巻頭言
私は確信している。死も支配するものも…どんな被造物も、
私たちの主キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない。
(ローマ書八・38~39より)
めぐみの深みへと 2005/11
聖書には、それを読むだけでだれにでも何が書いてあるか、一応分かると思われるような内容がある。例えば次のような箇所である。
…イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。(*)
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。(ルカ福音書五・3~6)
(*)「深み」と訳された箇所は、新共同訳では、「沖に」と訳しているが、原語はバソス(bathos)で、「深み」という意味の名詞であるために、例えば英語訳では、「沖」を意味する offing とか offshore といった訳語を用いずに、ほとんどが、「深み」depth あるいは、 「深い水(海)」deep water を用いて Go into the depth のように訳されている。 なお、潜水艦として有名な、バチスカーフとは、バチュス bathus(深い) + スカフォス skaphos(船)というギリシャ語を合わせて作られた言葉である。
このような記事は、ただ読むだけでは、「こんなことがあるはずがない」と思ってすぐに読み過ごしてしまうか、それともすでにキリスト者となっている人なら、「こんなことがあったのか、イエスは、やはり特別な御方だ」と、昔の主イエスに感心してそれだけで終わってしまう。
しかし、この記事は決して過去の主イエスのなさったことを単に書いているというのではない。これは、現代の私たちにもかかわっている内容を持っている。
「夜通し働いたが、何も収穫がなかった」だけでなく、漁師は疲れ切っていた。徹夜で漁をするということは、実に体力を消耗することであり、しかも、その収穫が何もないということであったから、一層疲れは大きかったであろう。
長い間働いたのに、何も残らなかった、という意識は十年、二十年と働いてきたが何も残らなかったという気持ちに通じるものがある。私たちが、もし、目で見えるものを目的として働くなら、ついにそれは消えていくであろう。どんな大きな業績も、何かのきっかけによっていとも簡単に崩壊していくからである。そのことは、旧約聖書の創世記のバベルの塔の記事によっても明らかである。人間が傲慢さをもって何かを作り出したとしても、それは時がきたら簡単に崩れ去っていく。
いくら働いても収穫がない、実りがない、あるいは、何か空しい、心に残らないということは、多くの人が経験する感情である。ことに老年になって自分の過去を振り返ってみるとき、そのことを痛切に感じるようになる人が多いだろう。
実際この感情は、私自身すでに大学のときに感じ始めたことであった。何をしても、空しいのではないか、人間は最終的には滅びるのだ、 実りというのはないのだ、といった考えが頭をもたげてきた。そのような空しさは、青年時代からすでに生じるのであって、壮年期の働き盛りであっても同様である。それゆえに、老年になってからはいっそうその空しさが深まることが多い。自分の生涯は何をしてきたのだろうか。何が残るのか、といった疑問である。
そのような空しさと、実が残らないという実感こそは、私たちの魂の平安や喜び、生き生きした感情をかき消していくものとなる。
このルカ福音書の記事はそうしたさまざまのことを思い起こさせるものを持っている。
「夜通し働いたのに、なにもとれなかった」、この感情を根本から克服するものは何か、それが聖書の大きなテーマともなっている。
この空しさのただなかから、人が予想もしなかった道が続いている。それは、主イエスのみ言葉に聞き、従っていくという道である。とはいえ、そのようなことが、人生の根本的な空しさを克服するなどと到底思えない、という人が多い。
しかし、ペテロは、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。ここに大きな分かれ道がある。夜通し働いたということは、相当の疲労がある。揺れ動く舟の上で、夜も眠らず働いたからである。
しかし、それでもなお、主イエスの言葉はその疲労と無力感にもかかわらず、そこから立ち上がらせる驚くべき力を持っていたのである。
そして一見関係がないようであるが、これは、聖書全体を貫いている内容と結びついているのである。それは神は無からの創造ができるということである。
長い間働いて、何も得ることがなかった、収穫は無であった。しかし、無からの創造をなされる神は新たな収穫を生み出すことができる。ここに希望がある。
