リストボタン悪の霊を追いだす力   2005/10

聖書のなかには、現代の私たちが読んで違和感を持つような箇所も多い。そのような箇所は、一読するだけでもうあまり読まないということになる。
しかし、聖書、とくに新約聖書はどこをとっても一見あまり我々と関係のないような内容であっても、その奥に重要な内容が秘められていることがしばしばある。
つぎのようなもその一つである。イエスがユダヤ人の会堂で教えておられたときの記述である。

人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」(ルカ福音書四・3136

現在では、悪霊とかそれを追いだすなどといった言葉は一般の人はほとんど使わないし、そんな現象を身近に見たことのない人が圧倒的に多いだろう。
しかし、悪の霊、あるいは汚れた霊とかサタンとか言われている、目に見えない悪の力というのは至るところで見ることができる。
新聞やテレビで報道される事件、一人や二人の人間が引き起こす特異な事件や国家的規模でなされる内戦やテロ、戦争などすべて悪の力がなしていることであって、繰り返し日常的に報道されている。そしてそのようなマスコミで取り上げられるのはほんの一部で、悪の力の働きは私たちの身近な家族や職場、近所などなど至るところでも見られる。
それどころか私たちの心のなかにもそのような悪の力がはびこり、それに負けているのが現状である。
私たちが人を嫌ったり、憎んだり、あるいは傲慢になったり、嫉妬や悪口を言い合うなどごく身近なところで日々生じていることも、その背後にはそれを抑えることのできない悪の力がある。
キリストの最も重要な弟子とも言える、ペテロは、三年も主イエスに従った人であったが、彼ですら、イエスが自分の十字架での処刑が近いこと、そして復活することなどを告げたとき、ペテロは「そんなことがあってはならない」と言ってイエスを諌めようとした。そのとき、主イエスは、「サタンよ退け、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と厳しく叱責された。このように、サタン(悪の霊)はごくふつうに見える考えのなかにも、心のなかにも入り込んでくる。このような厳しい基準で見るなら、人間はだれでも何らかのかたちで、悪の霊あるいは汚れた霊といわれる悪の力に支配されているということになる。
それゆえに、人間は純粋に他人のためとか真理のためなどといって生きることができないのである。他人のために純粋な気持ちでしている、といっても、もし相手が非礼なことをしたら、すぐに腹をたてたり、憎んだりすることになるのは、それはやはり自分へのお返しを期待する心があるからである。主イエスが、相手が自分にお返ししないから、憎むなどということは全くなかったのと比べると人間の不純さがすぐに分かる。
ここで言われていることは、主イエスは悪の力そのもの(悪霊)を追いだす権威を持っているということである。これは新約聖書において一貫して現れるテーマである。主イエスの働きのすべてはこの主イエスの比類のない権威、力が主題となっている。それゆえ、ルカ福音書においてもこのテーマがイエスがなさった最初のわざとして記されているのである。ここには、この世が悪の霊の支配下にあること、それゆえそれに負けて人間が悪に陥り、本当の幸いから遠く離れていく。主イエスはそのような人間の状況を根本から変えるためにこの世に来られた。
この世が悪の霊の支配にあることは、エペソ書2章にあるし、主イエスが来られた目的が、聖霊を注ぐことにあったのは、このようなことと関連している。主イエスは悪の霊、汚れた霊を追いだし、聖なる霊、清い神の霊を人間に与えるために来られたのである。
この世は、複雑なようで実は単純である。それは、神の霊と悪の霊のいずれに支配され、いずれに導かれて生きているかということである。
この箇所のような内容は、現在ではまるで私たちとは異質な世界のように見えるので、こうした箇所を引用する人は少ない。
しかし、このような記事がなぜルカ福音書やマルコ福音書で最初のキリストのわざとして特筆されているのであろうか。その理由は、人間にとっての根本問題の解決がそこにあるからである。
私たちが罪を犯し、人間関係が壊れ、争いや憎しみ、妬み、そしてそれが国家的規模となって戦争などがあるのは、すべてこうした悪の霊に支配されるからである。
そうしたすべては私たちからその根源を除き、聖霊を与えられることによって解決の道が開けている。
主イエスがこの世に来られたのは、単によい教えを与えるためでない。キリスト教という言葉が一般の人々には誤解を与えている。このキリスト信仰の根本は、○○しなさい、といったよい教えなのだ、というように受け止めていることである。 しかし、単なる教えはいくら受けてもそれを実行する力がなかったら何にもならないし、そんなことは聞きたくないという気持ちになるだろう。
しかし、キリスト信仰の本質は、力である。神の力そのものであるからこそ、人間ではどうすることもできない心の中の悪い思い、つまり憎しみや不正なこと、妬みや怠惰などなどの汚れた思いを追いだすというのは、力である。人間の力ではなく、神の力によってのみそれがなされる。
イエスがほかのあらゆる人間と根本的に異なるのは、そうした力を与えられていたところにある。それゆえにこそ、最大の力である死の力に対しても勝利して復活をされたし、人間の根源にある罪の力を滅ぼすこともできた。
この箇所はマルコ福音書とほぼ同様であるが、参考のためにマルコ福音書の部分をあげる。主イエスが汚れた霊に向かって、「黙れ、この人から出て行け!」と叱ると、ただちに汚れた霊が出て行ったという記述に続いて次のように人々の反応が記されている。

