている。

こうして彼は神殿を完成した。(列王記上九・25

このことからも、その名詞形である、平和(平安)が、完全にされた状態、満たされた状態という意味を含んでいるのがうかがえる。
日本語で「平和」という言葉は、「戦争がなく穏やかなこと」という訳語のみをあげている国語辞書もあるように、社会的な状態、人間が争いのない状態を連想する。
しかし、「平安」と言えば、「無事で穏やかなこと」という意味で、普通には社会的な状況よりも個人的な心の状態をあらわす。
旧約聖書においても、後半の部分にある預言書には、平和というのは、単に「戦争がない状態」といった消極的な表現でなく、神によって完全にされた状態、満たされた状態を暗示している箇所がある。それは旧約聖書でも後期に書かれた文書に多い。

わたしの戒めに耳を傾けるなら
あなたの平和は大河のように
恵みは海の波のようになる。(イザヤ書四八・18

平和が大河のようになる、といった表現はたいていの人にとっては耳にしたことがないであろう。すでに述べたように、平和とは戦争がない状態といったイメージで理解していることが大多数を占めていると思われるからである。戦争のない静かな状態というのと、このイザヤ書で言われているような、大きな川のように流れるもの、ということとはまったく異なるニュアンスがある。
この訳文で、「大河」と訳されているが、原語は、普通の川をも意味するナーハールである。ここでは、とくにユーフラテス川に代表されるような大きな河を意味していると考えられて、大河と訳されている。
平和が川のように、というのはどういう意味なのか、それはこの原語の意味から浮かび上がってくる。旧約聖書において、平和とは完全にされた状態、満たされた状態を意味しているゆえに、それはとどまることなく、あふれだすものであり、周囲に流れていく大きな川のようなものなのである。
戦争がない状態、あるいは一時的に病気や争いのない個人の心の平和といっただけでは、それはあふれて流れだすようなものとはなり得ない。自分の家族の平和がいくらあっても、それは周囲にその祝福は流れだしていくこととは直接に結びつかない。かえって、家庭の分裂に悩み、家族の深刻な病気や罪があるときには、家族の平和を楽しんでいる家庭とは近づきたくないという気持になるだろう。特定の平和な仲むつまじい家庭というのは、闇に苦しむ家庭を持つ人には妬みや嫌悪の対象にすらなりかねない場合がある。
しかし、聖書で言われる平和の究極的な姿は、このイザヤ書にあるように、西アジアで知られる大河、ユーフラテス川のような大いなる流れであり、それはとどまることがなく、流れ続け、周囲をうるおし続けるものなのである。
こうした類のない平和の内容は、まさに神からの直接の啓示によって知らされたのである。こんな壮大な平和があるとはだれも考えて思いつくようなことではない。イザヤ書、とくに後半部にはこのような他では見られない、深くて広大な内容が多く見られるが、それはキリスト以前の人類の歴史のなかで、特別に深遠な内容を持っていると言えよう。
私たちのうち、誰がこのような大河のように流れてやまない平和を知っていたか、そんな平和は現実の社会にはどこにも見られない。かえって、戦争と混乱と貧困は随所で見られたはずである。人間の歴史とは戦争の歴史であると言えるほどであるのは、身近な日本の歴史を調べてもわかる。古事記、日本書紀にでてくる伝説上の日本武尊(やまとたけるのみこと。古事記の表記では倭建命)にしても、彼の生涯は戦争そのものである。
旧約聖書においても同様で、アブラハムやヨシュア、ダビデ、ソロモンといった人たちも戦いから免れることはできなかった。ソロモン以降の歴史も絶えざる戦いがあった。
そうしたのちにアッシリアや新バビロニア帝国という大国との戦いに破れ、滅ぼされ、あるいは捕囚となってしまう。そうした後にも、またアレクサンダー大王の各地での戦い、その後にも次々といろいろの地方で戦争が生じている。
このように、人間の歴史は実に戦いと動乱の歴史とも言える。しかしそのようなただなかにあって、イザヤ書では、そのような戦争という混乱の地平の彼方に、はっきりと驚くべき平和を神から示されたのであった。
いかに混乱と不正、憎しみのうずまく戦争があろうとも、そのかなたには神ご自身が大いなる平和をもたらすのであって、それは何人も止めることのできない、大河のごとくであった。
人間の作った平和とは、個人的な平和にせよ、民族や国家の平和にせよ、妥協や駆け引きの産物であることが実に多い。それゆえそのような人間的な平和はとてももろいのである。
次に「恵みは海の波のようになる」と言われているが、これもまた、普通には見られない表現である。ここで恵みと訳されている原語は、ツェダーカーであり、「正義、義、公正」という意味の語である。
信仰によって義とされるという有名な箇所の元になっている、旧約聖書の箇所、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記十五・6)というところで用いられているのが、このツェダーカーである。
これは旧約聖書では一六〇回ほども使われている重要な言葉である。なお、この語とほぼ似た意味を持っている、ツェデクという語も一六〇回ほど使われているから、これらの言葉は合わせると三二〇回ほども使われている。
新共同訳では、この正義をあらわす言葉が、「恵み」と訳されているが、外国語訳を含め、ほとんどの訳は、原語に即して、「正義、義」と訳している。