私たちの過去を振り返って何もよいことはなかった、どんなに努力しても実りはなかった、と思うとき、前途を見つめると無力感にとらわれる。
しかし、そのような過去の状況からは何もよいものが期待できないときであっても、無からの創造をなされる神に希望を持つことができる。
無からの創造など信じられないという人は多い。しかし、無からの創造ができないなら、この地球も十億年も超えたはるかな未来には、最終的には太陽の膨張によって高熱になり、蒸発して無になるという科学的予見を考えたら空しくならないだろうか。それよりもたいていの人にとってはあと七十年、八十年以内に訪れるであろう死の後に、無になってしまうのなら、私たちの努力とか働きとは何になるのか。
後世の人々のためといっても、その後世の人たちも最終的にはみんな死んでいく、とすれば最後には無になっていく、そんなことを考えたらどうして力強く生きて行けるだろうか。
無からの創造がないのなら、私たちの人生は最終的に無になってしまう。何十年の働きも消えていくのである。
この「無から造りだす」ということは、聖書には数多く見られる。
十字架上でイエスと同じように釘打たれた重い犯罪人が、死の直前に、主イエスに心を向けた。主イエスはそれだけで、この犯罪人に主イエスとともに最初にパラダイスにはいることができると約束された。
これも無からの創造である。この重罪人には過去を振り返ってもなにもよいことはなかっただろう。人生の最後が、人々の目にさらしものとなって十字架での処刑ということになったが、それだけならこの人のすべては無になっただろう。しかし、神はこの人がただ主イエスに心を向けただけで、消えてしまおうとする魂を引き上げ、最もよきところへと導いて行かれたのであった。
キリスト教の最大の使徒といえるパウロにしても、キリストの真理がまったく分からずにキリスト教徒たちを激しく迫害して殺すことにまで加わっていた。彼のなかにはキリストの真理は無であった。しかしそのようななかに神は光を与え、キリストの言葉を与え、聖霊を与えてキリストの使徒として新たな創造をされた。ここにも無からの創造があった。
主イエスはヨハネ福音書において、「人は、聖霊によって新たに生れなければ神の国を見ることはできない」と言われた。(ヨハネ福音書三・3~8を参照)
新たに生れるとは、新たに創造されるのであって、現状がどんなにみじめなものであっても、どんなに罪深いものであったとしても、あるいは以前はどんな状態であってもそれとは全く別に、聖霊によって創造されるというのは、最大の希望となる。
死はふつうには無になることだと思われているし、科学者もそのように考える人が多い。しかし、無からの創造を信じるときには、まったく異なる意味が現れてくる。死という無になることのただ中から神は、人をよみがえらせ、キリストに似たものとして新たに創造されるのだからである。
今まで生きてきたのに、収穫が無であったと感じている人であっても、無のなかから命を創造してくださる神を信じるとき、神は新しく祝福に満ちた収穫を与えて下さるのである。
み言葉に従う
つぎに、このルカ福音書の記事が告げようとしていることは「み言葉に従う」ということである。人間はだれでも、自分の考えに従うか、他人の考えあるいは他人の集合である周囲の人たちや伝統、習慣などに従っている。
いつもおびただしい量の情報が、テレビ、新聞雑誌、インタ-ネットなどで流されている。そこでの言葉は圧倒的多数が、人間の言葉であり、意見や感情である。それらはみんな時代とともに、否、新聞雑誌などであれば、一日のうちに捨てられてゴミとなっていく。
そうしたはかない影のような人間の言葉と違って、永遠に残り続ける言葉がある。いかなる時代の変化や戦争、伝染病、飢饉、災害などいかなる事態が生じようとも、決してその力を弱めることなく続いてきたもの、そして弱った人間に力と救いを与えるもの、それが神の言葉である。
この聖書の箇所でペテロが言った短い言葉は、そうした不滅の言葉の重要性とそれに従う人間のすがたを強調している。
ペテロは漁師としての自分の長い経験があった。夜通し働いて何も収穫がなかったときにはもう体力的にも無理であるし、漁にいっても無駄であると知っていた。しかしペテロはそうした自分の経験を第一にはしなかった。
「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」という決断は、人間の言葉でなく、神の言葉に従う姿勢をはっきりとさせたのであった。そしてこれこそは、以後地上を去るときまで、ペテロの魂の中心にあったことと言えよう。
