リストボタン旧約聖書における神の愛  2005/8

聖書において、「愛」が言われるときには、ほとんど新約聖書の内容からである。主イエスの「隣人を愛せよ、敵を愛せよ、まず神の国と神の義を愛せよ」、という言葉や、「人間の罪の赦しのために十字架にかかって血を流し、いのちをささげたほどの愛」といった言葉などがまず思い浮かぶであろう。
また、ヨハネ第一の手紙にある「神は愛である」、使徒パウロの手紙にある、「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛である。そのうち最も大いなるものは愛である」という言葉なども必ずあげられる言葉である。
しかし、旧約聖書の神も新約聖書の神も同じであるゆえ、新約聖書の神の本質である愛は旧約聖書にも随所に記されているのであるが、一般的には旧約聖書は義の神、裁きの神というように受けとられていることが多い。
しかしこれは大きな誤りである。ちょうど、アメリカの大統領がイラク戦争を旧約聖書の戦いを持ち出して正当化したように聖書のある一部を取り出すと大きな間違いをすることがある。旧約聖書では神が戦いを命じている。しかし新約聖書においては、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」、と言われているほどである。武力をもって敵を攻撃し、滅ぼせなどとは全く言われていないのは新約聖書を見れば明白なことである。
それと同様に、旧約聖書というと義の神、裁きの神というイメージしか浮かんでこない、という人が多い。それは聖書そのものの内容を深く知らない、ごく表面的に一部を読んだだけ、あるいは他人が書いているものをそのまま鵜呑みにしているからである。
旧約聖書の最初の書である、創世記にも神の愛ははっきりと記されている。というより聖書の巻頭に置かれたこの書は聖書全体のメッセージともなっているのである。
聖書の最初におかれた創世記には、まずこの世には完全な闇と果てしない混乱とがあったことが記されている。そしてそのただなかに、神が「光あれ!」と言葉を出された。それによって、深い闇の中に光が現れ、神の言葉に従って混乱の極みであった暗黒世界が秩序あるものとして整えられていった。
これは人間の心の状態を映し出している。私自身、この箇所はキリスト者となる前には、現在の自分とか世界とは何の関係もない古代の話だと聞き流していたであろう。実際、私の大学時代、キリスト者となって間もない頃、親しかった理学部の友人にこの創世記の話を少ししたが、彼は「古代の神話だね!」といって笑って聞き流したのみであった。
しかし、この創世記の最初に実は聖書全体のメッセージが凝縮されているのである。この世は闇であり、何が正しくて歩むべき道なのか、まるで分からなくなった無数の人たちの群れがある。そうした闇と混乱のただなかに光が差し込むとき、まったくそれまでと異なる状況が訪れる。
闇にあるときにはどう考えたらいいのか、この深い悩みと苦しみからいかにして脱することができるのか全く分からなかった。そして周囲の友人や親、大学の教師たちもそのような答えはまるで持っていなかった。そこから私は引き出されたのであった。それは光が闇に閃光のように差し込んだのであり、この世を貫いている真理の流れが初めて感じられるようになった。
そこに深い神の愛を実感した。それまではどんなにしてもその恐ろしい闇から抜け出すことができず、どんな人間もどうすることもできなかった闇から救い出して下さったのは、人間の愛でなく、神の愛そのものであった。
キリストのはたらきもまさにそのような闇から救いだすことであったし、そのためにこの世に使わされたのである。
このように、聖書の冒頭にある有名な言葉、闇と深い淵、あらゆる混乱のただなかに「光あれ!」と言われて、そこに光が存在しはじめた、という記述は、聖書全巻を貫く神の愛を宣言しているものなのである。
人間の苦しみや悲しみはいろいろな場合に生じるからだれでも何らかの形で持っている。愛する者が奪われた、人から認められず、愛されず無視されたり見下される、差別される、貧困や病気、物質的には豊かであってもなすべきことが分からない、希望がない、生きる支えがない等々。そのようなときには心に闇があり、考えるべきこと、生きるべき道が混乱して分からない、ということである。生きていく力もなく、そのような気持ちにもなれない、という状況である。
「光あれ!」という聖書の最初に出てくる言葉は、そのようなあらゆる状況から導き出すものと言えよう。
愛とは苦しみや悲しみの中においてこそ、いっそう深く感じるものであり、そのように光を与える神の愛が全巻の最初のところに与えられるところに、聖書が愛をメッセージとしているのが浮かび上がってくる。

