リストボタン主イエスの祈り  2005/11

祈りはだれでもできる。苦しいとき、追い詰められたとき祈らずにはいられないという心になる。十年ほど以前に、北海道でハイジャック事件があって多くの人質がとられたとき、当時の首相は神を信じる人でなかったが、犯人たちの言うままにするのか、特別警備隊を突入させるべきか、多くの人の命がかかっているゆえに、追い詰められた心になった。それが解決された後に、「あの時は、祈るような気持ちであった」と述懐していた。
本当に苦しいとき、人間の力ではどうすることもできないときには、人は祈るような心になる。
それは動物と根本的に異なるところである。
そのように、祈りはだれでもする。人間は動物とは根本的に異なる存在として造られたことは、次の記述に表されている。

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。(創世記一・27より)

神とは目に見えない、霊的な存在である。それゆえ神にかたどって創造されたとは、人間は霊的な存在であるということになる。だからこそ、目には見えない存在との交流ができるのである。それが祈りだといえる。
しかし、こうした人間の本性に由来する祈りは自分中心になる。いつも祈りは自分という存在を中心になされる。
この大きな壁を打ち破るような祈りを初めて明確に示されたのが、主イエスであった。それが主の祈りとして、全世界のキリスト教会で今も祈られているし、個人的にもこの祈りを軸として祈る無数の人たちがいる。
世界で最も繰り返し言われてきた言葉とは、この「主の祈り」であろう。多くの教会では毎日曜日の礼拝のはじまるたびにこの主の祈りがなされるから、世界中の教会を合わせたら、何百万、何千万回もこの祈りは、無数の人たちによって祈られていることになる。
この祈りはなぜ、そのように二千年もの長い間、民族や習慣、伝統の異なる人々に共通して祈られてきたのか、それは、それほどにこの主の祈りが、万人の祈りであり、いかなる時代になっても、この祈りの内容を変ることなく祈ることができるからである。

御国が来ますように。

主の祈りが万人の最も高くて深い内容を込めた祈りであるのは、この一つの祈りをみても分かる。この御国を来たらせたまえ!という祈りは、あらゆる場面で、あらゆる人の願いでもある。御国とは、神の御支配であり、その御支配とは完全な真理、そして真実な支配であり、愛であり正義そのものであるような御支配である。そのような愛と真実が自分の心にも、また他人の心にも、また敵対する人、悪意や中傷をする人たちにも来ますように、という祈りは、すべての人が持つことを本来は願っているはずのことである。
神の御支配の力が自分の心に与えられるなら、いろいろの悪や困難、病気などにも打ち負かされないであろうし、そうした状況に陥ってもその神の御力によってそれらをかえって前進のためのよき経験となし、その神の力によって相手をも変えていくほどになるであろうから。
また敵対する人に、神の国がもたらされるならそのような悪意も滅ぼされて、清い心へと作り替えられるであろう。
人間の集団である社会にあっても同様である。憎しみと不信、差別と搾取などが渦巻くこの社会に神の御支配が来るならば、そうした憎しみに代えて愛が、不信や差別に代えて、兄弟としての交わりへと変えられるであろうから。
私たちはつねに祈る、御国が来ますように、と。

こうした主の祈りの重要性のゆえに、全世界で今日もまたどこかの教会で、だれかがこの祈りを祈り続けているのである。
この主の祈りとは別に、主イエスがなされた祈りがある。それはヨハネ福音書にて詳しく記されている、最後の夕食(*)のときの祈りである。

*)通常は、「最後の晩餐」と言われることが多い。しかし、「晩餐」とは、日本語では、「豪華な夕食」を意味するのであって、主イエスや弟子がとった食事は、パンとぶどう酒などのごく質素なものであったから、「晩餐」でなく「夕食」というべきである。

そこでは、イエスご自身が最後のときを直前にして祈ったことが記されている。新共同訳聖書では、「イエスの祈り」と題されている。
主の祈りは、イエスが弟子たちの求めに応じて教えた祈りであり、最後の夕食での祈りは、主イエスご自身が祈った祈りである。
そこには、次のような祈りがある。