クォ・ヴァディスの有名な物語には、終りに近い部分に次のような内容がある。
ローマのキリスト者たちは、ペテロが迫害の激しいローマから逃げていき、別のところで福音を伝えてほしい、と願った。彼は信徒たちの懇願に従って、ローマを後にしていったがそのローマから続く道の途上でキリストが現れ、こう言うように聞こえた。「お前が、わが民を捨てるこの時、私はローマに行って再び十字架につけられるのだ」
ペテロは、それを聞いて深く心を刺され、顔を地に埋めて、身動きも言葉もなく地面に身を伏せていた。そして、恐れは主に会えた喜びに変わり平安をもって再びローマへと道を転じた。
たとえ、キリスト者からの助言や願いであろうと人間の言葉や意見、あるいは願いに聞くよりも、主イエスの言葉に聞いて従っていく、それがここにも見られる。
神の言葉に従ったら明白なよいこと、例えば人々からの称賛や豊かさ、健康、家族の平和、よい職業などが与えられるという保証はない。何が与えられるのかは分からない。歴史的にも、キリストに従ったがゆえに、そうした豊かさや安全、家族との平和などすべてを奪い去られた例は無数にある。
前月号でもそうした一部を紹介したが、日本においても江戸時代には恐ろしい迫害があった。
キリストの言葉、神の言葉に従うことは、何かこの世的によいことを期待してすることでなく、未知の世界に飛び込む決断なのである。
それは神の言葉が何ものよりも強く魂を導き、やむにやまれぬものが内からうながすのである。
パウロもキリストの愛が私に迫っている、と書いている。
こうした神の言葉に従うことの重要性は、聖書では最初に置かれた創世記から一貫して述べられている。聖書とはまさにそのことを説いている書物なのであり、神はそのことを私たちに告げているのである。
そしてまた聖書は最初からいかに人間が、神の言葉に従えないか、という実態をもはっきりと記している。
それはエデンの園におけるアダムとエバの記事である。み言葉に従っていれば生きるのに不可欠のよい食物や見ても美しいものに取り巻かれていた。しかし、人はそうした愛の注がれた神の言葉に背いて食べてはならない唯一のものに誘惑されてしまったのである。
このように、神の言葉に従うことから与えられる恵みの深みということが繰り返し強調されている一方では、そこからはずれ、み言葉に背くことから生じる罪の深み、裁きの深みということもまた聖書では克明に記されている。
キリストに従って、その言葉を聞き取り歩んでいくときには、どこまでも続く恵みの深みの世界へと導かれ、想像することもできない霊的な世界へと導かれる。このことを、パウロは、つぎのように述べている。
…信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。(エペソ書三・17~19)
これは、恵みの深みの世界である。キリストが私たちの内に住んで下さるということから、そのような目には見えない深みへと導かれていく。キリストが私たちの内に住むということは、キリストの言葉に聞き、従うということがまずなされねばならない。
それゆえにここに引用したパウロの言葉は、たしかに人間が究極的に到達するべき深い霊的世界を指し示していると言えよう。
旧約聖書の古い時代からこうした恵みの深みは繰り返し記されてきた。
ノアは「箱舟」で有名であるが、彼と他の人々との違いは、どこにあったかといえば、日々の生活を神に従ったこと、そして雨のわずかしか降らない乾燥地帯であるにもかかわらず、巨大な舟を造れという一見空しいこと、無意味なように見える神の言葉に従ったことであった。
それによって大洪水という神の恐るべき裁きが降りかかってきたときにもノアは守られ、大いなる神の恵みの道を歩むことになった。
また、アブラハムも同様であって、「私が指し示す土地に行け」という神の言葉を聞いて、それは大いなる力をもって迫ってきたゆえに、住み慣れた故郷を捨ててわざわざはるかに遠いカナンの地に行くようにとの神の言葉に従った。
アブラハムが入っていった恵みの道はたしかにどこまでも奥深いものがあった。そこから、全世界に祝福があふれ、無数の人たちが祝福を受けるという絶大なものであった。
そしてさらに彼は、子供が与えらないという長い間の苦しみの末に、やっと与えられた愛する子供を神にささげよと言われた。そのような考えられないような神の言葉に対してすら、アブラハムはすべてをゆだねて従った。
そうして驚くべき神のわざを体験するに至った。
…あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。
あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。(創世記二二・16~17)