次に、旧約聖書における神の愛は、導く愛というかたちではっきりと示されている。
創世記で重要な人物は、アブラハム、ヤコブ、ヨセフたちである。これらの人物はさまざまの困難を経て、すべてよりよきところへと導かれていったのであり、その導きのなかで、神の愛を深く知らされていった人たちであるが、 そのような、神の生きた導きによって神の愛を知らされていくということは、現代の私たちにも常に経験されることである。
アブラハムは最初は現在のイラクの南部地方に住んでいた。そこから導き出されて、遠いカナンの地へと旅立った。それは、その長い旅路を導かれる過程で、当時は誰も知らなかった唯一の神を知らされ、その目的地においての生活において深く神を知らされて生活するためであった。
これは私たちにおいても、自然のままの状況においては神も知らず、歩むべき道や目的地も分からないままであったのを、唯一の正しい道へと導かれることの重要性を示している。
周囲の人々は唯一の神がおられるなどと全く知らなかったのに、アブラハムはとくに選び出されて唯一の神を知らされた。彼にとって、それは驚くべきことであったし、そのことに深い神の愛を知らされたのである。
愛というのは、長い期間にわたって持続しているものほど真実な愛である。人生の数々の波の中、嵐が吹きつける中で一貫して自分に注がれている愛を受けていくときに、その深い愛をいっそう感じるようになる。
導きのうちに実感する愛はそのようなものである。それはこの世でふつうに言われている愛のように一時的なものと本質的に異なるものだと言えよう。
アブラハムは文字通り全く未知の世界へと導かれ、距離的にいっても、はじめに住んでいたカルデヤのウル(現在のイラク地方で、ユーフラテス川の河口に近い所)から、目的地のカナンまで千五百キロ以上あり、さらにエジプトまでも飢饉のときには旅立っていったが、それは全体では二千キロを越えるような距離である。砂漠のような乾燥地帯においてこのような長い距離を移動し、さまざまの困難に直面しつつ、アブラハムは神の導きを実感していった。その長い歩みのなかで神が個人的に親しく語りかけ、本当の歩むべき道を指し示したのであった。
アブラハムの孫にあたるヤコブにしても、兄からいのちを狙われるといった危機的状況のなかで、遠くへ親もとを離れて旅立っていった。その過程で、彼は自分自身の欠点にもかかわらず、神が現れ、天に通じる階段が現れ、天使が上り下りしているのを見るという得難い経験を与えられた。ここにも一人で未知の土地へと歩むものを、愛をもって見守り導く神の姿がはっきりと表されている。
そして目的地に着いたのちにさまざまの苦労を経て、妻にも恵まれ子供も次々と与えられて、それが結果的に神を信じる大きな民族のもとになったのである。
その後、ヤコブの子供のヨセフが兄弟たちの悪意により、隊商に売られ、遠くエジプトに連れ去られた。彼は、家族から引き離され、ただ一人エジプトで生活することになった。彼は勤勉で英知に富んだ人間であったが、悪しき女に謀られて牢獄に入ることになった。そのような苦境にあっても神は一貫してヨセフを導き、その苦しみのただなかに大いなる業をなし、ヨセフはただ神からの啓示によって、となり人の悩みを解決し、牢獄から出ることができた。その後もやはり神の英知を受けていたので、エジプト王にも認められるようになり、政治の最高の地位にまで上ることになった。しかしヨセフはそのようなことによっても傲慢になることもなく、神のしもべとして歩んだ。そのとき、かつて自分を殺そうとまでし、外国の商人に売り渡してしまった兄弟たちが飢饉のために食物を求めてエジプトにやってきた。そして、弟のヨセフに出会った。兄弟たちはかつての弟がそのような高い地位にあるとは夢にも思わなかった。ヨセフは兄弟たちが悔い改めているかどうかを調べようと考え、彼らを試みた。そうした過程で、兄弟たちのなかのユダは深く悔い改め、自分がどんなに苦しむことになっても、末っ子や年老いた父のことを考えるという姿勢があるのがはっきりとし、かつそのような苦しみに遭うのはかつての自分たちのヨセフへの罪のゆえだと気づいたのであった。
このようにして、兄弟たちはかつての罪を悔い改め、和解も与えられ、長い間会うこともできなかった父との再会をも果たすことができたのである。
創世記の最後の部分で、ヤコブは次のようにヨセフを祝福して言っている。