世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。(ヨハネ福音書十七・13

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。(同2123より)

このように、世を去るにあたってキリストを信じる者が一つになるということを特に祈り願っている。それは、キリスト教の歩みとともにさまざまの信仰の形が生れ、その違いを互いに尊重するということでなく、互いに退けあうという風潮があったことが推察される。
このことは、神は愛であり、愛こそが神の根源的な本質であるということと結びついている。憎しみや怒り、妬み、あるいは傲慢や無関心といった感情は、人間を引き離してバラバラにしていく。しかし愛は一つにする。
主イエスが最後の夕食の席で、遺言のようにして語ったと伝えられてきた教えの後の最後の祈りで、このように一つになることが繰り返し強調されているということは、愛の神ゆえのことであった。
神の愛を受けている者ほど、多くの人たちを霊的に見つめる。あたかも高い山の頂上から見つめるように、多くの人たちを翼のもとに集めようとするかのごとくに見つめるであろう。
真理に背くもの、悪を行なっている者、弱っている者、死に瀕しているものなどなどありとあらゆる人間が地上にはいる。そのような千差万別の有り様を示している人間に無関心であるのか、愛を持って見つめようとするのか、それとも敵視したり、軽蔑したり、恐れたりするのか、と問われている。神はそうした一切の人間が織りなす状況を見つめ、絶えず神に立ち返るようにと、語りかけておられる。

こうした祈りの後、イエスと弟子たちはゲツセマネというところに行く。

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。(マタイ福音書二六・3646より)

主イエスがいかに必死で祈られたか、それはこの福音書の記述でよみがえってくる。そしてその祈りには苦しみだけでなく、深い悲しみが宿っていた。何故の苦しみか、それは十字架で釘打たれるという極めて激しい痛みをまざまざと感じたからであろうし、自分がその苦しみから、できることなら逃れたいという気持ちがあって、そこに激しい苦しみがあったからだと考えられる。 このゲツセマネの祈りの中心は、二度繰り返されていることでも分かるように、「御心が行なわれますように」ということであった。御心とは、情緒的な心ではない。日本語では心というと、心やさしいとか、心が動かされるといったように、感情を表すというニュアンスが強い。
しかし、この原語(ギリシャ語)は、セロー(thelo qelw)であって、感情でなく、「意志」を表す言葉である。
それゆえ、つぎに引用したように、英語訳では will が大体において用いられ、あるいはそれに代わる表現が使われている。ドイツ語訳なども同様である。

Yet not as I will, but as you will.
NIV
Aber nicht wie ich will, sondern wie du willst.
Einheits-ubersetzung

