平和への道 2005/9
民主党の新しい党首は、憲法九条の改定を主張し、集団的自衛権をも認める考えを持っている。自民党のなかにすら、日本を戦争に巻き込むことにつながる集団的自衛権は認められない、とする人たちもいることを考えると、野党といっても、憲法問題においては自民党と変わらない考えを持った人が党首となったのである。
集団的自衛権を認めるなら、例えば、アメリカがアジアや南アメリカなど世界のどこかで攻撃を受けたら、日本の自衛隊もアメリカと共同して戦争に加わるということになる。攻撃を受けなくとも、攻撃を受ける可能性が高いということで、アメリカがイラク戦争のような自衛のための攻撃・戦争を始めたらそれにも日本が加わるということが生じてくる。現在の憲法では集団的自衛権は認められないというのが広く認められている考え方であるにもかかわらず、自衛隊をイラクに派遣していることを考えると、公式に集団的自衛権を認めたなら、いくらでも深入りして本格的な戦争に加わることになるだろう。
このような状況にあって、キリスト者は平和ということをどのように聖書が言っているかを常にはっきりと知っておかねばならない。
キリストは武力をもって敵に対抗せよ、とは決して言われなかった。それは敵を愛せよ、迫害するもののために祈れ、という主の教えでも明確である。またペテロがイエスを捕らえようとする人たちに対して剣を抜いて切りかかったとき、「剣をおさめよ、剣をもってするものは剣で滅びる」という言葉をもって、武力によって対抗することの無益を示された。
また、使徒言行録にはキリストの弟子たちの行動が記されているが、そこにはステパノやパウロたちが迫害を受けて、石で打たれることもあったが、一切それに対抗して武力などで対抗しなかった。
このように見てくると、敵対するものであろうととにかくだれかを殺して何かを守る、という発想はキリストやその最も忠実な最初の弟子たちにはなかったことが分かる。
こうした武力を用いない精神と相通じるのが、憲法第九条である。
しかし、キリストが平和について言われたのは、このような目に見える戦争と平和ということだけでは決してない。
武器を使う戦いとは別に、目には見えない霊的な戦いが常に人間をおびやかしていることをキリストははっきりと見抜いていた。
それゆえ、平和憲法とか何もなかった時代においてもそのような霊的な戦いはあったし、その戦いに勝利せねば私たちは滅びるのであって、その勝利の道を主イエスははっきりと教え、指し示している。
平和憲法があっても、このような内面の戦いに破れ、次々と滅びに陥る魂が後を断たない。この戦いにはいかなる法律や権力、あるいは憲法もどうすることもできず、ただ、私たちが神の力、キリストの罪の赦しの力を受けることによって初めて勝利できる。
これこそが、どんな時代、いかなる政治的状況にあっても、与えられる魂の平和であり、これをこそキリストは「主の平和」と言われて、十字架につけられる直前の最後の夕食にて約束されたことなのである。
また、新約聖書には、次のように記されている。
…私たちの戦いは血肉を相手にするものでなく、…悪の霊を相手にするものである。…だから、信仰を盾とし、平和の福音を告げることを履物とし、神の言葉を霊の剣として用いなさい。…(エペソ信徒への手紙六・11~17 より)
キリスト者の戦いというのは、目に見える人間や組織、国家ではない、目に見えない悪の力との戦いである、だからこそその武器も神の力であり、神の言葉という霊的なものなのである。
神を信じない者は、社会的平和しか知らないであろう。しかしその社会的平和だけでは人間が悪との戦いに次々と破れて滅んでいくのをどうすることもできない。
キリスト者は二つの平和への道、すなわち、武力によらない社会的平和とキリストによる霊的平和を知らされている。そしてこの二つの道を繰り返し主張していくことこそ求められている。
そうした平和への道を確信し、それを周囲の人々に知らせること、それが主イエスの言われた次の祝福を受け継ぐことになる。
「ああ、幸いだ、平和を造り出す者たち! かれらは神の子と呼ばれる。」(マタイ福音書五・9)