わたしの生涯を今日まで
導かれた牧者なる神よ。(*
わたしをあらゆる苦しみから
贖われた御使いよ。
どうか、この子供たちの上に
祝福をお与えください。(創世記四八・1516より)


*)「導かれた牧者(なる神)」の原文は、「養う、草を与える、飼う」といった意味の動詞の分詞形が使われている。参考のため、英語訳のいくつかをあげておく。(なお、詩編二三編の、有名な、「主はわが牧者」という箇所にもこの箇所と同じ動詞の分詞形が使われている。)

The God who has been my shepherd all my life to this day,
NIV,NRS
The God who has led me all my life long to this day,
RSV
The God which fed me all my life long unto this day,
KJV

このように、私たちを長い人生を通して一貫して導き、生かし、霊的な養分を与え、導いていくところにヤコブは生涯を通して働く神の愛を感じ取っていたのである。
ここから、私たちは詩編二三編の有名な詩が実はそのような導く神の愛を内容としていたのに気づくのである。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。(詩編二三編より)

神の愛の内に置かれている人であっても、苦しみや死に瀕するような艱難に直面することもある。その点で、安楽や苦痛のないものを与えようとする人間の愛と大きく違っている。
 しかし、そうしたすべてを通して神は導かれる。敵対するものが周囲にいて苦しめることもある。しかしそのような状況にあってもなお、霊的には満たし、力を与えて下さる。
そしてよきものであふれさせて下さるという。生涯自分に恵みを与え、慈しみを注いで下さる。そこに確かな愛がある。
こうした導きの愛は、旧約聖書の預言書である、ホセア書にも、「私は愛のきずなで彼らを導き」(ホセア十一・4)と記されている。 (参考 I drove with a harness of love, Moffat訳)
このような導きの愛こそ、出エジプト記や、サムエル記などの歴史書にはっきりと記されている。出エジプト記は、エジプトの奴隷となっていた民がいかにして神の導きの愛を受けて、エジプトから脱出し、砂漠地帯をいかにして、神が導き、助けたかが記されている。
また、旧約聖書の後半部を占める預言書はどうか。それは、間違った道を歩もうとする人々に対して、預言者を遣わし、何とかして正しい道に引き戻そうとする、神の愛の現れと言える。
ユダの人々は神の言葉を知らされているにもかかわらず、神に背きまちがった道を歩もうとした。それゆえ、神は預言者エレミヤを遣わし、人々の間違いを指摘し、神に立ち返るように繰り返し教えた。しかし人々はまったくそれを意に留めず、背き続けたためについに、エルサレムは焼かれ、略奪され、多くの人たちが殺され、多くが遠く離れたバビロンへと捕囚となって連れて行かれた。
しかし、そのような悲惨な事態となっても、なお、神は人々を愛して、その捕囚も永続的なものではないと言われた。

それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、
わたしに出会う、と主は言われる。
わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。(エレミヤ二九・1114より)

このように、数々の困難や危険な状況に陥ったのは、決して単なる裁きではない。そうした厳しい状況を通って罪を知り、本当の悔い改めに至るようにとの神の愛が背後にある。
預言書というと、正義の神が人々の現状を見て警告し、厳しく裁くことを書いてあると思われていることが多い。しかし、エレミヤは神の深い愛を一貫して告げたのであった。

しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。
そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。
わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す。(エレミヤ書三十三・)