人間の戦いとは三つある。一つは自然との戦い、二つ目は、他の人間との戦い、そして三番目は最も困難な戦い、すなわち自分自身との戦いであると言われる。
その戦いの本質はこのゲツセマネの祈りで主イエスが祈られたように、自分の意志や願いを第一にするか、それとも神のご意志を第一にしてそれに従うかということである。あらゆる犯罪や社会の悪、人間同士の争いや憎しみ、分裂などはみなこの、自分の意志、まわりの人間の意志に従っていくところにある。私たちが愛と真実の神、永遠に存在する万能の神のご意志を第一としないかぎり、つねに私たちは人間的な意志、願望を第一にしてしまうのである。
この問題は聖書の最初の書物である創世記から記されていることから分かるように、人間の根本問題なのである。アダムとエバは、神のご意志をとらずに、人間的な意志を第一にしてしまったのである。
このことがあらゆる人間の罪の根源だからこそ、聖書では巻頭に置かれた創世記の最初の部分にあのように記しているのである。
何をするにも、私たちは常に、まず神のご意志を尊重するか、それとも自分の意志、欲望や願いを第一にしようとするかが問われている。
主イエスは十字架を前にしてこの根本問題に真っ向から立ち向かわれたのであった。
このような霊的な激しい戦いをされていたにもかかわらず、弟子たちはみんな眠ってしまっていた。 大いなる試練のときがすぐそこに来ているゆえに、目覚めていなさい、と命じられていたにもかかわらず、弟子たちはみんな眠っていた。そしてイエスが祈りをして弟子たちのところに戻ると共に目覚めて祈っているというのとは正反対の状態、眠りに陥っていたのである。
主イエスが殺されるとまではっきり言ったにもかかわらず、そしてイエスが血の滴るように汗を流して全霊を傾けて祈っているのに、弟子たちはみんな眠っていた、さらにイエスが「目を覚ましていなさい」と命じたのに再び彼らは眠ってしまった。このようなことが三度もあったという。
十一人もの人間がこれほどまでに眠りに負けてしまったということは、意外なことである。誰か一人くらいは起きていたのではないのか、三度もイエスが起こしに来たというのは、あまりにもひどい眠りだ、と感じる。
しかし、ここでは弟子たちとは人間を象徴的に表している。現実の弟子たちがこのようであったということは、人間とは霊的に見れば、みんな眠っている、と言おうとしている。
そのような大いなる眠りのただ中において、主イエスは祈られた。現代の私たちもまた、霊的に見ればみんな眠っていると言えよう。
それは使徒パウロがローマの信徒への手紙で述べているのと同様である。

次のように書いてある。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ信徒への手紙三・1011

こうした状況は人間の心の状態を深く見つめるとき、神の真実や正しさを基準とすればみんな不純であり、霊的な眠りに陥っているということなのである。そのような状況であるからこそ、キリストが来られて眠り続ける人類のために、自ら十字架にかかって人々を目覚めさせ、罪を知るように導き、その罪をみずからが担って死に至ることを考えていたのである。
人間を目覚めさせるために、主は来られた。神ご自身のねがいは、人間が罪に目覚め、キリストを受け入れて罪を赦され、新しい力を得ることであったと言えよう。
バッハが作曲した、キリスト教音楽の代表的作品「マタイ受難曲」に付けられている歌詞は、ゲツセマネの祈りの部分につぎのように記されている。

わたしは、イエスのもとに目覚めていよう。
そうすれば、我らの罪は眠り込む。(マタイ受難曲Nr.20

Ich will bei meinem Jesu wachen.
So schlafen unsre Sunden ein.

これは、マタイ福音書には記されていないが、現代の私たちの日毎の祈りとなり得る。作詩者は、その点をくみ取ってこのような詩を付けたのであろう。
主イエスは必死で祈りつつ、三度も弟子たちが眠っているのを目撃した。三とは特別な数であり、象徴的な意味を持っている。完全なものを意味しているだろう。それはもう弟子たちの眠りは完全なもの、どうすることもできないほどの眠りであったということなのである。
そうした眠りが世界を覆っているゆえに、どこの国々でもさまざまの犯罪や戦争、憎しみや敵対する心などが絶えないのである。
しかし、そのような眠りの蔓延するただ中に主イエスは来て下さった。このバッハの受難曲の歌詞にあるように、その主イエスのもとで留まるならば私たちは目覚めていることができ、罪が眠り込むのである。
主イエスはこの祈りのとき、深い悲しみに包まれていた。それはほかでは全く記されていないことであって、特異なものと感じられる。

「わたしは死ぬほどに悲しい」と言われた。苦しみと悲しみが深く刻まれた祈りがゲツセマネであった。その悲しみは自分が十字架につけられる悲しみではない。そうではなく、弟子たちや人間たちのあまりにも罪深い姿のゆえであった。主イエスは神の子として未来のこともまざまざと見ることができた。主イエスが、十字架の処刑を覚悟しつつエルサレムに入ってくるとき、イエスは、つぎのように深い悲しみを表された。

エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて言われた。
「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
やがて時が来て、敵が周りに砦を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、
お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。(ルカ福音書十九・4144