この恵みの深みとは、全世界に、はるかな未来にわたって及んでいくほどの広く深い恵みであったのである。
また、イスラエル民族をエジプトから救い出したモーセにおいても、王子として育てられたが、自分がエジプト人でなく、ヘブル人であることを知って、同胞であるヘブル人がエジプト人によって苦しめられているのを見て助けようとしてそのエジプト人を殺すことになった。そのことが原因となってエジプト王から命をねらわれているのを知り、はるかな遠いところまで砂漠地帯を越えて逃げていった。そこで結婚し子どもも与えられて、羊飼いとしての生活をしていた。そこに神が現れ、再びエジプトに行け、との命令がなされた。ただの羊飼いにすぎない自分がどうして巨大な権力を持った王とおびただしいエジプトの人たちのただ中に行けるのかと、モーセは強くしり込みした。モーセは、かつてエジプトにいたとき、自分の王子としての地位を犠牲にしても同胞のヘブル人を命をかけて助けようとしたにもかかわらず、まったくよいことにはならず、自らそこを逃げ出していくしかなかったのである。
自分の意志の力、行動力でもって助けようとしても、はじき返されてしまったのである。
それはペテロが一晩中漁の仕事をしても何も得られず疲れ果てて帰って来たのを思い起こさせる。
そのような自分の力の無力さを思い知らされたところに、神の言葉が働いたのである。神はそうしたモーセにその言葉をもって強く迫った。
モーセはついにそのみ言葉に従うことを決断した。そして数々の困難を経てイスラエルの人たちはエジプトから導き出され、途中のシナイの山にて永遠の神の言葉となった、十の基本的な戒め(十戒)を神から受けたのである。
その十戒は現在においても、人間のあるべき基本的なあり方が示されている。この十戒に含まれる精神は、モーセから三千数百年を経てもなおその真理性が変わらないほど、人間の魂の深いところを流れているのである。このような永遠の真理を受けてそれに従って歩むというところに、恵みの深みがあった。そしてそこからはずれ、意図的に背くときどのような滅びの深淵に落ち込んでいくかということも、荒野での四十年の間にイスラエルの民は深く学ぶことになったのであった。
自分の楽しさとか、したいことを追求するのでもなく、単に本で学ぶということでもない。また安全とか安楽を求めていくのでもなければ、自分がそこで幸福になるといった期待でもなく、ただ神からの止むに止まれぬ強い働きかけのゆえに、モーセもまた「お言葉ですから、従っていきます」との心に変えられたのである。
そうしてそこから十戒をはじめとして、神の民の長い歴史があり、旧約聖書が生み出され、それは後にキリストに至るのであって、モーセがもし神に従わなかったらこうしたヘブル人(イスラエル人)の歴史はなく、キリストもなかったのである。
そしてキリストこそ、現実がいかに空しいように見えてもあくまで神の言葉に従うという最大の模範となった。主イエスは、三年間の伝道を通して十二人の弟子たちに多くの奇跡、神のわざを見せた。彼らは主イエスの霊と権威に満ちた教えと行動につぶさに触れることになった。
しかし、それでもなお、弟子たちの代表的な存在であったペテロたちや一般の人々は主イエスが逮捕されたときには繰り返し、イエスなど知らないといい、人々も重罪人のバラバを赦せ、イエスをはりつけにせよ、と迫っていった。そしてイエスは処刑された。
ここにも、三年間の愛と真実をもってなされた行動がすべて無に帰したかと思われるほどの状況があった。しかしそのような現実のただ中にあって、ゲツセマネの園で全身全霊を傾けて祈り、主イエスはあくまで神の言葉、神のご意志に従う道を選ばれた。
そしてそこから計り知れない恵みの深みへと、以後の無数の人たちが導かれていったのである。
私自身もその一人であって、自分の考えや願いだけで行動しているときにはつねにつきまとったある種の不満足、満たされないという気持ち、どこか得体のしれない暗い深みに落ち込んでいくという気持ちがあった。
しかし、ある時、主イエスの語りかけを聞かされた。その言葉に従っていこうとしたとき、今まで、どのようにしても自分の力では消えることのなかった闇の深みは解消され、初めて恵みの深みという世界が存在しているのに目を開かれたのである。
この世にはたしかに、恐ろしい滅びの深み、裁きの深みがある。それは耐えがたい苦しみであり、孤独である。
しかし、そこから神は人間の言葉や考えでなく、み言葉に従う道を啓示して下さったのである。そしてさらに他の人々に伝えるという心を起こして下さった。
このような、一人の魂における根本的な転換は、無数の人々において生じてきたのであった。キリストの力は個人を変え、個人の集りである社会、国家のかたちすら変えていったのである。
