創世記における最後の言葉  2005/8

創世記という書物は、その書名が「世界の創造に関する記述」という内容のように思わせるために、ほとんど聖書を読まない人には、天地創造のことが書いてあるのだと思われている。
しかし、創世記の全体では五十章あるが、そのうち天地創造のことを書いてあるのは、わずかに最初の一章と二章の二つの章だけである。
これを見ても創世記が天地創造のことを書いた記録だというのは間違いであることはすぐに分かる。それでは創世記とは何が目的なのか、その主たる内容は何であるのだろうか。
ここでは創世記の最後の章をとくに取り上げてこのことを考えてみたい。

 創世記の最後の章の内容には、二つの重要な内容が記されている。
 それは、「罪の赦し」と、「究極の目的地を目指す」ということである。
 ここではまず、罪の赦しということについてどのように扱われているか、見てみたい。
 創世記は全体で五十章あるが、そのうちの十四章もの分量はヨセフについての内容が記されているし、ページ数でも三分の一にも及ぶ分量になっている。このことだけを見ても、とくに重要視されているのがわかる。
 ヤコブ(*)の子供であるヨセフは子供のときに、兄弟たちに憎まれ殺されそうになったが辛うじていのちは助かったものの、遠いエジプトに連れて行かれた。
その後、無実の罪で牢獄に入れられたり、神からの特別な力を発揮してそこから出ることができたり、いろいろの驚くべきことがあって、ついにエジプトの王に次ぐ、高い地位にまでなった。

*)遠い昔のことで、確実なことは言えないが、ヤコブはキリストより、千五百年以上昔に生きた人だと考えられている。ヤコブの父がイサク、その父がアブラハムである。

 そのころ、ヨセフの兄弟達が住んでいるカナンの地(現在のパレスチナ)に飢饉が起こった。神がヨセフに示した預言によって、エジプトには食料があった。兄弟達は、ヨセフが権力者となっているとは夢にも思わずに、はるばる食料を求めてエジプトにやってきた。
 兄弟たちがエジプトにやってきたとき、ヨセフは彼らが自分の兄弟たちだと直ちに分かった。しかし、ヨセフは直ちに自分の身分を明かすことなく、彼ら兄弟がかつての罪を悔い改めているかどうかを、最大の関心をもって調べようとした。
その結果、兄弟たちはかつての自分たちの罪の重さを知り、その罰として苦しみを受けるのだと気付いていることがヨセフにはわかった。
そうして兄弟たちを父親のヤコブとともにエジプトに呼び寄せ、彼らの生活を支えた。歳月は過ぎ行き、 ヤコブが地上のいのちを終えたときに、兄弟たちは、ヨセフが父親のヤコブが生きていたから助けてくれたのであって、実際にはヨセフはまだ自分たちを赦していないのではないかと不安に思って、赦しを願った。

お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの罪を赦してください。」これを聞いて、ヨセフは涙を流した。(兄弟たちは)ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、
ヨセフは兄たちに言った。
「恐れることはない。わたしが神に代わることができようか。あなたがたはわたしに悪をたくらんだが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださった。(創世記五十・1720より)

このように、罪の赦しの問題が、創世記の長い書物の最後に現れる。ここにも聖書の基本的な特質が見られる。兄弟たちが、かつて殺そうとしたヨセフに心からその罪の悔い改めをして、「どうか、私たちの罪を赦して下さい。!」と願ったことは、そのまま、無数の人の心の願いである。
正しい道から大きくはずれてしまった、その罪はその当時はそれほど深く分からなかったとしても、後になってからどうしても消すことができない魂の重荷となってくる。そしてその罪の重荷を背負って生きていかねばならなくなる。そのような魂に、「あなたの罪を赦す」とのはっきりとした声を聞くことは最大の慰めとなり、励ましとなる。
そして悪を受けた者にとっても、相手がそのように心から悔い改め、赦しを乞う姿は最もよろこばしいものになる。
ヨセフにとっても同様であった。兄弟たちの悔い改めの心を知ったとき、エジプトという大国の最高権力者の地位にあった人が、「涙を流した」と記されている。これはつぎのように新約聖書において、一人の罪人が悔い改めるとき、天において大きな喜びがあると記されているのと同様である。

言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない(と思っている)九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ十五・7

言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ十五・10

このように、真の悔い改めは最も神に喜ばれるものであるが、そのような悔い改めをした者は、自分がどのように扱われてもかまわないという気持ちになる。それは兄弟たちの次のような言葉にも現れている。

やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言った。(創世記五十・18

ここで「僕」と訳されている原語は、「奴隷」をも意味する。現在の日本語では「しもべ」といってもどんな類の人間なのか、イメージが浮かびにくい。どこにも「しもべ」などという職業の人はいないからである。
しもべとは、召使というのと同じ意味であるが、古代においては召使というような一応人権も認められている人だけでなく、しばしば奴隷を意味していたと考えられる。
それゆえ、「私どもはあなたの僕です」という部分は、英語訳でも次のように、「奴隷」(slave)と訳しているのも多い。

We are here as your slaves.
NRS, NJB,NAB 他)

真に、悔い改めた魂は、自分のためには何をも要求しなくなる、それは自分の罪の深さを知らされたゆえ、本来ならば厳しい裁きを受けて滅んでしまって当然だと感じるからである。兄弟たちも、もう、自分たちは、奴隷同様となってもかまわないと、いうほどにかつての罪を深く知らされたし、その罰としてどんなことを受けても当然だと感じるほどであった。
このことは、新約聖書の有名な放蕩息子の記事と共通したものがある。放蕩息子も、父親から受けた財産を遊びに使い果たし、豚のえさででも生きていくほどになって死ぬほどの苦しみに陥った。そうなって初めて自分の罪を思い知らされ、父親のところに帰ろう、自分は息子の資格もない、奴隷のような雇い人として扱ってくださってもよい、という気持ちになったのである。
ヨセフの兄弟たちは自分が本当に赦されているのかと、不安になった。あまりにひどいことをした兄弟たちであったからである。犯した罪が重いとき、本当に赦されているのか、赦されるのかと不安になる。赦された確信がなかなか与えられないことがある。
それゆえ古代においても、高価な牛を殺してその血を注いで罪の赦しの確証を得たかったのである。大きな犠牲をはらって初めて罪が赦されるというのが実感であった。菊池寛の「恩讐の彼方に」(*)というのもそうした気持を描いている。

*)江戸時代の中頃に、父を亡くし、母との貧しい生活のゆえに誤って人を殺した男が、その罪の償いをしようと、耶馬渓の危険な道にトンネルを掘り始めた。長い苦しい時間のはじまりであった。その作業がおわりに近づいた頃、殺された人の息子がそこに来て、仇を討とうとした。しかし村人に説得されて見張るうち、一緒にかつての仇とともにトンネルを掘り始めた。そして三十年もの歳月ののちに、ようやくトンネルが完成した。それはひとえに、罪の償いのためであった。

しかし、どんなに苦行をしても、それで他人のいのちを奪ったという罪はつぐなえるだろうか。そのいのちは二度と帰ってはこないのであるし、その人が殺されたことによって破壊された家族の苦しみや痛みはいかにしても元に戻ることがないからである。
すでに赦しを与えられという気持ちはあったが、どうしても確信が与えられなかった兄弟たちが、ヨセフに心から赦しを求めることによって、ヨセフは彼らの悔い改めの心をくみ取り、赦しの確証を与えた。
 赦されない者は、恐れる。 そのためヨセフは兄弟たちに「恐れるな」といった。そして神は赦しを受ける者、赦すものを祝福して、「すべてをよきに変える」と言った。ここにすべてを良きに変えていく神の万能があり、神の愛がある。
 それは人間では決して不可能なことである。 人間がいかに悪事をたくらんでも、神を信じるものには、それらの悪を善に変えられるのである。赦そうとする神に代わって、私がどうしてあなた方を罰したりするだろうか、とヨセフは言ったのである。
ここに赦しの重要性がある。赦しを受け、赦すことの重要性である。新約聖書においてもペテロが、何度赦すべきかと問うたが、主イエスは七回を七十倍まで、といわれた。赦すことをしないとき、私たちも神から赦されず、心に平安はなく、神の国の賜物は与えられない。
 このように、創世記の最後の部分に、罪の重さを感じ、悔い改める魂に深く心動かされるヨセフの心が記されているが、これは主イエスの心、神の心を反映したものである。悔い改めこそ、神が最も喜ばれることなのである。

創世記の最後の章は、この罪の悔い改めと赦しが大きな意味を持つことがその背後に記されている内容となっている。
 それと並んでこの終りの章には、重要なことが言われている。それは真の祖国へのまなざしということである。
ヨセフの父、ヤコブはアブラハム以来の先祖の地を一貫して見つめてきた。それゆえに、死のときにも、そのアブラハムからずっと続いている信仰の人の流れのなかに置いてもらうことを最後の願いとした。
人間の最後の言葉は、何であるのか、誰しも関心のあるところである。
ヤコブの最後の言葉は、自分をエジプトでなく、先祖のアブラハムが埋葬されているカナン地方の洞穴に葬ってほしいということであった。
これは何でもないことのように見える。しかし、聖書においてはエジプトというのは特別な意味をもっている。このヤコブが死ぬときには息子のヨセフはエジプトの王に次ぐ、高い地位にある者となっており、どこにでも立派な埋葬をしてもらえる状況にあった。しかし、そうしたことには全く目もくれずに、信仰の人アブラハムが埋葬されたところを希望した。エジプトから自分の遺骸を運んで神の約束の土地であった、カナンの地へと運ばれることを最後の言葉としたのである。