この預言は、実際に紀元七十年にローマのティトス将軍に率いられた兵隊たちによって実現した。おびただしい人々がエルサレムにおいて殺され、神殿は破壊され、ユダヤ人は追放されてその後二千年近くにわたって、世界に離散していくこととなった。
こうした神の民への深い悲しみがあった。ゲツセマネの祈りにおいても、同様に人々のかたくなな心、そのままでは滅んでいくのをはっきりと見抜いていたイエスが深く悲しんだのであった。
このことは、すでにイザヤ書五十三章において預言されている。

彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。(イザヤ書五十三・34より)

He was despised and rejected by men, a man of sorrows, and familiar with suffering. …he was despised, and we esteemed him not.Surely he took up our infirmities and carried our sorrows,…
NIV

イエスはこの祈りのときに、苦しみもだえた、と訳されているように、はげしい苦しみに襲われた。そこに天使が現れてイエスを力づけた。そしてさらに必死になって祈られた。汗が血のしたたるように落ちた、と記されている。
こうした霊的な厳しい戦いをされているとき、サタンがイエスを何とかしてこの世の道に引き戻そうとしていた。その悪の霊との戦いのゆえにこのように苦しまれたのである。映画「パッション」において、その冒頭の画面でゲツセマネの祈りのイエスが現れ、そこにサタンが近づいている状況が示されていた。そしてイエスが最終的にサタンを踏みつけて勝利するのであった。
祈りとは霊的な戦いであるということを、このゲツセマネの祈りほどまざまざと示すものはない。
武力や人間の策略あるいは金の力などによらず、ひたすら霊の力によりイエスは悪に勝利された。それゆえに私たちが主イエスを信じるだけで、その勝利の力を与えられるのである。
祈りは、戦いである。私たちの祈りも単に何かの願いごとをするだけのものにとどまってはいけないのであって、目には見えない悪との戦いということがなされねばならない。
使徒パウロも、キリスト者の戦いとは、目に見える人間や組織に対するものでなく、悪の霊に対する戦いであると述べている。
そしてこの戦いの中心は、はじめに述べたように、神の意志をとるか、自分の人間的な意志をとろうとするかである。それゆえに、最も重要な祈りとして主ご自身が教えられた、「主の祈り」においても、この祈りが中心にある。
「御国がきますように。
御心が天に行なわれるとおり、地にも行なわれますように」
というのがそれである。すなわち、ゲツセマネの祈りの核心は、主の祈りと同じ内容を持っているのである。
それゆえに、私たちにおいても、この主の祈りを日々の祈りとして御国への道を歩ませて頂きたいと思う。


まことに、まことにあなた方に告げる。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。(ヨハネ福音書三・3)(**


*)一般的には、レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」という絵で知られているので、晩餐という言葉から、キリストと弟子たちとの最後の夕食は豪華な食事であるかのように、思われているかもしれない。しかし、パンとぶどう酒などのごく質素な食事であって、日本語の晩餐といった意味にはあてはまらない。

**)新共同訳では、「はっきり言っておく」と訳されているが、原文は、アーメン、アーメン、レゴー ヒューミーン であり、アーメンが二回繰り返されている。アーメンとは、「堅固にする」という意味のヘブル語「アーマン」と語源的に関連していて、「真実に」といった意味である。はっきりこれは特別な強調である。



三つの福音書
主の祈り、そして最後の夕食での祈り。そして十字架の直前のゲツセマネの祈り、

御旨が天に行なわれると同様に、地でも行なわれますように、という祈りは、ゲツセマネの祈りと共通している。
私たちの最大の困難な戦いは、自分の意志か、それとも神の意志に従うか、である。

弟子たちがみんな眠っていたとは、何を象徴するのか。

ゲツセマネとは、戦いである。キリスト者の生涯も戦いである。

共同の祈りと単独の祈り

共に目覚めていなさいグレゴリオ1世 (グレゴリオ聖歌 その様式
を完成させた教皇グレゴリウス一世(在位590604)の名にちなん
で「グレゴリオ聖歌」)

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