あなたの正義は海の波のように(新改訳)
あなたの義は海の波のようになり(口語訳)
義は海の波のごとく(関根訳)

人間の正義といっても、それは罪赦され、神からの恵みとして与えられる正しさであるから、新共同訳では「恵み」と訳していると考えられる。
いずれにしても、この箇所は、もとは神の民たるイスラエルの人たちの平和や義が川のように、また海の波のようになるというのである。もし彼らが神に聴き従っていたら、そのようになったであろう、という意味と、今後もし聞き従うならば、そのようになるという約束が重ね合わされて表現されていると考えられる。
この表現には、絶えずあふれてやまないもの、押し寄せてとどまるところがないという豊かなものが感じられる。
イスラエルの民とは、新約聖書の時代になって、実際のイスラエルの民族でなく、神を信じる人は霊的なイスラエル民族であるとされるようになったから、現代の私たちにとって、こうしたイザヤ書の言葉は、そのまま、神の民となった私たちに向けて言われていると受け止めることができるのである。
海の波とは、遠くから繰り返し押し寄せてくるものであって、神によって罪あるものが正しいとされる恵みがあとから後から押し寄せてくるというのである。
こうして流れてやまない平安の流れや打ち寄せるように絶え間なく与えられる義ということは、現状からは到底考えられないものであっただろう。それどころかどんなに平和を求め、義を求め、恵みを求めても得られないで戦いや混乱にまきこまれて滅びていくというのが多くの人たちの実感ではなかったか。
「山の彼方の空遠く」という詩も、そのような哀しみのこもった内容を持っている。

山の彼方(あなた)の空遠く
幸い住むと人のいふ。
ああ、われひとと尋(と)めゆきて、
涙さしぐみかえりきぬ。
山のあなたになお遠く
幸い住むとひとの言ふ。 (カール・ブッセ、上田敏訳)

Uber den Bergen, weit zu wandern

Sagen die Leute, wohnt das Gluck.

Ach, und ich ging im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zuruck.
*
Ueber den Bergen, weit weit druben

Sagen die Leute, wohnt das Gluck.