かつての背信行為にもかかわらず、時がくれば、神は彼らを赦し、繁栄を回復させる、そしてすべての罪に赦しを与えるという。 このような神は愛の神であって、決して単なる裁きの神ではない。
次に、神の愛は、旧約聖書の詩編にしばしば表されている。

詩編の最初に置かれている詩は、つぎのような内容である。

ああ、幸いだ
悪しき者のはかりごとに従って歩まず
主の教えを喜び
その教えを昼も夜も心にとどめる人
そのような人は、流れのほとりに植えられた木のようだ。
時が来れば実を結び、その葉もしおれることがない。(詩編第一編より)

これは、悪に従うのでなく、真実の神に従うときに豊かな恵みが約束されていることが全体の詩編の総括のようにして語られている。一見したところでは、神の愛がここに言われているとは感じられないという人もあるだろう。
しかし、本当の幸い、心の深い満足や喜びが、生まれつきの健康や能力、あるいは境遇や血筋といったことでなく、ただ「主の教え(神の言葉)を喜び、それを絶えず心に持つ」ところにある、ということは、万人にとって、特に弱い立場に置かれている者にとっては大きな福音である。
 というのは、このようなことは、本来だれでもできることである。 大きな会社の経営とかスポーツで優勝、音楽で演奏会をする、学者になる等々は、だれでもができるわけでは決してない。ごく一部であるし、生まれつきの知能、能力とか天分といったものが大きく影響する。それらができるものほど幸いだ、というのなら、生まれつき、幸いな者とそうでない者が決まっていることになる。それではそのような能力のない者は幸いから見捨られたようなものである。
私たちの幸いは、神の言葉への心の態度によって決まる、という、本来なら考えたこともないようなところに、幸いの中心を置くということは驚くべきことである。
 人間の社会ではどんなに真実にしていたからといって報われるとは限らない。不信実なものがかえって多くの報酬を受けたり、もてはやされたりすることも多い。
ただ、神の言葉を喜び、それをいつも心にかけているだけで、私たちは魂がうるおされ、よきものがそこから生れる、それは神が私たちを愛して下さっているからであり、ここに神の愛がある。
神に従わない、言い換えると不信実で悪に加わるなら、当然よきことはない。これは聖書にかぎらず、常識的にも当然のことである。しかし、神の言葉を心にいつも愛し、喜んでいるだけで、金では買うことのできないよいものが与えられる、心がうるおされるといったことは、この世では考えられないことである。
それは神からくる祝福であり、神の「いのちの水」が与えられることであるから、神などないという人には、経験できないことになる。
また、詩編においては、次のように、非常な苦しみにある状況から救い出されたという経験が多く記されている。

主よ、憐れんで下さい。
私は嘆き悲しむ。
主よ、癒して下さい。
私は恐れおののく。
主よ、いつまでなのか。
主よ私を助けて下さい。
私は嘆き疲れ、夜ごとに涙はあふれる
苦しみのゆえに私の目は衰え、
私を苦しめる者のゆえに、老いてしまった。

主は私の泣く声を聞き、
私の嘆きを聞き、
主は私の祈りを受け入れて下さる。(詩編六編より)

この詩に表されているような耐えがたいと思われるような苦しみや悲しみから救い出されるという経験、それが詩編の中心にある。そのような苦しみは人間によっては救われない。どうすることもできない。それができるのは、神であり、神の愛である。
人間が協力して一つの仕事をなし遂げるということはよくみられる。一般的に会社などでの仕事とは大体そのようなものであるし、チームで力を合わせて行なうスポーツとか器楽演奏、演劇なども同様である。しかしそこには互いに愛があるかというと、そのような仕事と個々の人間への愛ということとは別であって何の関係もないということが多いだろう。
医者や看護師にしても、病人の苦しみや悲しみをいやすことも部分的、あるいは表面的にしかできない。ガンの重度の患者の痛みや苦しみを薬で一時的に弱めてもその患者や家族を包む絶望や不安や悲しみといったものはどうすることもできない。
苦しみや悲しみが大きいほど、人間はますますどうすることもできなくなっていく。しかし、神はまさにそのような人間が手を触れることのできないような深い苦しみや悲しみに御手を差しのべて下さる。
それが神の愛である。
この詩においても、人間が自分の悲しみや苦しみを聞いてくれた、人間がいやしてくれた、というのでなく、神だけがその祈りを聞いて下さり、その深い悲しみのもとをいやして下さるという経験がある。