人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(マルコ福音書一・27

A new teaching--with authority!
New Revised Standard Version

主イエスが全く新しい、だれもかつて見たことも聞いたこともないようなお方であるという、その本質は、力と権威をもって語り、その力をもって悪の霊を追いだすことができるお方であるということであった。
学問しても、経験を積んでも、また家柄や財産、社会的地位などあっても、ここで言われているような力や権威は生れない。

人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。(マルコ福音書一・22

主イエスの持っていた力と権威は神に由来するものであった。
その力によって私たちの罪が赦され、死の力をも超えて復活をされた。
単なる新説ではない、また面白いと言える教えでもない。聖書講義と称する長い時間の話しにおいて、いかに複雑な学問的な内容であっても、まるで力がないということがある。単にイエスとパウロの所説の相違とか、原文の解釈のさまざまの多様性を列挙して一つ一つ議論していくなど、それは知的賜物が与えられ、時間を費やせばできることである。しかし、そうしたことによっては、悪に打ち勝つ力は与えられない。
いかに人生経験を積んでも、それだけではそのような力は伴わないし、かえって世の中の悪に染まって懐疑的になり、幼な子のように神を仰ぐことをしなくなる、そして力を失っていく人も多い。
善き力の欠乏、そのことにあらゆる問題の原因がある。キリストはまさにその善き力をこの世にもたらすために来られたのである。
それが、悪の霊を追いだし、神の力と権威をもって語ることであった。
キリストが初めて弟子たちを遣わすとき、キリストの教えと同じようなことを教えるようにと派遣されただろうか。それは当然そのように言われたであろう。
しかし、キリストの十二弟子が初めてキリストから派遣されるとき、聖書に記されているのはそのような教えを忠実に語るように、との命令でなく、次のようなことであった。

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。(マルコ福音書十・1

このように、イエスがつねに考えておられたことは、人間を迷わせ、苦しませ、悪事へと誘う悪の力に勝利する力であったのがうかがえる。主イエスが教えられた祈り(主の祈り)には、「御国がきますように。」というのがある。御国とは、神の御支配であり、その御支配のうちにある善きものすべてを指す。それは悪の霊が追いだされ、代りに聖なる霊がきますように! との祈りに他ならない。
こうした悪の力(霊)は、どこにでも入っていく。キリストのわずか十二人の弟子の中にも入っていく。キリストのような完全なお方がリーダーであっても、それでもなお悪の霊は忍び込んでいく。
これが現実の姿である。それゆえ教会であっても、親しい仲間であっても、なおそこに破壊をもたらす力は存在する。そのようなことは、すでに旧約聖書にも記されている。

わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえも
わたしにそむいた。(詩編四十一・10

こうした現実だけならば私たちは前進する勇気をついには失ってしまうだろう。しかし、神はそのような現実のただなかに、主に従う者には、そうした悪の力(霊)を追いだす力を与えて下さったのである。
そしてさらに、悪の力を追いだした後に、聖なる霊を与えて下さる。
このことの重要性は、主の復活が最初に知らされたのは、十二弟子でも、パウロでも宗教学者でも指導者でもなく、どうすることもできない絶望的なほどに悪霊に支配されていた一人の女性(マグダラのマリア)であったことにも現れている。
彼女は七つの悪霊を追いだしてもらった、と特に記されている女性であった。

イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。
悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、
ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

これがキリストが来られた目的であることは、例えばマルコ福音書でもこのことが最初に記されていることからも分かる。
わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方(キリスト)は聖霊で洗礼をお授けになる。(マルコ福音書一・8

一般の人々は、キリスト教というと水の洗礼を思いだす。しかし、キリストの本当の目的は水による洗礼でなく、聖霊を注ぐことなのであり、最初にあげた、一見奇異に見える箇所、現代の私たちには全く関係のないように見える内容の奥に、当時だけでなく現代に至るあらゆる世界において、根本的に重要な問題の解決の道が示されているのである。


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