これは幸福というものが、身近にないこと、非常な努力をして求めても、時には気の合った人とともにそうしたよきものを目指していっても結局はそんな理想的な幸福をつかむことはできないというのである。身近なところに幸福はなく、探し求めてもやはりないのだ、という悲哀の情がある。
これは翻訳の巧みさと、物哀しい調子が日本人に受けてこの詩は学校教育でも紹介されていて、私も頭のなかに残っている。
しかし、このような詩を読んで励まされるという人はまずいないのではないか。私自身も何ら力付けられることもなく、何か不可解なものを感じただけである。
これと、部分的に似た内容を持っているものとして、「青い鳥」の物語もよく知られている。
貧しいきこりの子の兄妹チルチルとミチルは「青い鳥」を探しに出かける。「思い出の国」「夜の宮殿」「未来の王国」などを探しまわるが、どこにも「青い鳥」は見つからない。ようやく自分たちの家に帰ってきたとき、すべては夢だったことがわかる。そして「青い鳥」(幸福)は家で飼っていたキジバトだったことを知る
このメーテルリンクの物語を読んで、力を受けたり希望を与えられた人はいるだろうか。幸福は身近なところにある、などと言われて、家でいつも飼っているハトだとか、庭とか、日毎の食事、与えられている健康だなどなどといわれて、本当にそうだと実感して、自分は究極的な幸福を見付けたと永続的に感じ続けることができるだろうか。そのように頭で考えて永続的に幸福を感じ続けられるなら、だれでも幸福だと思うだろう。
しかし、実際はそんなに簡単に幸福だという実感は与えられないのは誰もが知っていることである。
なぜかと言えば、そのような幸福は自分で考えて、身近なものが幸福なのだと言い聞かせて一時的に頭で納得するだけだからである。内から溢れ出るものでないからである。人間が自分の頭で考えて納得したといっても、別の大きな問題、病気や事故、家庭の問題、職業上の失敗などが生じたらたちまちそのような頭で考えた幸福などは消え去ってしまう。
真の幸いは、「山の彼方の空遠くに尋ねて」も、身近なところにあるのだと自分で自分に言い聞かせたところで、得られないのである。
聖書においては、本当の幸い、揺るぎない幸い、本来だれにでも与えられる幸いは、神が私たちの魂の内に新しく創造して下さるものである。そのとき、渇ききった心の砂漠にも、水が流れ、花が咲き始める。

そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。
そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれる。(イザヤ書三五・58より)

永遠の平和が訪れる神の時がある。それは「そのとき」といわれている。旧約聖書では、「主の日」とか「終りのとき」といった表現で預言書によく現れる。
これは世界にそのような「時」があるということであるが、私たち一人一人においても、そのような「時」がある。私自身も、それは二十一歳のときに初めてそうした経験の一端を与えられたのである。それまでの私の心の世界は、まさに荒れ野であり、水のない渇ききった状態であったし、この世の幸いをあちらにあるか、こちらにあるのかと、尋ね探していたのであった。しかし、どこにもない、といった暗い気持があった。それはさきにあげた、ブッセの詩や青い鳥の話に通じるものがあった。
しかし、実際にそのような影のような幸いでなく、実体がある幸いを知らされたのである。それ以来いろいろと心を暗くし、悩み、倒れそうになることもあったが、たしかに荒れ野であった心に水が流れだしたという実感を持ち続けて今日に至っている。
山の彼方にもなく、また単に身近なものをそうだと思い込むことでもない。神ご自身が私たちの魂の奥深いところに、いのちの泉を作り出して下さるとき、そのとき初めてこれこそがこの世の幸福なのだと、実感することができる。
聖書は実に不思議な書物である。二千五百年以上も昔に書かれた旧約聖書の内容が、さんざん苦しんだあげくに出会った聖書の真理によって初めて理解できるようになったのである。そしてそのようなことは、学校教育をいくら受けても与えられなかったものであった。
そしてこのように、流れてやまない良きものというのは、聖書ではいろいろの箇所で見られる。何度か以前にもあげたことのある、最も有名な次の詩にもそれは示されている。

主はわが牧者、私には乏しきことがない。
わたしを苦しめる者を前にしても
主はわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追いかけて来る。(詩編二三より)

この詩の作者が言おうとしているのは、主なる神が自分とともにあり、導いて下さるようになったとき、内にはあふれる泉が与えられたのと同様であり、乏しいと思うことがなくなったということである。たとえ敵対する者、苦しめる者が現れてもなお、神はそうしたことにかかわらず、大いなる恵みを与え魂を満たして下さるという。しかも、神の国の恵みと慈しみという他では代えがたいもの、最大の賜物が自分が必死に探して求めるというのでなく、自分の後から追いかけてくる、という驚くべき実感を記している。
これは、最初にあげた、平和が大河のように流れてやまない、恵みが海の波のように力強く自分に打ち寄せてくる、といった表現と共通したものを持っている。
聖書においては、究極的に私たちに約束されているものは、それが無限に豊かで、満ち満ちたものであるからあふれでるもの、流れだしていくものとして言われている。それは聖書の最初にある、創世記のはじめの部分にすでに記されている。
エデンの園という人間に与えられるものが象徴的な表現をもって記されているが、そこでの特徴は、あふれでる水、周囲に流れだす川の流れということである。
エデンの園はおそらく、禁じられた実を食べたということだけが、クローズアップされている。しかし、それはたしかに聖書全体にとっても、極めて重要なことであるが、マイナスの側面であって、エデンの園にすでに約束されたこと、預言されていることのよき内容のことはどうもあまり知られていない。
エデンの園が大いなる水源であって、そこから流れ出る河はこのように、あふれでる水をたたえたもの、そしてそれが近くだけを流れる小川のようなものでなく、全世界をうるおす大河となっていることは、たいていの人が気づいていない。
このイザヤ書で言われているように、神が約束する平和とは、大河すなわちユーフラテスの川のようにあふれ、流れてやまないものなのである。平和というと静かなもの、流れるというイメージとはまったく異なるものとして私たちは受けとっている。しかし、聖書においては、平和を語るときでも、自分だけにとどまっているような平和でなく、溢れ出て周囲をうるおすものと言われている。こうしたつねに溢れ出てやまないという真理の特質は、詩編十九編の有名な箇所でも言われている。それは、真理が音もなく、溢れ出ていくということである。