 そして、この願いはヨセフにも共通して流れていった。ヨセフの最後の言葉、これは、長い創世記の最後の言葉でもあるが、ヨセフは息子たちにいつかカナンの地に導かれて帰るときが来る。そのときに、自分の骨を携えていって欲しい、ということであった。
 このようにヤコブ、ヨセフは、共にどのような状況であっても、最後まで本当の目的地を見つめ続けるまなざしを持っていた。
 単に遺骨を神の約束の地に持ち帰って欲しいというのでなく、ここには、究極的な祖国をつねに見つめて生きる姿が表されているのである。私たちはさまざまの事情のもとでこの地上に生きている。清い心などかき消されるような状況にあったり、苦しみのあまりもうこの世にいたくないという気持ちになったりする人もある。
 あるいはこの世の快楽や人間的なさまざまの誘惑に負けて、見つめるものを見失っていくことも実に多い。
 そのような中でも、どんなことがあっても私たちは究極の祖国(ultimate Homeland)を見つめ続けることこそ、永遠の祝福を受けるための最も大切なことである。
 創世記の最後のところで、ヨセフが自分の遺骨を、ヤコブと同様に、神の約束の地へと持ち帰って葬って欲しい、と強く希望したのは、彼のまなざしが、この世のいかなる安楽や地位、名誉にも関わりなく、神の約束を見つめていたことを示している。
ヨセフにとっては、神の約束の地といっても、子供のときに兄弟たちから殺されそうになったあげくに、隊商たちに売り渡されたのであって、それ以来何十年という歳月はエジプトで生活していた。ことにそのうちの後の少なくとも十五年ほどは、エジプトでの王に次ぐ最高の権力を与えられて、自由で豊かな生活をすることができていたと考えられる。 そのような富も権力も健康をも与えられていたエジプトでの生活はきわめて満足すべきものだったと言えよう。
 しかしそれでもなお、ヨセフはそうした物質的な豊かさに惑わされることなく、彼の霊のまなざしは、つねに神にあり、神の約束された地に向けられていたのである。
 創世記の最後に表れるヨセフの言葉が、つぎのようであった。
「神は必ず顧みて下さる。そのときには私の遺骨をエジプトから携えて、神の約束の地カナンへと持ち帰るように。」
 このヨセフの遺言が実現されたのは、それから数百年も経った後のことであった。ヤコブやヨセフの子孫たちがエジプトでめざましく増え広がり、それとともにヨセフの偉大な働きを知らない王が起こって、イスラエル人の類のない力に恐れて、彼らを滅ぼそうとするようになった。そこから長い迫害がはじまり、イスラエル人は絶滅の危機に陥った。そのようなとき、神がモーセを遣わして、人々を救い出すことがなされた。
 そのとき、ようやくヨセフの遺骨がエジプトから、カナンの地へと運ばれたのであった。

神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った。
モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。(出エジプト記十三・1819

ヨセフは、息を引き取るときに、「神は、必ずあなたたちを顧みてくださる。そのときには、わたしの骨をここから携えて上るように」と言った。それは神が歴史を導く神であるということを、神からの直感で知らされていたのである。今すぐでなくとも、たとえ数百年後であろうとも、神はその万能の御手をもって、イスラエルの民族を動かし、エジプトを動かし、世界の歴史の流れのなかで神を信じる民を用いてその業をなさっていく、そのような壮大な歴史を導く神、を示されていたのであった。
 神はヨセフを導いた、驚くべき出来事を起こして、殺されそうになり、遠くに一人売り渡されて絶望に瀕する状況になった。にもかかわらず、神はそれらすべてを導いて最善にされた。それはヨセフの生涯を通じての経験であった。
 しかし、神の導きは決して特定の個人にだけ起こるものではない。それは一つの民族、国家をも導き、支配しておられるのである。
 創世記の最後の章は、一見単なる遺言とか兄弟たちの罪の赦しを願うだけの記事のように思われがちであるが、実はこのような深い意味と、大きな展望をもって記されている。
 そして、罪の赦しの重要性、個人と世界を導き、歴史を導く神は、キリストによって世界に啓示され、現代に生きる私たちにも同じようにその真理が迫ってくる。創世記というはるかな古代、数千年前に記された文書に流れている真理は、いまも流れ続けているのである。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。