この「いのちの水」誌にも何度か取り上げてきた、次の有名な詩はどうであろうか。

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
(詩編十九・23より)

これは、一読しただけでは、神の愛とはとくに関係がないと思う人が多いだろう。
しかし、これは星や月など天体や大空のさまざまの雄大で美しい姿が神の御手のはたらきを示している、というだけではない。星や、夕焼けや白い雲、青い空といったものだけでなく、野草の清い美しさやとくに大きい樹木の祈るような姿、それらは神がいかに絶大な力を持った存在であるかを示すとともに、神の人間への愛をも示しているのである。
私たちが、闇に苦しみ、人間の汚れに心が痛むとき、「人間から離れよ、ここに神の国の美しさや清さがある、それに接して心を癒されるように」と私たちを導こうとされているのが自然の美や力なのである。
私自身、かつて人間の罪や汚れのなかでどうにもならないとき、しばしば山を歩いた。山の世界のもつ清さと揺るぐことのない姿、ところどころの野草などにどれほど心が癒されたことであろうか。山々の連なりのただなかに身を置くとき、大きな見えざる手に包まれるような、人間世界の汚れがすべて洗い流されるような気持ちになったことは幾度あっただろう。
物言わずただ沈黙をもって、その存在を続けている山々が実は目には見えない神の大きな愛の表現であると感じたのであった。

昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(同35

このような表現も、神がさまざまの手段を用いて、その真理を人間に伝えようとされていることが暗示されている。このように真理が絶えず世界に伝えられようとするのも、人間が闇のなかにあり、真理を知らず歩んでいる状態であり、そのような人間の現実に向かって心を注ぎだそうとする神の愛の表れなのである。

主イエスも言われた、

あなたがたの天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、
正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。(マタイ福音書五・45より)

この言葉には、敵対するものも、神に従おうとする者にも同じように包み込む神の愛を指して言われている。主イエスは神がそのような御方であり、ご自身もその神のお心をそのままに行なう御方であった。そして太陽が万人を照らし、雨がすべての人に同様に降るのも、神の愛を指し示すものだと言われた。
このように、自然の現象のなかにも、よく見つめるときにはそこに神の人間への愛が込められており、神の愛を何らかのかたちで指し示すものとなっている。
これが旧約聖書に収められた詩集(詩編)と他の国々の詩集との大きな違いである。他の詩集、中国や日本、あるいはギリシャなどの古代の詩集は、自然を歌うものや、苦しみや悲しみを歌うもの、男女の普通の愛情の歌、戦いを主題としたものなどいろいろあるが、どれにおいても、神という永遠の存在からの人間への愛などというものを見出すことはできない。それはそのような神がおられることを知らないのであるから、当然だと言える。

そしてこのように愛によって導く神は、人々を最終的に神の国に導くためには、まったくそれまでの方法とは異なる道を新たに導入して下さった。それが、イザヤ書の五三章にある。
神が特別な人をこの世に遣わし、その者に他の人間の罪を担わせ、そしてそれらをすべて担って誤解と中傷のただなかで殺されていくという、かつてない道がそれであった。そこにはいかなる方法をもってしても、人間を救い出そうとされる神の愛がある。
このように闇に光を与える神は、またいかに歩むべきか分からない人間を導き、その罪を赦し清めつつ、導いていかれる神である。そしてその愛に応えることなく背き続ける人間に対してさえも滅ぼしてしまうことをせず、さらに全くあらたな道を備えて下さったのであった。
そしてこの愛が実際に歴史のなかで現れたのが、イエス・キリストであり、その十字架による罪のあがないであり、復活であった。
このようにして旧約聖書における神の愛は、はじめはイスラエル民族に示されたのであったが、そのまま新約聖書のキリストにおける神の大いなる愛、全世界をうるおす愛へと流れていくのである。


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