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩編一九編より)

この詩において、昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送るという。それは人間がどのようであっても、夜も昼も絶え間なく、真理を送り続けているというのをこの詩の作者は啓示されたのである。この世界の中心にいわば目には見えない心臓のようなものがあって、心臓が体全体に昼も夜も血液を送り続けているように、真理を送り続けているのである。
そして、神の国の響きは地上の世界の腐敗や混乱にもかかわらず、常に全世界に送られている。星や太陽、あるいは大空の青いひろがりや白い雲、夕日や朝焼けの美しさ、力強さなどすべての神の創造のわざそのものが
絶えず神の本質を伝え、語っているというのである。
ここにも真理というのは溢れ出るもの、世界へと絶えず流れ出ていくものであることが記されている。それを抑えたり、せき止めてその力をなくそうとしても到底できないのである。
このように、溢れ出るほどの豊かさをたたえたものこそが、聖書に約束されている平和である。それは、当然新約聖書にゆたかに見られる。旧約聖書は新約聖書において実現されることの預言とも見られるのであるからこれは当然のことといえよう。
こうした溢れ出るものがとくにヨハネ福音書において強調されている。

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ福音書四・1415

この水、普通の水を飲んでも魂の渇きはなくならない。この水、とはふつう人間が求めるものを象徴的に述べているのであって、物や金、人間などどんな目に見えるものによっても深い心の平安は与えられないということである。
しかし、キリストが与える目に見えない水によって、人間は最終的な平安を与えられる。旧約聖書のシャーロームという言葉が持っている意味、完全にされた状態、すなわち満たされた状態を与えられる。
私たちが自分の考えで無理に、身近なものが幸いだ、と思い込もうとしてもそれは一時的なことであって、到底、深い永続的な満足はない。
私たちが深く満たされるのは、私たちの魂の内に「泉」がうまれることによってである。そこからは絶えず天の国のよきものがあふれてくるのであるから。キリストの言葉はそのような、人間の与えられる究極的な賜物を示している。
このいのちの水こそは、主イエスが最後の夜に語ったと伝えられてきた次の言葉へと結びつく。

わたしは、平和(平安)をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。(ヨハネ福音書十四・27

このように見てくれば、旧約聖書から一貫して預言されてきた、流れ出る平和、満ちあふれるよきものは、聖書の最初から告げられ、ずっと旧約聖書をも流れ、そして新約聖書のキリストによってそれが成就されているのが分かる。
そこから、このような内なる平和を確固として与えられたものは、武力によってあるいは敵意によって、敵を討ち滅ぼそうとはしなくなる。相手にもいわば宇宙に流れているいのちの水が流れ込むように、そして泉が相手の心に生れるようにと祈るようになるであろう。
それが、主イエスや使徒パウロが教えた、「あなたの敵を愛し、迫害するもののために祈れ」ということであった。内なる泉からあふれる流れは敵対するものにも流れだすというのである。
この現代の闇の世にあって、私たちはそのような泉がまず私たちの内に生れ、それがあふれだし、周囲の人々にもそれが流れていくようにと祈るものである。
この世は悪が満ちているし、それが次々と純真な若者の心にも流れ込んでいくように見える。しかし、そのような世であるからこそ、神の国にその源がある、いのちの水が存在し、だれにでも求める者に与えられることを証ししていくことを願っている。

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