価値と価格 2005/9
この二つの言葉は、よく似ている。そして同じような意味があると思われている。
しかし、この世の人は、「あらゆる物の価格を知っている。しかし、何の価値をも知らない。」(He knows the price everything and the value of nothing. )という言葉がある。
価格(値段)と価値というのは、密接な関係があると思われている。たしかに、新車は中古車より価値があり、新しい家は、古い家よりも価値があるから、価格も高いというのはごく当然のことである。身の回りの物はこのようにたいていが新しい価値あるのは価格も高いということで、この二つが同じだと錯覚している場合も多いだろう。
しかし、例えば、太陽は絶大な価値がある。もし太陽が光を失ったら、地球はたちまち暗黒となり、すべてが凍結した世界となってしまう。太陽が輝いて月を照らしている現在でも大気のない月では、昼間の気温は一三四度にも達するが、夜はマイナス一七〇度にも下がることを考えても、太陽がなくなったら地球がどのように恐るべき状態になるかがうかがえる。
このようなことを考えれば、目に見えるものとして太陽はあらゆるものにまさって価値があると言えよう。
しかし、太陽に価格があるだろうか。
また、酸素と窒素が適当に混じって私たちの地球を取り巻いている大気がなかったら人間は生きていけない。人間も植物も大多数の生物も生きてはいけない。
このことを考えても大気もまた絶大な価値がある。
このように考えると、雨も同様で雨がなかったらたちまち水不足となり人間は生きていけなくなるし、植物も枯れてしまい、食物も生産されなくなる。
植物全体も、単に米や小麦や野菜だけが必要な植物でなく、地上の植物があるからこそ、酸素が提供されているのである。
こうしたことを考えると、計り知れない価値があるにもかかわらず、価格がまったくつけられないものもたくさんあるのが分かる。
また、星や雲、夕日や夕焼け、あるいは渓谷や山々など自然の美しさはどうか。それらも人によってはどんな芸術にもまして心を打つものであって、それらがすぐれた芸術家に最大の影響を与えてきたのである。著名な画家の絵が何億円という価格がつくことがある。しかし、その絵画よりはるかに壮大で、無限の深さをもった大いなる自然については全く無関心であるということも多い。
芸術家は単なる人間であり、自然のある一部を深く受けとってそれを音楽や絵画、あるいは文学に表したものにすぎない。彼らがそうした創作をなしえた源泉である自然そのものは、無限の英知を持ち、あらゆる美や力を持っている神の芸術作品なのである。
一本の野草の花であっても、その精緻な美しさや多様性はいかなる芸術家もはるかに及ばない。そう考えてみると、この世には計り知れない価値がありながら、価格のつかないものは至るところにあるのだと分かる。
同じように、清い心や真実な心、あるいは誰にでも及ぶような愛、それは価格をつけることができない。
この世のさまざまのものは、価格のつくものを中心に動いていると言えるが、神の国は価格の付けられないもの、価値あるものを中心に動いていると言える。
そして神の前にはだれでもが、いわばVIP(Very Important Person 「重要人物」の意)としてみなして頂ける。実際、聖書には次のように記されている。
…あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの…(イザヤ書四十三・4)
と言われている。
聖書において最も大切なもの、永続するものは、「信仰と、希望と(神の)愛」であると言われている。これらはいずれも、価格の付けられないものであって、無限の価値あるものである。
この三つをしっかり私たちが持っているとき、身近な雲や植物、夕日や川の流れなどのなんでもないようなもののなかに神の国の大いなる価値が込められているのを感じることができる。
そしてどんな人間も死んだら無になり、価値はなくなる、と思われているなかで、キリストにつながっているだけで、私たちは死んでもキリストと同じような存在に変えられ、最も価値あるものに変えられるという約束を信じることができる。