み言葉に従うことは、このように単に自分だけの平安や満足で終わるのでは決してなく、必ず他者に波及していくのである。しかもそれは民族を越え、国を越え、時代を越えて波及していく。
罪を知ること
この聖書の箇所で、さらに驚かされる内容が続く。それは、キリストの言葉に従って驚くべき大漁を得たときの使徒ペテロの反応である。一般的には、たいへんな奇跡が目の前で生じたら、それに圧倒され、そのような奇跡を起こした人をまざまざと見つめ、どうしてそんなことができたのか、とかこれは素晴らしい、もっと奇跡を見せてほしい、などという気持ちになるだろう。
特別に珍しいことには人々はいつも群がるものである。野球やゴルフ、あるいは映画スターなど有名人が来たら、多くの人たちは押し寄せる。その心はそのような特別の力を持った人に引きつけられていく。そして少しでもそばに近寄りたいと思って熱心に徹夜で待ったりする。
しかし、ここでは、この予想もしなかった奇跡的出来事を目の当たりにしたペテロは、そのような反応とは全く逆であった。
イエスのもとにひれ伏した。そしてこう言ったのである。
…これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。(ルカ福音書五・8)
ひれ伏すとは、最大限の敬意の現れであり、彼は自分の罪深さを直ちに知らされたのであり、恐れたのであった。それは罪深い者が神のもとに出ることは裁きを受ける、ということを深く知っていたからである。ここでペテロはイエスが神の子であり、神と同質のお方であり、神のように裁きをもなさる方であることを直感的に知ったのであった。
かつて、旧約聖書の預言者イザヤも、神の姿を見たことがあった。それは彼が預言者として呼び出された時であった。
…わたしは、主を見た。主は高く天にある御座に座しておられた。…上の方にはセラフィム(天使)がいて、…彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」…
わたしは言った。「ああ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザヤ書六・2~5より)
イザヤの最初の反応は、やはり自分の罪深さであり、そのゆえに裁かれてしまう、滅ぼされるという気持ちであった。
このように、神を見る、という極めて特別な恵みを与えられた者であっても、それを誇ったり、好奇心をもって近づこうとしたりするのでなく、自らの存在が罪深いということを光に照らされたように鮮やかに知ったのである。
ここに聖書の深い見方がある。私たちが前進するにはまず私たちがいかなる存在であるのかを深く知ることが出発点になる。 それがなかったら、私たちは神をも本当には知ることができない。この宇宙を支配している神は、私たちが罪深い本質であるということを知った上で、神にその赦しと清めを求めるように導かれる。そしてそれを幼な子のように受けとるとき、私たちは初めて前進できるようになる。
ペテロもイエスに従い、大いなる神のわざを直接に経験し、自分の罪深さに光が当てられ、そこから赦しを受けた。そうして初めて彼は使徒として歩み始めたのであった。
イエスはペテロに、「恐れるな、今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(ルカ五・10~11)
人間をとる、などという表現は現在の私たちにはなじみにくい。これは、人間を集めて、キリストのもとに連れて行くということである。キリストに従うとき、人は新たな力を与えられる。それは人間の魂に対する力であり、バラバラになっている人間の魂を集めてキリストに結びつけるという力が与えられる。
この世の状況は一つになる方向でなく、次々に壊れて、結びつきが離れていく本質を持っている。一本の木が倒れて放置されると、次第に微生物による分解が進み、風雨により、太陽光線によっても分解が早められ、ついには朽ち果ててしまう。
人間関係も似たところがある。いかにある時期に結びついていても次第に緩くなり、壊れていく。
死によってその破壊はさらに徹底的になされていく。
しかし、主に従う者たちは主と主を信じる人たちの関係が深まり、死後は永遠に結びついているであろう。
キリストの弟子たちは、神の力を受けて、そのように人間を集めてキリストのもとに連れて行き、結びつけていくという働きをすると言われているのである。
困難な時にも、苦しみのときにも、主は言われる、そこから主に信頼して深みへと漕ぎ出せ、と。
その時私たちが従うならば、この世の闇や死の力にさえ打ち勝つ、恵みの深みへと導かれることになるのである。